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以下は標題についてtwitter(http://twitter.com/#!/kaoruSZ)に書き継いだ断章をまとめたものである。件の金メダリスト、私は全く知らなかったが、歌川たいじ氏にしても同様で、ゲイだとカムアウトしているマンガ家で選挙に出たりもしているらしいが、知名度がどれくらいあるものか判らない。しかし、ゲイ男性の中では当然のことながら有名なのであろう、内柴事件への彼の発言に対し、twitterにおいて非難が相次いでいるのを見た。それについて思うところを書いたが、twitterで拾うのはいかにも読みにくいのでここに置くことにする。なお、文中に出てくるデヴィ夫人によるセカンドレイプとは、女である被害者は強い男性から性交されることを望んでいたはずで、事後に相手の態度が変わって訴えたのだろうと断定的かつ恫喝的にブログに書いたことを指す。
誤字脱字、段落のみ一部修正、ゴチック等の編集を加えた。なお、原文はtwilogで読むことができる。http://twilog.org/kaoruSZ 2011年12月09日(金) (…)TL等を見てどうにも気分がよくないので「内柴く〜〜ん、相手がゲイだったらみんな大歓迎なのに〜〜」発言について書くことにする。急いでつけ加えるが私は歌川たいじ氏のこの発言で嫌な気分になったのではない。「せんせ〜〜い、歌川くん悪いんですよ〜.」という騒ぎにである。 参照先http://togetter.com/li/224709 まず、歌川氏がゲイなら被強姦OKと言ったのではないことを確認したい。ゲイなら同意の下に性関係を持てたろうと言っている。これは状況を異化するものではあっても被害者軽視ではない。勿論「デヴィもイケメンの味方なんだw」発言はNGだが。 歌川発言は第一義的には加害者への揶揄だ。ゲイも強姦される事が隠蔽されるというがそれはまた別の話。ここで女と同じように男もと言うことは、男にとっては軽口の種にし笑い飛ばせることが女にはシャレにならないという非対称性を隠蔽する。誰も、ゲイならみんな内柴オケなのかなんて思わないよ。 男同士が快楽を目的に性関係に自由に合意することと、女が男に同意することとは違う。輪姦でも同意ありと言い張るリアリティの無さは、金か愛情か婚姻か理由づけは何であれ女はそもそも男に「やられる」べきものと信じられているからだ。男の身体を持った者がこのように規定されることはありえない。 2011年12月11日(日) 歌川発言続き。私は氏自身は軽薄と思うが悪感情は持たない。女の被害の大きさが分らないのは単に男だから。被害者を軽視ではなく女に無関心なのだろう。ちなみに「関心」満々でセカンドレイプする男最悪。私が不快なのは発言を機に湧き上った怒りと反省の道徳的言説(女のためには全くならない)だ。 ゲイが性的暴力やセクハラ歓迎なんてありえないとゲイ男性がツイートしていた。歌川氏そんなこと言ってないだろう! コーチに姦られるファンタジーなんてゲイポルノには幾らでもある。レイプされる性的空想について語る同性に男が誤解するからやめろと干渉する女とおんなじ事をなんで男がやるのか。 今のは修辞的疑問ではない。元発言を離れて(曲げて)何が忌避され、嫌悪されてるのか。やっぱり「犯されたがっている女」というイメージだろう。ゲイが「女」扱い、娼婦扱いされるのが嫌なのだ。やおいが男女関係の写しという非難が、要するに女扱いされたくないミソジニーから来ているのと同根。 2011年12月22日(木) 歌川発言もう収束したのだろうし、発言自体には興味がないと前にも書いた。むしろあれへの反響の不愉快さの正体について9ー11日までにツイートし、別口の議論で中断したが、少々補足して終りたい。 twilogもあるが簡単にまとめれば、私の嫌な気分は発言を機に噴き上った怒りと反省の道徳的言説にあり、元発言を離れて(曲げて)、嫌悪、忌避されているのは「犯されたがっている女」というゲイイメージであり、それは女扱いされたくない「ミソジニー」から来ていると論じた。 女が道徳に頼るのは(感心しないが)理解できない訳ではない。「これから犯します」的言説や、同意の有無が女に不利に解釈されるのでも分るように、女はスキがあれば犯してもよい存在とされている。礼儀や品性や女の貞淑さでしかそれが押しとどめられないと分っているから多くの女は道徳に走る。“正しい女”でないとひとたび裁定されればどんなことになるか。デヴィはそれを利用してセカンドレイプした訳だが何をしているかは本人重々承知していよう(彼女自身その中で生きてきた訳で)。今回私が一番気分が悪かったのは“歌川氏に道徳的非難を向けた人たちが自覚なしにやっていた事”だ。 歌川氏の「ゲイだったら大歓迎」発言は、ゲイに対する偏見を増す―見境いなしに相手構わずセックスし長期の関係を築けないと見なされる―と非難されていた。しかし、「唯一の相手との永続的な関係」とは“正しい異性愛”のコードそのものではないか。それも、実際には女に偏って適用される種類の。女にとっては強制であり抑圧であるようなものを、道徳的であれと規範から強制されている訳でもないゲイ男性がなぜ称揚するのか。ゲイの関係性やパートナーシップの考察は、ゲイの性被害者の問題同様、この事件とは別の議論だろう。 女から誘うとは突きつめれば売春婦のものとされる行為である。ゲイから誘われホモセクシュアルパニックに襲われたと称する加害者が無罪になる時、そのゲイとは「女」であり、その根源にあるのはゲイへと向けかえられたミソジニーだ。 正しくない、男を陥れ、破滅させるような女(誘っておきながらレイプだったと騒ぎ立てるような)は何をされても仕方がない。そのような女こそデヴィが被害者を仕立てようとしたイメージだ(彼女は男には文句を言わず、夫人という称号を手放さず、けっして騒ぎ立てずに他の女を叩く事に向かう)。 ゲイが自分たちはそんな「女」ではないと言い立てたところで本物の女を抑圧するだけだ。歌川氏という、ゲイの“ふしだらさ”を衆目にさらしてしまった、恰好の標的を得て、男の不道徳をなじる女のように生真面目に、貞淑に振舞いはじめる人たちは、どんな先生にほめられたいのか。そうする人にはそれなりの動機があろうがそれが被害女性のためでもあるように語られるとしたら欺瞞でしかない。女の場合は、自分は貞淑であり“ふしだらな女”ではない、従って保護や支援に値するというアピールをし続けるしかないが、ゲイは男なのでその気になれば「女」そのものを他者化できる。 “正しい”ゲイイメージを保とうとするゲイ男性は、戯れに女を演じることはあっても、いつでもそこから降りる特権を持っている。しかし、スティグマは生物学的女性に残され、女はそこから逃れられないのだ。 2011年12月26日(月) RT @noname_gay: @me_me658 「ゲイならレイプ歓迎」に対して、マジで「僕はゲイだけどレイプは嫌です!」と批判するのは実はあんまりピンとこないんですよね。この元発言から本当に「ゲイはレイプOKなんだ!」って思う人はさすがにいない気がしたので。このあたり受け取り方は人によって異なるかもです。 “マジで「僕はゲイだけどレイプは嫌です!」”←学級会の発言かと思ったわ。 2011年12月27日(火) 12月2日に、“男は「痴漢総攻撃されるゲイAVを目にしても」脅かされないが女はそうでないことについては構造的な理由(実現可能性の高低ではない)を指摘できるはず”と書いてそのままになっていた。続きをやることにする。 @NaokiTakahashi さんが 「すげーもんがあるなあとか、人によっては嫌悪感とかは」あるかもしれないが恐怖は感じないだろうと書かれていた通りで、男はそういう表現を怪物に襲われているのを見るように傍観者として見ることができる。面白がるも異常視するも自由。 しかし女にそのような“遊び”(機械に“遊び”があるというような)の余地はない。それは、単に現実の攻撃が高い確率でありうるという理由からではない。男は性的対象として描かれたとしても、それが男の本質だなどということにはならない。しかし女は制度的にそのような存在として規定されている。ヘテロ男性が男に犯されるポルノがヘテロ男性にとって脅威にならないのは、自分に向けられた欲望を「否定するのが当然のものとして」否定できるからだ。 男は、同性からの欲望を、自分の欲望は別にあり、それは女との性交だという、文句のつけられようのない理由で否定することができる。自分を狙わないでくれよと言ったとしても、それは脅えによるのではない。男には、「男のファンタジーを内面化して男に相手にされる」必要は全くないのだ。 女にはそういう態度はありえない。本当に拒絶したら女としての居場所がない。道徳を楯にして拒むか、それとも応じるか。“正しい女”になるか“娼婦”になるか。拒否することも受け入れることも織り込み済みの反応であり、レイプとはそうした状況を極限化したものに過ぎない。 言うまでもなく、正しさの範囲は時代によって変わる。「結婚を前提に」「許し」ていた人たちから見れば、今の女は“娼婦”としか思えまい。しかし、もちろん“娼婦”が性を謳歌している女というわけではないので、「男の性的ファンタジーを内面化して男に相手にされる」ことが素人女にまで要求されてきたとも言える。“正しい女”であれば守ってもらえた過去に較べて、別の部分でより苛烈になっているとさえ言える。 この話、歌川発言をめぐる一件と、実は通じるものである。