おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

萌えの人・松田修

「酷愛偽装譚」――なんという恥ずかしい題名。意味はしかとわからないながら、いかにも恥ずかしい文字づら、文字のならびではないか。そして、「恥」という文字が指紋のようにそここに捺された彼の文章。松田修がそんなにも恥ずかしがってみせなかったら、私たちはあるいはそれほど彼の「恥」に気づかなかったかもしれないのに。
 彼はつねに率直に萌えを語った。恥をその裏にぴったりと貼りつけながら。世代的には三島由紀夫の同時代人なので、三島があのような生涯しか送れなかったことは、別に彼の生きた時代の限界からではないことが推察される。三島には恥ずかしがってみせるだけの器量がなかったのだ。   

 少なくとも十年は表紙を開かなかった『華文字の死想』を手に取った。『刺青・性・死』も、『闇のユートピア』も、『非在ヘの架橋』(それにしてもどのタイトルも今のものではない)も、クローゼットの棚の最上段と天井の間に積み上げた中に(たぶん)まぎれて見えないが、これだけは本棚の隅にずっと残っていた。再録が多く、雑誌ですでに見たものもあって、あまり身を入れて読んだ覚えのない一冊。しかし、偶然目にとまった「酷愛偽装譚」のページに、かつて引き込まれた記憶が甦ってくる。

 目次にはない「真山青果を解く鍵」というサブタイトルつきの「酷愛偽装譚」は、初出が「真山青果全集」補巻五月号とあるが、年の記載はなく、『非在への架橋』に収録されたことが知られる(78年8月)。青果の戯曲『平将門』(1925)の通常の評価は、松田によれば、「歴史=正史の蔭の部分に、新しい解釈と共感をもたらしたものとして」高いものであるのだそうだ。「しかし、あえていえば、青果の創作の真意は、ことさら見捨てられていたようである」。何が「見捨てられていた」のか。松田の熱い語りを聞こう。

青果はこの作品で何を語り、何を書こうとしたのか。それは将門と貞盛の愛、それもほとんど性愛に近い愛であった。

この悲劇の男が愛するものは――真に愛するものは――妻でも、子でも、弟たちでもない。従弟の貞盛――不幸にも将門が殺す結果になった、伯父国香の子貞盛であった。

貞盛は、「気高い、物思ひの深い子」であったと将門はいう。/「指先など白く、女のようにしなやかで」あったとも。

少年期の貞盛を回想して、「俯いてものなど考へる時、黒い睫毛が匂はしく影をつくつて……」――これが将門における終生の貞盛像なのだ。

イメージの貞盛を愛するが故に、上洛しながら、避けて会わない。なぜか、「気が引けて会はれ」ないのだ。いや、よりはっきりいえば、愛の深さのゆえに会えないのだ。

将門はいう、「太郎の前に出るのが苦しいのだ。自分の粗野が恥しいばかりではない。太郎の眸にあふと……」、だから会えないのだ。そのことを思い出として語るときさえも、将門は「羞ら」っている。ここから、次のようにいえば短絡にすぎるだろうか。/青果の恥の意識は、いわれるごとき単なる田舎士族の体制意識の恥ではない。美意識による恥なのだと――。

そんな貞盛の妻と早く定められた、お互いに従妹の東の君を、将門は奪って妻とする。加害者でありながら、将門は脅えている。[…]東の君を抱くことによって貞盛に怯え、怯えながら連帯しているのだ。貞盛に怯え、怯えることによって連帯しているのだ。貞盛に処罰されたくて、奪ったとさえいえるだろう。東の君を奪ったのではなく、貞盛の婚姻を妨害したのだ。


 こうした解釈を許す青果のテクストを松田が引用するのを、ここではさらにつづめて示す。

おれは、彼と従弟と云はれることが、心の誇りでもあったが、また恥かしくもあつた。(略)。おれは彼の悦ぶ顏を見るために、人知れずどれほど心を苦しめたか知れない。[……]彼はカラカラとは笑はない。匂はしい睫毛の深い目に、たヾニコと片頬に微笑んでおれの戯れた所作を眺めてゐるのだ。おれはいつも後で、自分の愚かしさを恥ぢるのだが、それでも幼い従弟のよろこぶ顏が見たかつたのだ。はヽはヽヽ。

 このくだりに、松田は次のようなコメントをつける。

これはもう、明らかに通常の人間関係ではない。将門の弟四郎の言葉を借りれば、「思慕」に他なるまい。男が男を愛することの、何というみずみずしい描写だろう。五十年の時差を埋めて、それは官能的である。

 他の青果作品の同様の部分を抜き出し、比較検討した末、松田はこう書く。

私とても恣意的に、青果作品のあちこち読みさがして、男同志の愛のみ拾い上げ、青果の「一面」をでっち上げようとするものではない。しかし、「平将門」をその典型として、青果作品のかなりのものが、男心と男心の、ときに性愛の感覚さえ伴う、響き合い、触れ合いの冴えを主題としていることは、動かしがたいであろう。

「男同志の愛のみ拾い上げ」「でっち上げようとする」ものだと言われることへの抵抗。「萌え」は脳内にあるのではなく、確かにテクストに見出されるのだという主張。それにしても、詩人や作家やエッセイストとしてではなく、国文学研究においてそれをやった松田は過激であった。

「一九八〇年代初めまで、同性愛を理想化して描くことは反俗的な美意識の表明であった」(『月光果樹園』)と高原英理が書いている(こればかり引用しているけれど)。『華文字の死想』(ペヨトル工房)の出版は一九八八年(書き写そうとしてペヨトル工房だったかと驚く)。この間、いかなる変化があったのかは措くが、上の引用だけ見ても、それが男の専有物であった時代の男-男表象への「萌え」を、それが女にも共通するものであることを確認しつつ、読み味わうことができるだろう。

