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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

異星人ヒーローから戦闘美少女への長い道

『ウルトラマン』45周年で話数限定で無料配信されているのを見つけ、第一話を見た。ウルトラマン、喋っている! 死んだ(殺した)ハヤタを見下ろして自分の生命をやろうと話しかけ、一心同体になると宣言して不気味に笑う怪人ぶり。悪い宇宙人(怪獣)を追ってきた良い宇宙人(警察)、完全に宇宙パトロールものだ(「光の国からぼくら/正義のために」ではなく、偶然地球に来てハヤタを巻き込んでしまったというわけ)。スーパーマンやナショナル・キッドのように宇宙人が普段は地球人の姿をして暮らしていて事あればタイトルロールになるのではなく、地球人が宇宙人(しかも犯人を追う刑事)の宿主になるという形式まで含め、ハル・クレメントの『20億の針』が発想源か。(☆1)

『仮面ライダー』が「変身」と名づけたのは、クラーク・ケントからスーパーマンへの早替りの変形だが、変身して戦うのを女にしたのは『美少女仮面ポワトリン』から? あれは完全に仮面ライダーを女の子にしたアイディアに見えた(数回しか見ていないが、日曜日のTV画面に鈴木清順が出てきて、しかも神様とか称しているので驚いた)。当時の勤め先で、あれを見ていた看護婦さんにポワトリ-ヌの意味を教えたら、どうしてそんな名前つけるのかと嫌な顔してたっけ。といっても、お色気路線ではなかったし、美少女にも(私には)見えなかった。『ウルトラマン』はむろん完全にホモソーシャルで、第一回でも桜町浩子は「女の子」呼ばわりされているが(見た目は今時の女の子――三十過ぎでも自称するような――ではない。昔は、大人は大人だったのだ)、それをさらりと受け流して仕事している、まさに「紅一点」だったが、むしろそのタイプ。

 そして言わずとしれたセーラームーンが来るわけだが、あれについて女のホモソーシャリティとかいうのは間違いだ。女のホモソーシャルとホモセクシュアルの連続性がどうのというのはセジウィックでもかなり怪しいわけで、もともと文化の中にそういう場所はないのだから、あれは美少女の展示場に過ぎない。『ポワトリン』の場合、お遊びであっても、女にヒーローをやらせるという新機軸があって、それはもしかしたら女にも一人前の働きをさせるといったフェミ的なものの反映だったかもしれないけれど、その後の“戦闘美少女”の繁栄を見ると、そういう方向へは向かわなかったようだ。

『ウルトラマン』は、『ミステリー・ゾーン』や『アウター・リミッツ』の模倣として生まれた『ウルトラQ』から、怪獣とそれと同じくらい大きいウルトラマンのレスリングへと舵を切った番組で、その先にあるのは博物誌的(「怪獣図鑑」や決め技の分類、図解等)男の子向けの商業戦略であったと思われる。では、女の子はヒーローものの何を楽しんでいたのだろう? 24年組世代の少女マンガ家たちが、男の子が関心を持つのは(少年ジェットが立ち木を真っ二つにする)ミラクルボイスだったが、女の子はジェットが敵に捕まってあわやといった展開が好きだったと貴重な証言をしていたのを思い出す。もちろん、男の子もそれに惹かれなかったわけはないのだ――意識的にか無意識的にか抑圧していただけで。もっとも、そうした繊細な同一化に、彼女たちがすでに子供時代を脱した時期に現われたヒーローの、いかにも鈍重な身体は向かなさそうだ。表情と内面を欠いた塩ビ人形的「ウルトラマン」は、性的潜伏期に入った鈍感な男の子向けキャラと言えるのではないか。

『20億の針』(中学生の頃読んだ)は、少年と彼の体内に侵入したゼリー状の異星生物(犯人を追って地球に来た)との関係が魅力的だった。岩明均の『寄生獣』を読んだ時、明らかにこれを下敷きにしていると思ったが、それは主人公と右手に寄生したミギーとの関係にまで及んでいた。『ウルトラマン』では「一心同体」というのはほとんど慣用句的にしか聞こえない上、最終回でハヤタはそれまでの記憶を失っているらしいが、『20億の針』と『寄生獣』では、少年と異星人のペアは文字通りそういう関係である。前者の場合、犯人が死んだあとも故郷の星へ戻る手段がないので、彼らはずっと共存することになる。ミギーの場合は、けなげにも進んで身を引く(主人公の体内で眠りにつく)。理由をつけてはいるが、明らかに、その直前に主人公が女友達と性関係に入ったせいだ。

『寄生獣』の例でもわかるように、潜伏期の後にあるのは、言うまでもなく〈女〉へ、ただひたすら〈女〉だけへ向かう性欲だが、「戦闘美少女」の時代には事情が少々違うようだ。ヒーローにヴァルネラブルな受動性を見るのではなく、戦う少女にそれを見る――彼女たちはむろん女性観客のために作られたのではなく、ホモソーシャリティを忌避して少女の自意識に感情移入したい男たちのためにいる。しかしこの男たちは女の味方ではなく、しばしばホモフォビックかつミソジナスである。

 以上のような最初のアイディアをtatarskiyに伝えたら、少年はホモソーシャルなメンバーとして「男」になることが予定されているが、戦闘美少女は〈女〉になることのない「人形」なのだと言われた。いかにもその通りなのだが、しかし、少年もエロティックな「人形」なのではないのかと言うと、だから、「父に対する受動的態度」の外在化が「人形」 (☆2)なのだと言われた。なるほど、普遍的に考えるというのはたいしたものだ。

(以下、tatarskiyさんの助言による、補足のためのメモ)

女のホモソーシャリティはないということについて
少年は社会的に一人前になって女を所有する。女との違いは、性的な主体性があるかないか。
女には、一人前の構成員として認められる社会がそもそもない。

ホモとヘテロという線引きを主体化のために必要とするのは男。
男が男に対して受動性になることをタブーとしてと男の主体が規定されたあと、それを補完するものとして女が規定される(そのようなものが女と呼ばれる)。

男がいて〈少女〉がいるのであり、その逆はない。
男に欲望されなければ意味のないものであり、男がその内面を好きに投影できるのが少女である。
少女とは“男にとっての女である”以上の余計なものを一切持たない存在。

少女とは免責されたイノセンスであり、少女が戦うのはイノセントのまま暴力を振るいたいという男の願望の具現化。男なら責めを負わなくてはいけないが、少女なら咎められない。責任を永遠にまぬかれている存在。

主体として責任を負うことに男が堪えられなくなっている。弱さとか無垢なそぶりを許容されたい。自分が可哀想と言いたい。少女を守るのではなく、自分が少女になりたい。
男を見たくない。女が仲良くしているところだけを見たい。
ハーレムアニメを発展させると百合アニメになる。
男に動物的な「本能的な」性欲があると信じることが、こうした男の屈折のありようを見えなくしている。




☆1 20億というのは当時の地球人口。第二話の「バルタン星人現わる」を見たら、世界の総人口は22億になっていた。そこへ、故郷の星を失ったバルタン星人が移民したいと言ってきたのを、最初は、法を守れば住まわせてやるとか言っていたウルトラマン(ハヤタ)、彼らが20億いると聞いて、「バクテリア大」に縮小された20億人が乗っている円盤をあっさり爆破。難民船を撃沈か!

☆2 「人形」については以下に詳しい(長いけど)。
安宅凜/鈴木薫「砂男、眠り男――カリガリ博士の真実」



by kaoruSZ | 2011-10-16 14:25 | 批評 | Comments(0)