あれに対する(主に)ゲイ男性の道徳的リアクションに覚えた私の違和感、不快感については、9-11日及び22日にポストした。さらに、@noname_gayさんの発言は頷けたので上にリツイートしてあるが、彼はまた次のようにも言う。 RT @noname_gay:@me_me658 はい、「「ゲイは歓迎」って言ってるだけ」的な要旨でしたよね。自分も内柴イケるので可能ならヤリたいとは思っています(笑)ちなみに「ゲイならレイプ歓迎」については、ゲイの場合レイプさえもファンタジーにすることがあるので、自分はそれほど問題視はしてませんでした。 前半は、歌川氏が「レイプ歓迎」と言っているのではないことの確認。後半について―「レイプさえもファンタジーにする」のは別にゲイに限ったことではないが、女の場合との違いは、通常女は歌川氏のように能天気には公言できないということだ。現実の強姦の被害者が公然と誹謗されるのだから。 ここで理不尽な目にあっているのは女であってゲイ男性ではない。ゲイ男性がヘテロ男性の目から女と見なされることがあったとしても、どこまでもゲイ男性は男である。つまり、本人の固有な性的欲望があるのが当然(男だから)と思われている。つまり、ヘテロの男が自分には固有の欲望(固有のファンタジー)があると主張して他の男からの欲望を拒否できるのと全く同じように、ゲイ男性は(男だから)ヘテロの男と違うファンタジーを持つことを当然と思われている。 むろん、欲望とはそのようなタコツボ的に決定されたり、別々に固定されたり、それだけが宙に浮いているようなものではなく、流動的、横断的な、“遊び”のあるものであり、それは女にとっても同様だ。だからこそ、彼女の欲望は男にとっての女という枠には収まらないのだ。しかし、女には男のファンタジーを補完することしか許されず、女として生きるために女は男の考えを知ろうとし、必死に男に合わせようとする。逆に男が女を分らないのは当然のことながら彼女が予定調和的に男を補完する存在でなどあるわけがないからで、単にその余剰の部分を男が謎と呼ぶのだ。 こうした事情が呑み込めているとも思われない、ためにする学級会的議論の不愉快さについてはすでに述べた。繰り返しになるが、男のくせに女を抑圧する女の真似をしてどうする、ということだ。 『ウルトラマン』45周年で話数限定で無料配信されているのを見つけ、第一話を見た。ウルトラマン、喋っている! 死んだ(殺した)ハヤタを見下ろして自分の生命をやろうと話しかけ、一心同体になると宣言して不気味に笑う怪人ぶり。悪い宇宙人(怪獣)を追ってきた良い宇宙人(警察)、完全に宇宙パトロールものだ(「光の国からぼくら/正義のために」ではなく、偶然地球に来てハヤタを巻き込んでしまったというわけ)。スーパーマンやナショナル・キッドのように宇宙人が普段は地球人の姿をして暮らしていて事あればタイトルロールになるのではなく、地球人が宇宙人(しかも犯人を追う刑事)の宿主になるという形式まで含め、ハル・クレメントの『20億の針』が発想源か。(☆1)
『仮面ライダー』が「変身」と名づけたのは、クラーク・ケントからスーパーマンへの早替りの変形だが、変身して戦うのを女にしたのは『美少女仮面ポワトリン』から? あれは完全に仮面ライダーを女の子にしたアイディアに見えた(数回しか見ていないが、日曜日のTV画面に鈴木清順が出てきて、しかも神様とか称しているので驚いた)。当時の勤め先で、あれを見ていた看護婦さんにポワトリ-ヌの意味を教えたら、どうしてそんな名前つけるのかと嫌な顔してたっけ。といっても、お色気路線ではなかったし、美少女にも(私には)見えなかった。『ウルトラマン』はむろん完全にホモソーシャルで、第一回でも桜町浩子は「女の子」呼ばわりされているが(見た目は今時の女の子――三十過ぎでも自称するような――ではない。昔は、大人は大人だったのだ)、それをさらりと受け流して仕事している、まさに「紅一点」だったが、むしろそのタイプ。 そして言わずとしれたセーラームーンが来るわけだが、あれについて女のホモソーシャリティとかいうのは間違いだ。女のホモソーシャルとホモセクシュアルの連続性がどうのというのはセジウィックでもかなり怪しいわけで、もともと文化の中にそういう場所はないのだから、あれは美少女の展示場に過ぎない。『ポワトリン』の場合、お遊びであっても、女にヒーローをやらせるという新機軸があって、それはもしかしたら女にも一人前の働きをさせるといったフェミ的なものの反映だったかもしれないけれど、その後の“戦闘美少女”の繁栄を見ると、そういう方向へは向かわなかったようだ。 『ウルトラマン』は、『ミステリー・ゾーン』や『アウター・リミッツ』の模倣として生まれた『ウルトラQ』から、怪獣とそれと同じくらい大きいウルトラマンのレスリングへと舵を切った番組で、その先にあるのは博物誌的(「怪獣図鑑」や決め技の分類、図解等)男の子向けの商業戦略であったと思われる。では、女の子はヒーローものの何を楽しんでいたのだろう? 24年組世代の少女マンガ家たちが、男の子が関心を持つのは(少年ジェットが立ち木を真っ二つにする)ミラクルボイスだったが、女の子はジェットが敵に捕まってあわやといった展開が好きだったと貴重な証言をしていたのを思い出す。もちろん、男の子もそれに惹かれなかったわけはないのだ――意識的にか無意識的にか抑圧していただけで。もっとも、そうした繊細な同一化に、彼女たちがすでに子供時代を脱した時期に現われたヒーローの、いかにも鈍重な身体は向かなさそうだ。表情と内面を欠いた塩ビ人形的「ウルトラマン」は、性的潜伏期に入った鈍感な男の子向けキャラと言えるのではないか。 『20億の針』(中学生の頃読んだ)は、少年と彼の体内に侵入したゼリー状の異星生物(犯人を追って地球に来た)との関係が魅力的だった。岩明均の『寄生獣』を読んだ時、明らかにこれを下敷きにしていると思ったが、それは主人公と右手に寄生したミギーとの関係にまで及んでいた。『ウルトラマン』では「一心同体」というのはほとんど慣用句的にしか聞こえない上、最終回でハヤタはそれまでの記憶を失っているらしいが、『20億の針』と『寄生獣』では、少年と異星人のペアは文字通りそういう関係である。前者の場合、犯人が死んだあとも故郷の星へ戻る手段がないので、彼らはずっと共存することになる。ミギーの場合は、けなげにも進んで身を引く(主人公の体内で眠りにつく)。理由をつけてはいるが、明らかに、その直前に主人公が女友達と性関係に入ったせいだ。 『寄生獣』の例でもわかるように、潜伏期の後にあるのは、言うまでもなく〈女〉へ、ただひたすら〈女〉だけへ向かう性欲だが、「戦闘美少女」の時代には事情が少々違うようだ。ヒーローにヴァルネラブルな受動性を見るのではなく、戦う少女にそれを見る――彼女たちはむろん女性観客のために作られたのではなく、ホモソーシャリティを忌避して少女の自意識に感情移入したい男たちのためにいる。しかしこの男たちは女の味方ではなく、しばしばホモフォビックでミソジニスティックである。 以上のような最初のアイディアを平野智子に伝えたら、少年はホモソーシャルなメンバーとして「男」になることが予定されているが、戦闘美少女は〈女〉になることのない「人形」なのだと言われた。いかにもその通りなのだが、しかし、少年もエロティックな「人形」なのではないのかと言うと、だから、「父に対する受動的態度」の外在化が「人形」 (☆2)なのだと言われた。なるほど、普遍的に考えるというのはたいしたものだ。 (以下、平野さんの助言による、補足のためのメモ) 女のホモソーシャリティはないということについて 少年は社会的に一人前になって女を所有する。女との違いは、性的な主体性があるかないか。 女には、一人前の構成員として認められる社会がそもそもない。 ホモとヘテロという線引きを主体化のために必要とするのは男。 男が男に対して受動性になることをタブーとしてと男の主体が規定されたあと、それを補完するものとして女が規定される(そのようなものが女と呼ばれる)。 男がいて〈少女〉がいるのであり、その逆はない。 男に欲望されなければ意味のないものであり、男がその内面を好きに投影できるのが少女である。 少女とは“男にとっての女である”以上の余計なものを一切持たない存在。 少女とは免責されたイノセンスであり、少女が戦うのはイノセントのまま暴力を振るいたいという男の願望の具現化。男なら責めを負わなくてはいけないが、少女なら咎められない。責任を永遠にまぬかれている存在。 主体として責任を負うことに男が堪えられなくなっている。弱さとか無垢なそぶりを許容されたい。自分が可哀想と言いたい。少女を守るのではなく、自分が少女になりたい。 男を見たくない。女が仲良くしているところだけを見たい。 ハーレムアニメを発展させると百合アニメになる。 男に動物的な「本能的な」性欲があると信じることが、こうした男の屈折のありようを見えなくしている。 註 ☆1 20億というのは当時の地球人口。第二話の「バルタン星人現わる」を見たら、世界の総人口は22億になっていた。そこへ、故郷の星を失ったバルタン星人が移民したいと言ってきたのを、最初は、法を守れば住まわせてやるとか言っていたウルトラマン(ハヤタ)、彼らが20億いると聞いて、「バクテリア大」に縮小された20億人が乗っている円盤をあっさり爆破。難民船を撃沈か! ☆2 「人形」については以下に詳しい(長いけど)。 平野智子/鈴木薫「砂男、眠り男――カリガリ博士の真実 」 入沢康夫(11.3で80歳)がtwitterやってる!