 遡って一九七〇年、予定された死からさほど遠くないところにいた三島由紀夫は、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』の、突撃隊粛清のシーンについて次のように書いた。

私事ながら、この「血の粛清」の政治的必然性は、拙作「わが友ヒットラー」に詳しいが、もちろんヴィースゼーの一夜については、私の戯曲は科白で暗示するにとどめてある。それを一つのショウに仕立てて、この映画の本筋とは関係ないところに、このやうな血のバレエ・シーンを置いたヴィスコンティの企みの深遠さは、推し量るすべもないが、るいるいと重なる白い裸体が血の編目を着てゐる描写には、一種のしつこい耽美主義が溢れてゐる。

「オレはこれに萌えた!」

 そう言えないばかりに三島は、「ヴィスコンティの企みの深遠さは、推し量るすべもないが」などと、韜晦しつつ書きつらねるしかなかったのだ。だが、これが、「映画の本筋とは関係ないところ」で、己れの美的/性的嗜好を芸術という名のスペクタクルたらしめて世の人々に見せつけたヴィスコンティに対するオマージュと、同好の貴種を見出した感動(そして羨望)でなくで何だろう。近年公にされた堂本正樹の『回想 回転扉の三島由紀夫』(文春新書)は、秀吉から死を賜った関白秀次が高野山で小姓たちの介錯をする(「彼等は常に御情深き者共なれば、人手にかけじと思召す御契りの程こそ浅からね」)『聚楽物語』の血みどろ絵を見せられたあとの、三島との最初の「切腹ごっこ」について次のように書いている。

「あとは歌舞伎の「判官切腹」の真似で神妙に勤めた。[…]そこで三島が小さく「ヤッ」と声を掛け、首筋に刃があたる。私は前にのめって伏し、死んだ」。小道具は「浅草などで外人向きに売っている」とおぼしき、三島の用意した大小である。仰向けにされた「首の無い筈の死者は、薄目を開けて次なる介錯者の兄貴の死を眺めた」。そして「三島は上半身裸になった。まだボディビルを始めていなかった裸は痩せて貧相で」……しかし三島は真剣な演技を続け、「ドッと私の死骸の上に倒れ込んだ」。

 ヴィースゼーの白い裸体についての記述をあらためて私は思った。

「もちろん」、「映画の本筋とは関係ないところ」でそれをやれるヴィスコンティと違い、三島は政治という口実を必要とした(そうでなければ、たとえば松田修のような「恥」を忍ばなければならなかったろう☆☆)。世間向けには、原作・脚色・監督・主演の『憂国』でさえ、男女の相対死(あいたいじに)という形でしか差し出すことができなかった。代りに、堂本(および他の男性)に筆写、書き替えさせて中井英夫のパートナーB氏が出していた「アドニス」に載せた『愛の処刑』、『憂国』演出者・堂本との、撮影の二日間泊まり込んだ帝国ホテルのツイン・ルームでの「リハーサルを兼ねた」「久しぶりの切腹ごっこ」等々があったろうが、「ヴィスコンティの企み」の秩序と美、襲撃前の気遠くなるほどの待機の静けさと豪奢な悦楽を思うとき、それはあまりにも貧しくはなかったか? 金井美恵子が書いている、幼いナボコフがわがものにした、黒鉛の芯が端から端まで通ったロリータの背丈ほどの太い巨大な鉛筆と、『青の時代』の文房具屋の貼りぼて鉛筆の差にもまさる彼此の差。三島にもそれはわかっていただろう。映画制作や他の映画出演も含めて、すべてがリハーサルであったかのような(「『憂国』が済むと「ゴッコ」はやんだ」と堂本は描いている)一回きりの本番が、いくら西武百貨店特注のコスチュームに身を固めての真剣(文字通りの!)プレイであろうと、ヴィスコンティのまばゆさの足許にも山裾にも及ばぬ――「総監や総監室の調度、バルコニーの片端やを瞳に灼いて死ぬなど、いささか侘びしすぎる」(松田修)――自己処刑は、裸電球の下でまばらな観客を前にしての場末のドサ回りにも似たショウでしかついにありえぬことが(「三島の刀影に、森田の凛々しい顏が映る」と、自分でも信じなかったであろうことを松田は書いている)、三島にはわかっていたに違いない。


さらに三十年の時差があり……数年前、若い日本美術研究者の講演を聞く機会があった。特に草創期の歌舞伎の話のあたりに、松田修の著作を髣髴させるものがあり、終了後、私は直接、話が面白かったと伝えた上で尋ねた。私の知識は松田修あたりで止まっているが、その後、国文学の分野で研究の進展はあったのだろうか、あれば読んでみたいのだが、と。果たして、自分の知識も「松田修先生」の仕事から来るものだと彼女は答えた。そうやって松田が読みつがれていると知って嬉しかった。ただし、松田を継ぐ者はいないということだった。

☆☆ 『華文字の死想』の巻末「解題」をしているのは山口昌男であるが、今日、その内容のうち、三分の一を占めるマクラの部分は、松田に対するセクハラとしか読めない。インドネシアで、伝統儀礼についての知識を授けられる代償に、ホモセクシュアルの行為をしかけられて調査をあきらめたという話を披露した山口は(松田のテーマである美少年だの同性愛だのの話題に入る前に、「自分はそうではない」とことわっているわけだ)、帰国後の調査報告で、「ジョークであるが」と前置きしつつ、「このように調査は、私の勇気の不足と決断力の無さの故に挫折したが、次は、松田さんあたりに同行して貰いたいと思っている」と喋ったと書いている。
[PR]
by kaoruSZ | 2009-08-23 11:08 | Comments(0)