おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

愚鈍な女

特にGoogle+ からいらした方へ。

佐藤亜紀氏が私への中傷を重ねている件についてはhttps://twitter.com/#!/kaoruSZの5月24日以降のポストをぜひご覧下さい。遡るにはtwilogが便利でしょう。http://twilog.org/kaoruSZ

佐藤亜紀氏の読者のような良い趣味をお持ちの方なら、私の記事は当然お気に召すことでしょう。どうぞごゆっくりお過しください。

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  吉本 その作品の特徴が自分の心の特徴と関係があるというところはみないわけですか。
  萩尾 それはみますけど。(笑)

 

 八十一年に『ユリイカ』の「少女マンガ」特集で、萩尾望都と吉本隆明が対談をしている。最近になって読み返すまで、萩尾が、電話をかけてきた自分の読者だという高校生の少年に「あなた変態ですか」と言ったという箇所しか覚えていなかった。吉本が「萩尾さんがそう言ったのですか」と驚いたのだと思っていたが、そう応じたのは編集者で、吉本は驚いていなかった。彼は終始、落ち着き払って、行き届いた理解者ぶりを萩尾の仕事に示していた。
「これだけのことをやるのはなかなか難しいなというふうに、ぼくは思うんです。つまりことばの世界だけに終始しているそういうとこからいうと、とても素晴らしいです」(84ページ)

 手塚治虫の『新選組』を読んで、「そのときはじめて、ああ、マンガって自分の考えをかけるんだわって思ったみたいなんです」(87)と語る萩尾に、「マンガっていうよりも、自己表現でいいんだっていう、そういうところから出発したといってよろしいのですね」(87)と吉本は言う。[以下、強調は引用者]

 これは、マンガ=コミカルなもの(「喜劇的なもの」)という認識がそれ以前にはあったということらしく、そうではない、「自己表現の手段として使える(萩尾、88)という認識から出発したのかと、吉本が萩尾に確かめたのだ。対談のタイトルからして、「自己表現としての少女マンガ」となっている。

「ぼくなんかみると『雪の子』というのが、小説でいう内面描写というのがよくできてて、これがきっとなにかのきっかけになったんじゃないかなと、そういうふうに読めるんです」(89)

「それとともに、ぼくなんかが大へんあなたの作品で関心をもつところのひとつなんですけど、だんだん、そこらへんでエロス的な世界に入っていったんじゃないのかなという、そこがものすごく関心をもつところですよ。つまり萩尾さんの世界で、ぼくなんかがそういう点でいちばん自己表現として興味深いといったほうがいいと思うんですけど、少年と少年との同性愛みたいな世界が出てくるでしょう。それがとても面白いんですよ」(89)

「それはたぶん萩尾さんのなかに,本来的にいえば少女と少女の同性愛だという世界の、それのひとつの転写になってるんじゃないか」(89-90)

(嫌いなものを描くのを避けるので)「結局わたしにとってマンガというのは現実逃避だった、ということになっちゃうんですね」(91)と言う萩尾に――「ぼくらがみてると、マンガというか劇画のなかで、あんまり逃避しないで、相当思い切った内面性を発揮しているとみえます」(91)

「萩尾さんのいまの作品でも、『ポーの一族』でもそうですが、少年と少女の世界みたいなもの、あるいは『トーマの心臓』でもそうですけども、そういう世界の一種のエロチックな、あるいはエロス的な錯綜した関係みたいなものを描き出そうとするとき、どう考えても、これは全部女性だな、登場人物が全部男性になってるけど、全部女性だなっていうふうにみれると思うんです」(91)

「萩尾さんの作品のなかでいえば、ある時期の透明さというものは、エロス的な関係のなかに出てくる透明さじゃないような気がするんです。ですから、ああいう関係のなかで出てくるきかたっていうのは、本当は少年には本来的にはそんなにないと思います。だから、ぼくはむしろ、少女と少女の世界と、そういうふうに読んでるわけです」(91-92)

 なぜそう読めるかといえば、吉本にはそれと少年の世界との差異が「興味深くて、そこのところで、もしなにか心にかかるものがあるとすれば、淀むみたいなものがあるとすれば、それは萩尾さんの内的な世界の表現なんだろうなと、そういうふうに思いながらみるわけですね」(92)

 結局、吉本は、それに、「少年のほうは露骨にもってる、いい年になるまでもってる」(しかし少女にとっては失われたものである)母親への愛着だと名前を与える。少女の場合、それを「強烈に隠しちゃうんじゃないか」(「少年の場合、母親に対する愛着というのを露骨に、一度も隠さないと思うんです」)、「その隠しちゃうものが、そういうある時期の世界に出てきちゃうという、ぼくはそう思うんです」。「萩尾さんの内面的な世界と関係があるのは、そこなんじゃないかとおもったりします」(92)

 昔、十八歳でデビューした女の作家について、子宮感覚云々という言葉で取り沙汰されたことがあったが……吉本が上品な吉行淳之介に見えてきた。萩尾と中沢けいでは格が違うが。

 吉本の拠って立つところは全くと言っていいほど萩尾の関知するものではない。男が少女マンガ(萩尾の作品)を読むようになったことは、「わりあいに本懐なんじゃないでしょうか。欣快というか、ちがいましょうか」と同意を求める吉本に、「いや、男の人でもやっぱり読みたい人がいるんだろうなぐらいにしか思わない」(114)と萩尾は答える。「あなた変態ですか」のエピソードがそれに続くのだが、「それ変態だと思いますか」と良識ある吉本は問いかえす。「この作品のこういうところを読んでくれるなら、誰が読んだってちゃんと理解してくれるはずだとか通ずるはずだとかっていうことはあるんじゃないででょうか」(115)