「"ががががが"入沢康夫」の検索ワードでうちに来た奇特な人がいて、ふと検索してみて知る。
今年四月上旬のこと。節電中のかつてない暗い渋谷で、二日続けてソクーロフの映画を見た。『ファザー、サン』の始まり、何も知らないでセリフなしで見たらゲイポルノと思うだろう。どの部分かも判然としないまま、抱き合い、揉み合っている肉体、開いてゆく口(?)――身体のどの開口部かもわからない(だいたい、映像の出る前からタイトルの後ろでハアハアいっていた)。息子が悪夢をを見て殺されそうになったところを、父に起こされ、助けられたのだと判明。父の胸にすがる息子。といっても子供じゃない。そして父……若すぎる!(エルフの父子かw)。昔見た『マザー、サン』は老母と息子の、これも周囲から隔絶した愛だったが、こちらもチラシには退役軍人の父と軍人養成学校の生徒の息子とある。誰だって、年寄りかと普通思うだろう。あと、父子の確執とかのテーマかと。だが、そんなものはまるでなし(トールキンと同じ!)
父が二十歳の時の息子で、妻は(都合よく)早く死んでしまったそうだ(トールキン!)。学校に面会に行って、同級生に息子を呼ぶように頼んで、父親なんだとわざわざ断っている。そりゃ、彼氏にしか見えないもの。息子の彼女も面会に来るが、私よりお父さんの方が大事なんでしょうと愛想づかしされる。全く、どういう映画なんだ。父子だと言えばなんでもできるのか(神話を口実にヌードを描けたようなもの)。前の日に見た『ボヴァリー夫人』は、夫と恋人たちには別人のような美女に見えているとしか思えない、鳥ガラのような険のあるエンマで、レオンとの情事が母子相姦にしか見えなかった。夫と、そして二人の情人と、律儀に全裸のセックス・シーンが繰り返されるが、『ファザー、サン』の一場面ほどにもエロティックでなく、夫婦の朝食のポットにとまる夥しいハエのように、昆虫の生態と思って撮っているとしか思えない。 中国語のタイトルは『父子迷情』だという。ためしに検索してみたら(中国語は読めないけれど)文の最後に「一対恋人」の文字を見つけた。さすがにそう思わない人はいまい。トールキンの『失われた道』、ソクーロフなら撮れるだろう。 ☆ トールキンと『失われた道』については、以下に書いた。 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou10-1.html http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-9.html 以下の文章は、最初、去る8月15日に発行された「Web評論誌コーラ」14号に載せるつもりで書かれた。しかし、編集人に掲載を断わられ、理由の説明が納得の行くものではなかったので、掲載予定だった連載原稿を引き上げ、今後の寄稿も中止した。なぜ「コーラ」で意見表明することに拘ったかは、本文に書いた通りである。
時間が取れればこの本をもっときちんと批判したいところだが、思うにまかせないので、元原稿に手を入れたものをとりあえず公表する。後に少々追記を加えた。 ++++++++++++++++++++++++++++++++++++ 私は絶対安全ポルノを支持しない 鈴木 薫 この場を借りて、守如子の著書『女はポルノを読む――女性の性欲とフェミニズム』についての筆者の考えを表明しておきたい。というのは、「コーラ」2号で私が守さんの「ユリイカ」に載った論文「ハードなBL その可能性」を好意的に紹介した文章、「やおい的身体の方へ」 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-2.htmlの一部がこの本に引用されている上、あとがきに並ぶ協力者への謝辞の中には私の名前もあるからだ。しかし私はこの本をクズだと思っている。 「コーラ」2号の拙稿で、私は守さんの“可能性”を最大限引き出そうと努めたつもりである。しかし本書の中で守さんは、そこから私の文意を曲解して引用している。また、個人的な会話の中で私が話したことを、自分の意見であるかのように書いている(これについては本人も“うっかり”出典を記さなかったと認めたが、この件についての話し合いはできていない)。これらの詳しい内容については今後明らかにして行きたい。 しかし、実のところ、そうした個人的な事情は瑣末事に過ぎないと思えるほど、本書の内容には問題が多い。守さんはこの研究に十数年を費やしており、御本人が素晴しい本ができたと思っているのなら私がそれに口を挟む理由はない。ただ、私がこの本の内容に賛同していると思われるのは迷惑なので、まずその点だけははっきりさせておきたい。 今回は一つだけ具体例をあげておくにとどめるが、本書の最後で、守さんは奇妙な議論をしている。暴力的なアダルトビデオを見て、自分が性暴力を受けたような恐怖感から逃れられなくなってしまったという、あるフェミニストのエピソードを受けて、ビデオ制作時に強制や暴力がなかったという証明(「アダルトビデオにメイキング映像をつけることを義務づけ、出演者に対する契約違反がないかどうかを示すといった方法」)を商品に付けるというアイディアを提出しているのだ。 「登場する人々がいやな思いをしていないことを何らかの形で提示することは、登場する人々の労働条件をよくするためにも、視聴者の安全化を図るためにも意義があるだろう」(本書213頁注)。 ファンタジーの話だっだはずが、こういう話題へ横滑りすること自体おかしいが、どうしてこのような発想になるのか、奇怪ではあるがわからないこともない。守さんはかのフェミニストがポルノを批判していたそもそもの原因である、男性のヘテロセクシュアリティの覇権性の問題を直視できず、“安全化”という偽の問題にすりかえたのだ。 男性のヘテロセクシュアルなファンタジーは、いわゆる「多様な」ファンタジーの一つではない。それは現実を規定する覇権そのものであり、それ以外のファンタジーと同列と見なせるような相対的なものではないからだ。 それは「現実であるとされているファンタジー」であって、相対化されうるとすら思われていない。たとえ現実離れした内容であっても、そのファンタジーを抱く、欲望する主体としての男の地位は揺らがない。女とは、つねにその欲望に応えるものとして召還され、その欲望を満たすべく存在するものとして位置づけられる。原理的に言ってヘテロセクシュアルな男性主体は、自らの受動性を否認し(受動性は女として外在化され)、性的なものとして存在するのは女である(それが女の本質である)とする一方、彼自身は同性に対して受動的になること(=女になること)を最大のタブーとすることで成立する(ホモフォビアの起源)。このように男性のヘテロセクシュアリティは、単なるポルノにとどまらない、基本的で広範な「現実」を構成している。ポルノをこわがるフェミニストは、現実とフィクションをいたずらに混同していたのではなく、この幻想(つまり「現実」)の圧倒的な力を恐れていたのだ。 犯される(お望みなら、暴力的に)というファンタジーは、それ自体なんら問題のあるものでも、特別なものでも、驚くようなものでもない。レオ・ベルサーニが「少なくともそれが構築される段階では、セクシュアリティはマゾヒズムの同義語である」と言っているように、根源的なものでさえある。しかしそれは、なぜ「女が犯される」という形としてしか提示されないのか(念のため言っておくと、これに対立するものは、男が女にではなく、男が男に犯されることである)。なぜ、女でないとだめなのか(なぜ、女が“男同士”を好むのかと訊く前に、こう尋ねるべきなのである)。ヘテロセクシュアルに主体化された男にとって、男(自分)が犯されること(それが快楽的であること)はファンタジーとしてすら認められず、だから、外在化された〈女〉にファンタジーを投影するのである。言うまでもなく、そうした男のファンタジーに対応するものが女の側に本質的にあるわけではない。 しかし、女の性的空想やマスターベーションといったトピックに向けられる男の関心は、女のファンタジーが自らのそれを補完するものであってほしい(あるべきだ)という期待(と確信)に基づいている。女が自分の思うようなものでないと知ることは、しばしば男の側に、女に対する強い蔑視や怒りや憎しみを引き起こす。「女は何を望んでいるか」(これはフロイトの問いだ)の真実の答えなど、本当は誰も聞きたくないのだ――女の性的なファンタジーが“あなたと性交すること”以外であるなどとは。女には実のところ、男との関係性の中で娼婦としてふるまうこと以外、想定されていないのだし、そういう夢想をしている女ということになれば、容易にポルノグラフィーの(ポルノとは娼婦の意味だからこれは同語反復だが)対象にされる。 守さんはもともと、男の異性愛ファンタジーの中の〈女〉が、彼女自身がその一人である現実の女と同一視されることに異議申し立てをしたかった、そして、女も男と同様、性的な表現物を積極的に楽しめる、固有の性欲を持った存在であり、哀れな被害者などではない、性を享楽する主体であると主張したかった人のはずである。しかし守さんは自分の性的ファンタジーを認めてもらうには、男性のヘテロセクシュアリティの権力性を批判してはならないと思ってしまった(ついでに言えば守さんは、受動性がタブーだからこそ、男にとって受動的になることが禁じられた夢であることもわかっていない。それだから、ポルノに表現された男のセクシュアリティをたんに攻撃的なものと見誤るのであり、その点でビデオをこわがるフェミニストと本当は変わらない)。一方彼女は、フェミニズムにはあくまで恭順な態度を取る。その理由はいうまでもなく(本書を読めばわかるように)、フェミニズムとは彼女にとって、自己の正当性を保証してくれる不可欠なドグマであるからだ。 守さんは制度的な「男性のヘテロセクシュアリティ」の前では思考停止し、“私たちのファンタジーはドグマに沿った「正しい」ものだから許してください”としか言えない――男に対しても、ポルノに反対するフェミニストに対しても(安全ポルノの証明とは、言ってみれば「正しく」なければ女は楽しめないと主張しているわけで、これほどまでにリアリティのない主張がよくできるものである)。これは個人の(性的嗜好を含めた)人格よりドグマが優越することを自明とする、女性の性的人権を認めているとは、到底言いがたい態度である。これでは、女が「男並みに」ポルノを楽しみたいなら、フェミニストが異性愛男性に求めてきた「道徳的要求」(むろん、そんな要求が受け入れられたためしはない)と同じものを「男並みに」受け入れよという、新たな貞淑さの押しつけにしかならないではないか。 「無垢でもなんでもない私」からはじめなければならないと守さんは言う。こういう言い方が出てきた、(いわば)歴史的背景は理解できる。母親として子供に対する悪影響を心配し、「正しい性」に固執する女たちに対比される、自由で快楽的な主体こそが想定されていたはずである。しかし、書き上げられたこの本の中で、この主張は、罪は罪として反省した上で悔い改めた主体として認めてもらおうという、あちこちに気配りした、上目づかいのケチくさい立場でしかなくなっている。むろん守さんは、あくまで主婦的、母親的、PTA的「正しさ」と対立しているのであり、「快楽としての性」に目を向けているのだと主張する。しかし、そうしたスローガン的な主張は、それに替わるフェミニスト的「正しさ」(と守さんが考えるもの)を担保しようとする、この本の他の部分の記述と矛盾する。男のための“娼婦”であることを拒否した結果は“修道女”になるしかなかったわけで、私はそんなところに分類されるのはごめんこうむる。 守さんの議論の根本的な問題は、(必然的に)男性のものであるヘテロセクシュアリティが唯一の現実/スタンダードとしてまずあり、それを補完し、それに隷属するものとしてしか女性が定義されないがゆえに“夢見る主体”であることを否定されているのだという事実を、指摘できないところにある。それを踏まえた上で、どんな夢を見るのも本当は自由なのだと言わなければ、男女の差別的な非対称(そしてそれに必然的に関連する同性愛のタブー視)と女に対する道徳的抑圧の強化に加担するだけである。 守さんを友人と思い、信頼し、この件にかかわったことを残念に思っている。そうでなかったらこの本について、私が何か言うことなど、けっしてなかったであろうから。思いつきを寄せ集めただけで普遍性を欠いたこの種の本の批判のために時間を割いたところで、こちらが得るものはないから、そのほうがよかったのである(とはいえ、批評する以上は、せいぜい読者と私自身にとって興味の持てる事柄を引き出すよう、努めるつもりだ)。しかし、すでに私は、本誌誌上で彼女の書くものを支持するという間違いを犯してしまった。その時私が書いたことも、それ以前やその後に会話の中で伝えたことも、結局守さんの理解するところではなく、彼女の著作の中で不本意な形で使われることになった。 以上の理由から、私は守さんを応援するようなものを書いたことを後悔しており、『女はポルノを読む』の内容に異議を唱えるものである。 【追記1】 ヘテロセクシュアルな男性主体の成立とホモフォビアの起源について、誤解があるようなので追記しておく(上のようなことを書くと、自分が攻撃されているのかと思って、“僕はそういう悪い男ではない”と反感をあらわにする人が出てくるものだ)。上の文章で「原理的に言って、ヘテロセクシュアルな男性主体は云々」と書いたが、「原理的に」とは、ほぼ例外がないということだ(構造が規定する主体化から逃れうる者がいるだろうか)。表現型としては“多様”でも例外はない。たとえあなたがマッチョではなく、愛する女性に対してベッドで受動的にふるまったとて、「父に対する受動的態度の拒否」(フロイト)の外部に出られるわけではない。これは良い悪いの問題ではない。筆者はたんに、“〈女〉とは男の夢であり、男が自分のものとして認められないものの化身である”という現象を、中立的に記述しているだけだ。 〈女〉は男にとって美しい夢として結晶する一方で、以前、次のように書いたとおり、ゴミ箱でもある――「女とは、男にとって〈他〉とされたものの集積場である。だからこそ、ストレートだろうとゲイだろうと、男はそこに好きなものを投影できる。欲しいものは何でもある宝箱。何でも出てくる魔法の箱。男が(男であるために)自らに禁じた/認めたくないものすべてを放り込んだ実はゴミ箱」。http://http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-8.html 男がさっぱりした顔をして、エロはエロとして置いておき、何やら抽象的な話をしていられるのはそのせいだ。女が男にとってそうであるのと同じように、女にとって男が当然の性的対象であるなどということはありえない。 そう言えば、「実はゴミ箱」云々という拙文について守さんから、「女がゴミ箱にされる状況を変えていかなければいけないと思う」という意味のことを言われて一驚したものであった。男女の根源的な非対称を社会改良で何とかする? そんなことを平気で言える人が書いたのだから、やっぱり『女はポルノを読む』は絶望的にダメな本なのだ。パーソナルな自我のありようを意図的に変えるなどというのは誰にとっても無理な話で、できるのはただ、そうした制度の中にいることの自覚である。かつ、それこそが真先にしなければならないことだと思うが。 【追記2】 「無垢でもなんでもない私」について。守さんはこの言葉を、明らかに女に責任を取らせるために使っている。「ヤオイもBLもゲイ差別的であると批判されることがある」(236頁)とあるが、これは、ポルノが女性差別的だと批判されることと並列するために「も」という助詞が使われているのだ。だが、【追記1】でも述べたように、男にとっての〈女〉に相当する〈対象〉は女には存在せず、女の「ファンタジー」は覇権的な力を持たないのだから、こうした並列は無意味であるばかりでなく、女を叩きたい男に根拠を与えることにしかならない。また、これに続く、「問題が放置されているなら、批判はまずなされるべきだし、表現を作り出している側にはそれに応答する責任はあると思う。