 しかし萩尾は、あくまで、対象は女の子だと主張する。

「けっきょく同世代の女の子むけという感じがして、いちばん最初はかいてるから」/「少女マンガですもの、女の子ですよ」/「だからあくまで対象は女の子なわけです」(115)
 それはそうだろう、現に目の前の吉本には通じていない。描かれているのが少年であることを否定し(男性同性愛の表象であることを忌避し)、少女と少女に、さらに萩尾の内面にそれを還元しようとする。〈少女マンガ〉という事件を「ぼくら」の言葉に置き換えようとし、編集者も、「それが表現してたものというのは、決して萩尾さんが思ってたような読者対象ではなかったような気がする」(116)と(好意から)口添えする。萩尾の答えはこうだ。「あれをかいたのは二十二だから、二十二ぐらいまでは読めたりして」

 男の批評家にほめられるのを名誉だ、出世だと思っている女なら、嬉しさに頬がゆるむだろう。あなたのかくものは、女の子相手のものと自他ともに思っていたかもしれないけれど、本当は「ぼくら」が感心して読むほどすごいものだったんですよ。吉本さんだってほめているんですよ。吉本さん、すごい方なんですよ。そんなふうに持ち上げられたら、有頂天になるだろう(なってる奴が現にいる)。まあ、そういう下心あって描いたものは、所詮その程度のものであるが。

 それは何かの「転写」ではなかった。物語の、心情の、思想の、時代の、内面の転写ではなかった。ただ思いがけないものが思いがけなく集まって出来た、根拠を持たない、自己表現などというものからはあたう限り遠い何ものかであった。ドゥルーズにならって凡庸の反対を愚鈍と呼んだ人がいる(愚鈍と言われているのはフランス語のBetiseで、Beteとは獣のこと――「美女と野獣」の野獣だ)が、今回つくづく感嘆したのは、吉本に馴致されない萩尾のけものっぷりだった。

 女の小説家がブログで、低級な萌え女と一緒にされたくない(大意)と書いているのを見た。評論家が「まともに小説を読解して解釈して論じるだけの蓄積もスキルもなしに差別意識剥き出しの豚野郎であることを露出して恥じないご時世」という書き出しに、ふむふむと頷きながら読んでいたら、突然、「萌え」への攻撃になった。ポリティカリー・コレクトリーに男性ゲイに気をつかい、「まだ二十歳前でご多分に漏れずホモ萌えだった頃(その後、世の中もっと幾らでも面白いことがあるのに気が付いて熱が冷めて来た」――(マア、“I was gay”?)――その「熱が冷めて来た」頃に読んだ、KV相手の対談でのKMのふるまいが決定的だったと言い、当事者を前にしての、男性用エロゲー(「凌辱ゲーム」と呼んでいる)擁護なみだと、男女の非対称を無視して主張していた。腐女子の自意識もアイデンティティーも持たないからこそ、あえて「あたしは腐女子だと言われてもいいのよ」なるタイトルを冠した原稿の後半をウェブ・マガジンに送ったばかりだった、そして小説家の長年のファンである私を、それは複雑な気持ちにさせた。電話してきた友人にこの話をした。作品を萌えだけに還元すると言って、萌え女を非難している、と説明した。

 ――萌えだけに還元するなんてありえない、と、友人はいつもながらの明快さで言った。それ以外の部分が あるから、萌えもあるんじゃない。萌えは、解釈をねじまげたり、そこしか読まなかったりなんてしない。それより、ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が、現実にはずっと多いというか、その方がフツーに問題じゃない?
 ――そうか、はっきり書いてあるのに、読まなかったことにされるものね。
 ――ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、しない。
 ――うーん、それ、ブログに書かせて。
 ――彼女の小説だって、ホモフォビックな読み手には本当は理解できないよ。
 ――当然のことながら、そういうものって、ゲイの男だから理解できるってものでもないよね。
 ――もちろん。美意識の問題だもの。耽美的な男性同性愛表象の男の書き手って絶えてるじゃない。それで、過去のものなら擁護するわけでしょ、『男色の景色』のインタヴュアーみたいに、文化として存在したものだから認めなければならないって☆。現在の、それも女の子の書くものなら攻撃していいと思ってるのよ。所詮女は女だから、芸術的達成には至らないと、最初から見くびられてるのよ。
 ――でも、あれだけ突出してレヴェルの高いものを書く人が、“女の子”と一緒にされることなんか気にする必要はないと思うんだけど、と私は言った。
 ――だからこそ、なんじゃない? ついでに言えば、それ、男からそう見られたくないってことでしょ。
 ――あー、女であるために、あれだけの人でさえ、自分はバカな男並みに認められてないって感じてるってことか。
 ――でも、と友人は言った。佐藤亜紀、そこで、「自分は“女の子”のために書いている」と言ったら男前だったのにね。

☆web評論誌「コーラ」の拙論http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-7.htmlで言及した。
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by kaoruSZ | 2009-09-07 23:28 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)
Commented at 2009-09-08 00:47 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented at 2009-09-08 09:53 x
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