対話を経てよりいい表現が生み出されていく必要があると思うからである」という記述は、「表現」および表現者をここまで見くびっているのかと嘆息せざるを得ないことを別にしても、ジャンルBL作家がゲイ差別者として非難されたことなどなく、読者である若い女性がもっぱら腐女子フォビアのターゲットになっている現状を思えば、あまりに無自覚で軽率な問題の捏造であり、現実の同性に目を向けない利敵行為だ。差別され、蔑ろにされ、いくらでも攻撃を加えていいと思われているのは、男のゲイのではなく、女のセクシュアリティであるのだから。 一度でも読み返していれば別なのだろうが、若過ぎるうちに読んでしまってすっかり通じたつもりでいたのが、実は出会っていなかったに等しい本というのがあって、『ドリアン・グレイの肖像』も気づかぬうちにそういう一冊になっていた。後年手に入れた新潮文庫版をどこかに持ってはいるのだが、買った当時は、例の、本にはよく書けているか書けていないかのどちらかしかなく、道徳的な本も不道徳な本も存在しないという文句が序文にあるのを確認しただけで満足してしまったらしい(フレーズは覚えがあったのに、そこに出ていたことさえ忘れていた)。おかげで今回、光文社文庫の新訳(仁木めぐみ訳、2006年)を、ほとんどはじめてのもののように楽しむことができた。
これは本当によく書けている本だ。今回わかったのは、善悪がどうこうなどという話では全然ないこと。そして、完全に『ジキル博士とハイド氏』の同時代の作だということだ。『ジキル』と『ウィリアム・ウィルソン』は「分身の問題」を共有するとして、巻末の「解説」にも名前が出てくる。しかし、言いたいのはそういうことではない。 確かにドリアンの最期は誰でもわかるほどにポーの主人公のなぞりだが、『ジキルとハイド』について言えば、完全に雰囲気が共通している。もちろん、そよ風に乗って吹き入る庭の花々の官能的な香に満たされ、金蓮花に陽光がきらめき、雲はつややかな絹糸のもつれた束のよう、晴れた夏空はトルコ石のようで、窓を覆うシルクのカーテンに鳥の影が幻のように落ちて「一瞬日本的な雰囲気を作り出す」(それを見たヘンリー卿は、「こうした静的な形式の芸術を通して敏捷さと動きを表現しようとしている、青白く疲れた顔をした東京の画家を思い浮かべた」と言うのだが、私にはこの「東京の画家」がどんな人たちなのか全く思い浮かばなかった!)画家のアトリエで、ヘンリー卿とバジル・ホールワードがイーゼルに乗せたままのドリアンの肖像画を眺めている描写ではじまるこの小説と、秘密を抱えた陰鬱な男たちが行き来するスティーヴンソンの中篇ではまるで違っているようだが、しかし、ハイドの悪徳が具体的にどんなものか一度も描写されないのと同じように、ドリアンの美しい顔――絵のほうの――を荒廃させてゆく悪徳も、多くはほのめかしにとどまるのだ。 多くの若い男をドリアンは「堕落」させている。ドリアンがバジルの死体を片付けるために呼びよせるアラン・キャンベルも、「二人の友情は十八ヶ月で終わった」と言われる期間には恋人同士だったのだろう。「日ごとに生物学にのめりこんでいく」、「ある奇妙な実験に関係して名前が出ていた」といわれる彼が科学者なのは、むろん酸を使って跡形もなく死体を始末させるためだが、ワイルドがジキル博士の実験室から直接連れてきた人物だからでもある(H・G・ウェルズの『モロー博士の島』の、モローの助手モンゴメリー―の萌芽でもあろう)。 アラン・キャンベルに言うことをきかせるために、ドリアンは紙片に何やら書いて彼をゆする。 「すまないね、アラン」彼は静かに言った。「けれどああ言われたから、こうするしかなくなってしまった。手紙はもう書いてある。これだよ。宛名が見えるだろう。君が助けてくれないなら、これを送らなければいけない。君が助けてくれないなら、これを送るよ。どうなるかはわかっているだろう」。 これは、『ジキル博士とハイド氏』の独身者たちを脅やかしていたものでもあり、ジキルの秘密を知ってしまったラニョン博士と同じく、アランもやがて自殺を遂げることになる。エレイン・ショウォールターによれば、 R・L・スティーヴンソンもまたそのような二重生活を送っていたひとりだったのであり、彼の周囲では(ワイルドも含めて)、『ジキル博士とハイド氏』が何について書かれた話なのかは完全に了解されていたという。 もう一つ、今回読んではっきりしたのは、この本の中でヘンリー卿は基本的に部外者だということだ。美しいナイーヴな若者をめぐる年長の男の恋の鞘当て――だが、ドリアンを愛していたのはバジルであり、ヘンリー卿のほうはせいぜい彼をプロデュースしようとしたに過ぎない。ヘンリー卿を、ドリアンという美青年を素材に小説を描いてみようとした小説家と見なすこともできよう。しかし、彼がそのような労をわざわざとるわけもなく、すでに他人によって書かれた本を贈ると、ドリアンはすっかり魅せられて、その主人公のように振舞うことで彼の人生を芸術にしようとするのである。 ヘンリー卿とドリアンの関係は、ドリアンと女優シビル・ヴェインの関係として反復されている。場末の芝居小屋で、シビルはポーシャやジュリエットやコーディリアになるが、けっして彼女自身にはならないものとしてドリアンを魅了する。彼は、シビルと結婚して彼女に女優としての名声を与えることを夢見るが、ドリアンに愛されたシビルは、現実の恋を知って拙劣な演技しかできなくなってしまう。 今夜、私は生まれて初めて、いつも演じてきたお芝居がからっぽで、偽もので、ばかばかしくて、空虚だってことがわかったの。今夜はじめて私、ロミオは年寄りで、醜く顔を塗りたくっているし、果樹園にさす月の光は偽ものだし、背景は悪趣味だってこと、それに私が言わなければならない台詞はわざとらしいし、私自身の言葉じゃないし、私の言いたいことじゃないってことに気づいたの。あなたが、崇高な芸術もみなただの影になってしまうようなものを教えてくれたのよ。 むろんドリアンは彼女自身でしかなくなったシビルを捨てる。彼女は自殺する。しかしシビルを、ヘンリー卿のミソジニーの標的としての「自然」(芸術に対立するものとしての)として片付けてしまうのは間違っている。ショウォールターは「美的経験」としての「同性愛の欲望」の対立物である、侮蔑の対象としての女、当時の「新しい女」の死としてシビルの自殺をとらえ、ヘンリー卿をモロー博士と一緒にして「生体解剖家であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうと」する男の一人に見立てるが、モロー博士がそういう人物ではない以上に、ヘンリー卿はそのような人物ではない。「生体解剖」とは心理分析という意味で、比喩に過ぎないし、生殖機能云々はシビルのケースと何の関係もない。ショウォールターはフェミニストとして、ヘンリー卿の(そしてワイルドの)女の登場人物への仕打ちに、自分のストーリーに組み込むためにいささか独断的な意味づけをしていると言えよう。 しかし、そんな動機と無縁な目で見れば、シビルの運命は男の同性愛に対立するものではなく、たんにドリアンの運命を予告するものである。『ジキル博士とハイド氏』には無く『ドリアン・グレイの肖像』にあるのは、美と男の同性愛と芸術の三位一体だ。この中にあって、上に引用したシビルの語りには、芸術と無縁であるどころか、芸術を享受するのに不可欠な「心」がある。作り物の恋を本物と思い込んでいたからこそ、シビルは現実の恋に出会った時、見誤ることがなかった。心がそれに見あう言葉を得て表現するのではない。言葉によって「心」は生じるのだ。 「本当の殺人を犯した人物を知ってみたいものだ」というヘンリー卿の言葉にドリアンは気絶しそうになる。結局のところ、ヘンリー卿はドリアンの理解者ではなかったのだ。「ハリー、もし僕がバジルを殺したと言ったらどうする?」そう言っても、ヘンリー卿は「ドリアン、君は自分に似合わない役を気取っているんだと言うよ」と答える。どこまでも演技者としてのドリアンしか彼には見えないし認めない。犯罪は下層階級だけのものだとヘンリー卿は言う。「彼らにとっての犯罪は、僕らにとっての芸術のようなものじゃないかと思う。普通でない感覚を得るための方法というだけさ」(←乱歩的!) 岩波文庫の西村孝次訳その他ではタイトルが『ドリアン・グレイの画像』(原題はThe Picture of Dorian Gray)だったのに気づいて思わず笑ってしまう(「画」が本字であればまだしも)。もとはそれでよかったのだろう。しかし今では、もう、ケータイにドリアンの画像が入っているとしか思えない。昔出た全集では『ドリアン・グレイの絵姿』と改題されており、確か西村孝次は、小林秀雄に画像なんて訳語はだめだと言われて変えたとどこかに書いていた。 『トニオ・クレーゲル』の新訳が『トーニオ・クレーガー』のタイトルで出ているのを見つけた(平野卿子訳、河出文庫)。併録は未読の「マーリオと魔術師」(1930年)。出版された当時の挿絵が使われ、「マーリオ」の方はなんとハンス・マイトである。これが決め手となって購入(ハンス・マイトは、いとこたちからのお下がりだった岩波少年文庫の忘れがたい一冊『くろんぼのペーター』(エルンスト・ヴィーヘルト作)の挿絵画家。それ以外では全く見たことがなく、今回「訳者あとがき」で生没年をはじめて知った)。
「訳者による「解説」(「あとがき」との二本立て)の結びには、(「マーリオと魔術師」の)「魔術師チポッラのイメージは、どこか映画『カリガリ博士』の主人公カリガリ博士に重なる。時代的にも近く(一九一九年製作)、装束も似ているが、なによりその不気味な雰囲気や怪奇な印象という点で、相通じる要素があるからだと思う」とあるが、類似はその程度のものではなかった(トーマス・マンはもちろん『カリガリ』を見て、そしてあの映画の意味がわかって書いたのだろう)。語り手と家族は、滞在しているイタリアの海辺のリゾート地で“魔術師”チポッラのショーを訪れるが、チポッラは舞台に呼び出した客を催眠術によって自在に操る。このチポッラが、カリガリ同様、国民を催眠術にかけて踊らせたファシストの独裁者をあらわし、この小説は「ファシズムの心理学」を表現したものだと、声高に言い立てられてきた事実がまず符合するのだ。 そうした読解については、実際、訳者も(『カリガリ』との類似はなぜか指摘されていないが)、「チポッラは独裁者、一方の観客をその彼に心ならずも操られていく国民と見ることができよう」と述べており、ルカーチが小説中の場面について「ヒトラーを望まなかったにもかかわらず、十年以上も抵抗することなく服従したドイツ市民階級の無気力を見事に描き出したと述べている」ことを引いて、「奇怪な魔術師を前に、ひそかな反感と嫌悪感を抱きながらも去ろうとしない観客――語り手を含めて――に、当時のヨーロッパ人全体の無気力を見ることもできるだろう」、「大戦後六十五年を経て、世界各地にちらほらと極右政党の台頭のきざしのあるいま、この作品はひとつの貴重な警告として、私たちがあらためて目を向けるべきもの、いや、いつの時代にも立ち帰るべきものだと思う」と、既存の解釈を何の疑いもなく受け入れた、もっともらしい文句を並べている。 実際に「マーリオと魔術師」を読んでみよう。まず、タイトルに注目。これはマーリオと魔術師の話なのだ。前者は語り手ともなじみの二十歳[はたち]のウェイターで、ショーの最後に――これをもって最後にならざるをえなかったのだが――客席から舞台に上げられ、自らの意思に反することをさせられた結果、屈辱のあまりピストルを取り出してチッポラを射殺する。それではこれは、他の観客はチポッラのなすがままだったのに、最後に英雄的な青年が悪いファシストを倒すという寓話なのだろうか?(『カリガリ博士』の場合、病院長(権力者)が実は狂人だったという結末が、告発者の方が狂人だったというどんでん返しによって弱められたと中傷されてきた。平野智子と筆者による論考あり。) そうではあるまい。「いまになってみると、ことの本質からいって、ああなるよりほかなかったように思える」と語り手も最初から認めるチポッラの死は、マーリオに衆人環視のなかで、彼が思いを寄せる娘だと思い込ませて、自分にキスさせた結果である。「チポッラがしなをつくって歪んだ肩をくねらせている様子は、吐き気を催させるようないやらしさだった。たるんだ目で恋いこがれるようにマーリオを見つめ、甘ったるい微笑を浮かべた唇の間から、欠けた歯がのぞいている」といった具合――。 だが、まだ笑い声が続いている間に、愛撫されていたチポッラは、椅子の脚のそばで例の鞭を振った。するとマーリオは夢から覚めて飛び上がって、後ずさりした。目が据わっている。そして、身体を前にかがめたまま、両手を重ねて汚された唇におしつけた。それから何度も指の節でこめかみをたたいてから、くるりと向きを変えて階段を駆け下りた。その間も拍手は鳴り響いていた。チポッラは膝に手を下き、肩を揺すって笑っている。 確かに、いささか悪ふざけがの度が過ぎたとは言えよう。しかし、チポッラのしたことは、死をもって償わなければならないほどの罪なのか? 実は初めの方で、語り手一家が浜で出くわした不愉快な事件が語られていた。水着を砂だらけにしてしまった八つになる娘に、親たちが海で水着を洗うように言い、娘が「裸になって数メートル離れた海へ走って行き、水着をゆすいで戻ってきた」ことが、公序良俗に反したと“愛国的”なイタリア人たちの憤激を買い、「海水浴場の規定や精神はもとより、わが国の名誉をも恥ずべきやり方で傷つけた」と言われて、語り手一家は罰金を払うことになったのである。 このエピソードが不当だと語り手とともに思った読者も、チッポラの死には、驚き、悲劇的だと感じても、結局は納得してしまうに違いない。何より、作者がそう書いているからだ。マーリオは要するにホモセクシュアル・パニックに襲われたのだろう。同性愛者に誘惑されて驚きと嫌悪のあまり殺してしまったとしても、やむをえない行動であり、一時的な心神喪失に陥ったのだから責任能力はない……ゲイ・バッシング弁護のこうした主張から、イヴ・コゾフスキー・セジウィックが、ゲイ・バッシャーの性的アイデンティティの不確かさという前提を引き出したのは周知の通りだ。マーリオの場合、ヘテロセクシュアルな欲望と信じたものの背後(実は表面)から、不意にホモセクシュアルなものが出現(実は初めから見えていた)したのである。 しかし、このようにはっきり見えているものを、また例によって、誰も指摘しないようだ。カフェで働いていると聞いて、チポッラはマーリオを酌人と――ガニュメデスと呼んでさえいるのだが(それも二度)。マーリオは「二十歳でずんぐりしている。髪は短く刈り込まれており、額が狭く、まぶたが厚ぼったい[…]ひしゃげた鼻にはそばかすが散っており[…]このぼってりした唇は、垂れた眼とあいまって素朴な憂愁とでもいう感じを彼に与えていた」と描写される。映画版のタッジオよりもこういう顔の方に関心を持つ男性がいることは容易に想像されよう。年齢不詳だが若くはない、そしてせむしで醜いチッポラの最期は、『ヴェニスに死す』の美少年にアッシェンバッハが触れるようなことがあったらどうなっていたかを書いているとも言えよう(かなり自虐的だ)。「マーリオと魔術師」を書いた頃はまだ五十代だったマンは、七十を越えた晩年に、実際、若いウェイターに恋していたことが日記の出版で明らかになっている。 「マン自身、この作品について『個人的なものと政治的なもの』が結びついていると言い、『ファシズムに対する批判を公然と表明する』と述べている」と指摘して、訳者は当然のように「ファシズム批判説」の論拠にしているが、自らの作品において「個人的なものと政治的なもの」がどう結びついているか――マンがそれについて何を言おうとしたか、そして何を言えなかったかを、一瞬でも疑わなかったのだろうか?(しかし、公人としてのマンが何を言おうと、作品では一目瞭然だ)。「ただ当時、ドイツではまだナチは現実的な脅威となっておらず、[マンは]ドイツでもイタリアと同じようなことが起こるとは思っていなかった」そうである。なるほど、これはクラカウアーの「『カリガリ』はヒトラーの予兆だった」説のよい反証となる。『カリガリ』は『マーリオ』より十年も前なのだから。魔術師が観客に催眠術をかけたって? いやいや、彼らはみな、以前からホモフォビアという長く続く強力な催眠術にかけられていて、観客も読者も批評家も(ついでに、ファシズム批判の書としてこの小説を即座に発禁にしたムッソリーニ政権も)、マーリオの行為が肯とされていると読みちがえたのだ。 ごらんの通り、小説の訳文自体には文句のつけようがない。ハンス・マイトの簡潔なタッチは、上記のマーリオの特徴をもよくとらえており、また、水着を脱ぎ捨てて仁王立ちになった女の子の「ガラのように痩せた」裸や、傍で囃し立てる少年たち(『ヴェニスに死す』の映画で見られるような水着姿)を描きとどめて、『くろんぼのペーター』の暗く、北方的で、夢魔的な、憂愁に満ちた絵とはまた異なるけれど、人体の描き方が一目でそれとわかる特徴を示していて懐かしい。
拙ブログについて、繰り返し好意的に言及して下さってる方を見つけたんだけど――。
私が、「腐女子の幻想はゲイ男性の貧相な性愛感から彼らを救う」と書いていると、そして、それは“名言”だと……。 まさか、そんなこと私言ってないからw これは、石田論文を批判した2008年の「ウェブ評論誌コーラ」掲載の記事のことでしょう。 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-4.html コンラッドにしてもトールキンにしても、私はこういう男性たち(彼らが「ゲイ男性」かどうかはともかく。というか、そう呼ぶ必要さえ全くないと思うけれど)の、あるいは「ゲイ・エロティック・ライティング」のアメリカ作家たちの豊かな「幻想」に感嘆こそすれ、「ゲイ男性の貧相な性愛感[ママ]」なんて微塵も思ってないから。 あ、腐女子は現実のゲイに配慮すべきかなんて、贋の問題を立てる連中の「貧しさ」なら思うけどね。 ついでに言うと、腐女子がどうこうなんて文章を私は書かない。少なくとも、腐女子とやらを実体化して主語に据えたりはしない。 で、リンク先に元の文章はあるけれど、そこでは名前を確認していなかった研究者というのは、リンダ・ウィリアムズというアメリカのフィルム・スタディーズの人。ポルノ映画について本を書くためにポルノ映画をたくさん見たけれど、結婚している女である私向けでは全くない男同士のフィルムに萌えた[意訳]と、出来上がった本のあとがきで言っているわけ。 彼女を腐女子と呼ぶとしたら――そうだねえ、パムクの『わたしの名は紅』に出てくる、十七世紀の細密画家を“ゲイ”と呼ぶようなものじゃない? その先を終りまで引用しておく。三年前の文章だから、私自身、立ちどまって他人の書いたもののように読むところがあるけれど、特に注釈のいる文章じゃないでしょう。 +++++++++++++++++++++++++++++++++ 既婚の女のためのポルノグラフィが考えにくいのは、彼女の性的欲望が家庭内に封じ込まれ、もっぱら夫との関係のうちにあると考えられるからだろう。それは生殖という目的に添って組織されたセクシュアリティを持ち、思春期に月経がはじまって自分が女であることを自覚し、異性間性交し、妊娠し、出産し、子育てをして、更年期を迎える女だ。 だが、むろん、そんな女などどこにもいない。 彼女は現実の異性愛に飽きたらず、ゲイのイメージを利用したのだろうか? これは必要悪であり、いつの日か「[異性]愛の再発明」(ランボー)が実現した暁には、男との性愛における彼女のみじめさは取り除かれ、彼女はもはやゲイポルノに性的昂奮を覚えなくてすむようになるのだろうか? いや、異性愛が再発明されることがあるとすれば、それは異性愛が唯一の「正しい欲望」ではないと認められる時だろう(それに、再発明される日まで異性愛のすべてが〈悪〉というわけでもあるまい――そこまで異性愛を「ガチ」と思い込まずともいい)。 ゲイポルノで「萌え」られる彼女は、幸いなことに真理に――彼女の「正しい欲望」に――至りつくことがない。 彼女は女であることのみじめさから救われるためにゲイのイメージを利用したのだろうか? いや、むしろ、彼女はやおい化することによって、男のファンタジーを救うのだ。彼女の欲望はゲイのファンタジーを「やおい的なもの」にする。同じものに性的昂奮を覚えても、その主体が女であれば「やおい」である――だから、(やおいが差別するのではなく)「やおい」は差別語なのだ。だが、そのとき、ゲイのファンタジーもまた(ひいてはゲイ・アイデンティティそのものも)、それが仮の命名に過ぎず、自分が単一の実体ではなく複合的に構成されたフィクションであることを、「自律」したものではありえぬことを明かすだろう。享楽する者の身元をそのとき誰が尋ねようとするだろう?
(承前)
逆転させた物言いで人を驚かすことが好きだったロラン・バルトは、「驚異の旅」の作者ジュール・ヴェルヌは実は旅を書いたのではない、ブルジョワ的閉じこもりを書いたのだと言ったが、この小説の分身との同居は、紛れもなくそうした閉じこもりである。船は旅立ちの象徴かもしれないが、より深層のレヴェルでは閉域の象徴であり、人を船旅に誘うものは完全に閉じこもる喜びなのだとバルトは説く。外へ(この場合は、無風状態のせいで閉じ込められた湾の最奥部から外界へ)向かっているように見えながら、実はどこまでも内へ向かう情熱。小屋、テント、洞窟、樹上の家(秘密基地?)のたぐいに対する子供っぽい惑溺。閉所に引きこもり、自分だけの夢想に浸ること。バルトに言わせると、こうした閉じこもりこそが、幼年期とヴェルヌに共通する本質である。船とは「完全な閉じこもり、できるだけ多くの品物を手元に置くことの喜び、絶対的に限定された空間を所有することの喜び」の象徴だ。内部は暖かく、限定され、外では嵐(無限)が吹き荒れている(バルトがこの閉じこもりを愛していることは間違いない)。 もっとも、われらが船長の場合、ノーチラス号の大がかりな旅と違って、禁欲的な独身者[シングル]の部屋での、分身[ダブル]とのほんの数日間のトリップであるが。(ハンス・へニー・ヤーンの短篇にもこんな船長がいた。嵐のなかで鉤が腹に刺さった水夫を船長室に運び入れ、自分のベッドに寝かせて手術をほどこし、全快するまでとどめ置き、そして元の持ち場に返した。彼は、特に美しいわけではない、麻酔で意識を失った白い身体を、時々夢のように思い出すことはあっても、けっして認識に至ることはなく、船に安全に守られて、子供時代と変わらず夢想に耽るのである。) いつものように彼は舷窓から外を見つめていた。時折り風が吹き込んで顔に当たった。船はドックに入っているみたいだった。それほど穏やかに、水平にすべっていた。船が進んでも水音一つたたず、影のごとくしんとしずまりかえって、まるで幻の海のようだった。 これはレガットが去る前の日の描写だが、外界はあたかも夢想の結果としてそこに存在するかのようだ。だが、船長自身が言うように「これがいつまでも続くはずはない」。レガットは暗い海へ泳ぎ出し、船長は船を操って湾の外へ出なければならない。 ノーチラス号の舷窓から見える生物を、ヴェルヌは博物図鑑から引き写して書いた。かの潜水艦は世界中を回ろうと、何一つ未知のものは見出さなかったはずである。コンラッドのように経験豊かな元船長なら、そんなことはなかっただろうか? 『青春』(1898年執筆)ではじめて東洋(ジャワ)にたどりついたマーロウ(コンラッドの小説に繰り返し登場する語り手)は、「空にむかって静かに立つ」棕櫚の葉を、「ずっしりと重い金属で鋳られた葉っぱのようにきららかに静かに垂れ下がっている大きな葉」のあいだにのぞく茶色の屋根を、桟橋を埋めた、その動きが波のように端から端へと伝わってゆく、とりどりの色の膚を持つ人々を、「ひろびろとした湾、輝く砂浜、はてしない、変化にとんだ豊かな緑、夢のなかの海のように青い海、もの珍しげな顔の群集、燃えるように鮮やかな色彩――そのすべてを映し出す水、岸辺のゆるやかな曲線、桟橋、静かに浮かんでいる船尾の高い、異国風の船」(土岐恒二訳)を見るが、それらは「あの昔の航海者たちの憧れた東洋」、「太古さながら神秘に満ちた、きららかで陰鬱な、生気にあふれつねに変わらぬ、危険と期待に満ちた東洋」であり、マーロウが、そしてコンラッド自身が、東洋はおろか、まだ海さえ知らなかった頃から知っていた――たとえばボードレールの「髪」や「異邦の薫り」や「前世」の中に潜んでいた――ものではなかったか? 『秘密の共有者』のはじめの方に、一等航海士が自室のインク壺の海に溺れ死んだ「哀れな蠍」を見つける挿話が出てくるが、この短篇自体、コンラッドの現実の航海からというよりも、「地図と版画が大好きな子供」(ボードレール)の欲望に端を発する、一つのインク壺からそっくり出てきたものではないだろうか? 『武人の魂』のトマソフの場合、変則的な(ないし偽装された)三角関係の下で、外部では刻々と戦争が近づく中、女の私室に匿われて夢を見ていたが、船長がその分身と閉じこもる部屋は、言ってみれば、(『武人の魂』では必要だった)現実の女――口実としての異性愛関係――を排除した、船という女のL字形の胎内である。この部屋を〈クローゼット〉と呼ぶことができよう。船長が秘密そのものであり秘密を分かち合いもする男をそこに隠すからばかりではない。実際、室内には、「着物が数着、厚いジャケツが一、二着、帽子、防水着などが、かぎ型の針にぶら下がったりしていた」と最初に紹介されており、船長が部屋に戻ってきた時、誰かの足音を聞きつけて身を隠していたレガットが「そっと出てくる」のは、「奥まったほうにぶら下がっている着物の後から」である。「灰色の寝間着」にはじまって、最後の「ぺらぺらの帽子」に至るまで、衣服は一貫してレガットの換喩である。 衣類をめぐっては、間一髪の事件も起こる。にわか雨で濡れた上衣を船長が手すりにかけておいたのを、給仕が持って船長室へ入ろうとしたのだ。船長は給仕を怒鳴りつけ、レガットに急を知らせるとともに、「すっかりびくびくしてしまって、声を抑えることも、内心の動揺を隠すこともできず」、一緒に夕食のテーブルについていた二人の航海士に、船長はおかしいという確信を深めさせることになる。上衣を室内に掛けてすぐに出てくるだろうと思った給仕は、しかしいっこうに現われない。 突然私は奴がどういう理由からか知らないが、浴室の扉を開けようとしているのに気づいた(それがはっきり聞こえたのである)。もうおしまいだ。浴室は人間一人がやっとなのだ。私の声は咽喉にひっかかり、体じゅうが固くなった。 給仕が出て来ると、船長は、助かった! でも、レガットは行ってしまったのだと思う。 私の分身は現われた時のように、ふっと消えてしまったのか。だが、現われた時の説明はつくけれど、消えたのは説明がつくまい……私はゆっくりと暗い私室に入り、扉をしめ、ランプをつけてから、しばらくの間ふり向く勇気が出なかった。やっとふり向くと、彼が奥まったところに直立不動で立っているのが見えた。 この瞬間、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』で、家庭教師が見ているものが他の登場人物には見えていなことに読者が気づく瞬間のように、誰もが抱くであろう疑問と戦慄が船長をもとらえる。 「彼は肉体を持った存在なのかという逆らえない疑いが私の心を貫いた」 「ひょっとすると私以外の目には見えないのだろうか」 「幽霊にとりつかれたみたいだ」 しかし、レガットは存在しているのである。給仕が入ってきた時、彼はとっさに浴槽の中に身を隠し、給仕は浴室に腕だけを入れて上着をかけたのだった。手で船長に合図することで、レガットは狂気から彼を引き戻す。気分が悪いから真夜中まで起こすなと航海士に命じて引きこもった寝室で、彼らは再びしのびやかに語り合う。レガットは船から島に向かって泳ぎ出ると言い、船長はためらうが、ついに翌日の晩にそうするという了解に達し、それは次のような美しい言葉で語られる。 「理解されているって思えればいいんです」と彼はささやいた。「もちろん理解してくれてますよね。理解してくれる人を得られて心から満足しています。まるでそのつもりであなたがあそこで待っていてくれたみたいだ」そして、私たち二人が話すときはいつだって他人に聞かれるのは具合が悪いかのように、相変わらず囁き声で言いそえた。「素晴らしいこともあるものですね」 ◆独身者の船出 真夜中、船長はデッキに上がり、船の向きを島のほうへ変えさせる(一等航海士は仰天する)。陸から吹く風に乗って湾を出るという口実で(レガットを行かせるという理由がなければ、そんな危険なことはやらなかった)。ふたたび夜が来ると、船長は船を、できるかぎり島に接近させる。声を聞くのも、目を見かわすのも、もうそれが最後になる時が近づく。「二人の目と目が会った。数秒が過ぎた。とうとう、お互いに見つめ合ったまま、私は手を伸ばしてランプを消した」。食料庫にいた給仕を理由をつけて上に行かせて、船長はレガットに声をかける。「次の瞬間、彼は私のそばを通り抜けた――もう一人の船長が階段のそばをそっと通り――狭い暗い廊下から……引き戸を抜けて……私たちは帆の格納室で、帆の上に四つん這いになっていた」。その先には後甲板の貨物積み込み口が、船長がそう命じたので二つ開かれている(なぜ二つなのだろう?)。暗闇の中でふと思いついて、船長は自分の帽子を脱いでレガットにかぶせようとする。 彼は私が何を思っているのか考えたらしかったが、やがて私の意図がわかり、急におとなしくなった。まさぐり合っていた二人の手と手が会い、一瞬の間しっかり握ったまま動かなかった……手と手が別れた時も、どちらも、一言も言わなかった。 次の行で、船長は「食料庫の扉のそばに静かに立って」おり、給仕が戻ってくる。だから、給仕が甲板へ駆け上がってから戻ってくるまで、船長はそこから動かなかったと、格納室の中の描写は、船長の想像、妄想、その他何でもいいが、まるきり起こらなかったことで、格納室の中にレガットなどいないと考えることもできるが、いずれにせよもはやレガットは二度と登場しない。 一等航海士が船長の腕を信用せず、パニックになりかかる中、船長が、いまだ自分と一体化していない船が動いているのを確認できたのは、海面でレガットに与えた帽子が前方へ動くのが見えて、船が後ろへ進みはじめたことの指標になったからだった。陸地に上がったレガットが太陽に頭を焼かれるのを気づかって帽子を与えたのだから、首尾よく岸にたどり着けたとしても、そこに帽子が残されているのは不吉でさえあるのだが、船長が帽子に気づいた時の、「黒い水面に白いものが。ちかちかする燐光がその下を通り過ぎた」という記述は、出会った夜、ほの暗いガラスに似た水面に青白く浮かんでいたレガットの裸体の反復であり、「かすかな燐光が、まるで夜空に稲妻が音もなく束の間のひらめきを見せるように、眠っている水面でちかちかと光った」その出現の時の再演である――だが、今回は、もうそこにいないレガットの痕跡としての――。 「ノーチラス号と酔っぱらった船」と題した短いエッセイで、ロラン・バルトがネモ船長の潜水艦の対立物としたのは、〈私〉と名告り出る〈酔っぱらった船〉であった。曳き手の手を離れてひとり河を下り、海に出て、見、夢想し、追い、泣き、語る、よるべない船、人間のいない船、まだ海を見たことがなかった(しかしボードレールは読んでいた)少年ランボーが書いた、「無限に触れる眼」と化した船である。閉域から逃れるには人間を排除して船だけにする必要があるとバルトは指摘していた。『秘密の共有者』の船長にとって、船との一体化とは女とペアになることではなかった。自らの受動性の外在化を女として回収することではなかった。船長のファンタジーはもう一人の自分との親密な閉じこもりであったが、コンラッドにとって海の上の男だけの世界が、そういう秘密とそういう冒険につながる場所(そして素材)であったことは明らかだ。ホモエロティックな東洋[オリエント]は、船長のファンタジーと通底する、そうしたイメージの集積場であった。レガットと過ごす秘密の日常ののち、彼を岸に泳ぎつかせ、船も操舵しおおせた船長は、今や船と一体化した独身者なのである。 (まだ続きますがここでひとやすみ)
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