おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

ロートレアモンの暗い沼(1)

             昨日の新聞記事と中世の韻文とが恍惚のなかで溶けあう暗い沼
                                             ――松浦寿輝
 

 年末年始に読むつもりで、昨年暮(!)配達してもらいながら、結局、年初めに一部に目を通したきりになっていた『ロートレアモン全集』(石井洋二郎訳、筑摩書房、2001年)を、先日やっと(不完全ながら)通読した。
 すでに文庫版も出ていたけれど、「註解」なしの版は問題外だった。以前、図書館で見て、たまたま開いたページの次のような註解の記述に目を瞠り、これは自分のものにしてゆっくり読もうと思ったのであるから――。

カプレッツは謎めいた一連の「……のように美しい」という比喩のうち、「永久鼠捕り器」についての記述は「何か広告の囲み記事を写しとったもの」であろうと推測しており、この作品の中でもおそらく最も有名な「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会い」という表現についても、「これら多様なオブジェの奇妙な結合は、何か雑誌の広告ページにそれらが一緒に載っていたことから出てきたもののように思われる」と述べていた。その後四十年間にわたって、この予感は裏付けを得られぬまま単なる予感にとどまっていたが、ルフレールの熱心な調査によって、実際にモンテビデオで発行されていた企業・個人名鑑の広告欄に、ミシンと雨傘、それに解剖台そのものではないが、外科手術の道具の宣伝が(ページは異なるが)同時に掲載されていたことが発見された。(『ロートレアモン全集』497ページ)

 本書巻頭に載せられた写真のなかに、この「企業・個人名鑑」の表紙および三ページ分の広告の現物――ミシンと雨傘、手術道具の、ページの上での出会い――が見られる。これはすごい!「この事態をつとに予言していたカプレッツの炯眼もさることながら、彼の予言を本当に立証してしまったルフレールの執念も、驚嘆に値しよう」と訳者の言うとおりである。

 ところで、これについて訳者は、「もちろん、この発見がただちに作品の価値を減じるものでないことはいうまでもない。むしろ、普通の人間であれば見逃してしまうにちがいない日常的な細部に意外な結合を見出し、これを「美」へと昇華させた詩人の卓越した感性に、あらためてオリジナリティーなるものの本質を感受すべきであろう」とも書くのだが……うーん、そんなこと言わなければならないほど、「この発見」が「作品の価値を減じる」と考える人って多いんででしょうか? 贔屓の引き倒しに類する文章に見えるし、これに続く部分で行なわれているような、クリステヴァなんぞで権威づけ・景気づけする必要ももとよりないと思うのだが。

 解剖台とミシンと雨傘なんて、「意外な結合」なんかじゃなくてたんなる寄せ集め、出まかせ、出鱈目(「企業・個人名鑑」を片手でめくりながらの)、息もつかせぬIl est beau comme に接続されるそれ以外のフレーズも、どう見たって美の形容にならないし、「美へと昇華」されもしない(むしろ、その内容が美とはまったく無関係、むしろ無意味であるところがすごいのだ)。 「意外な結合」とは、この、行きあたりばったりに手にした借り物フレーズを美(この場合は美少年)の比喩として文に組み込み、機能させ、美の形容として有無を言わせず現実化させてしまったことにこそあったのだから――。

彼は十六歳と四か月! 猛禽の爪の伸縮性のように美しい、後ろ頭の柔らかな部分の傷口の不確かな筋肉の動きのように美しい、あるいは、鼠が捕まる度に仕掛け直され、一台で齧歯目の獣を際限なく捕獲でき、藁の下に隠されていても機能する、永久鼠取り器のように美しい! とりわけ、手術台の上でのミシンと雨傘の不意の出会いのように美しい! 

『マルドロールの歌』の詩句の出典については、実は私も、ひそかにこれはと思っているものがある。「第四の歌」でマルドロールが髪をつかんで振り回した美少年ファルメールの体が飛んで行って、血まみれの髪だけが手に残る、あれはポーの「モルグ街の殺人事件」の、老婆の殺され方から来ていると思うのだ。(なお、上のはよせあつめの拙訳。)

 無惨な遺体で発見された母娘、レスパネエ夫人とレスパネエ嬢のうち、母親の方について、ポーのデュパンは次のように言う。

「(…)炉の上には人間の灰色の髪の毛のふさふさした束――非常にふさふさした束――があった。これは根元から引き抜いたものだった。頭からこんなふうに二、三十本の紙の毛だって一緒にむしり取るには大した力のいることは君も知っているだろう。君も僕と同様その髪の毛を見たんだ。あの根には(ぞっとするが!)頭の皮の肉がちぎれてくっついていたね。まったく一時に何十万本の髪の毛をひっこ抜くときに出すような恐ろしい力の証拠だ」(佐々木直次郎訳)

 そして、 「第四の歌」で、マルドロールにつきまとう、ファルメールの記憶は次のように語られる。

(…)ある日のこと、ぼくが一人の女の胸をつきさそうと短剣をふりあげたその瞬間、彼がぼくの手を押さえたので、ぼくは鉄の腕で彼の髪の毛をにぎり、ものすごいスピードで空中をふりまわしたので、彼の髪の毛だけが手に残り、彼の体は、遠心力によって投げとばされ、樫の木の幹にぶつかっていたということを……。(…)彼は十四歳だった。ぼくが精神錯乱の発作にとらわれ、久しい以前から大事にしている血まみれのものを、貴重な遺骨ででもあるかのように、ひしと心臓に押しあてて、野原をこえて走っていると、子供たちが、ぼくの跡を追いかけながら、……子供たちや婆さんたちが、石を投げ投げ追いかけながら、痛ましい呻きごえをふりしぼっていうのである。「あそこにフェルメルの髪がある」と。だから、あっちへやれ、あっちへやれ、亀の甲のようにつるつるな、髪の毛のないあの頭……血まみれのもの。だが話しているのはぼくじしんなのだ。

 上記、栗田勇訳ではじめて読んだ時から、このつるつる頭は、「モルグ街の殺人」の恐しい白髪頭が、夢において昼の出来事が変形されるように変形された結果だと私は信じてきた。「モルグ街の殺人」は小学校の図書館で読み、それから何年か経ってはいたが、若年のいまだとぼしい記憶の中で、二つのイメージは互いに容易に参照された。
 今回の新訳の註解に、これについての指摘を見つけられるのではないかと思ったが、見あたらなかった。誰かがすでに指摘していて、訳者が信ずるに足らずとして採らなかった可能性もないわけではないが、その証拠もないので、アマチュア・アームチェア・ディテクティヴとしてはとりあえずこれを自説として保留することにし、あらためて傍証はないかと考えてみた。本文のページを繰るうち、「第四の歌」の前のほうに、「二匹の雌オランウータン」の文字があるのが目にとまった。「オランウータン」とはいうまでもなく、かの有名な短篇で周知の役割を果たすもの――それがそこにいる。しかも「髪の毛」も欠けてはいない――「人類の中で最も醜悪な見本をまのあたりにしているのだと」語り手に思わせる「二匹の雌オランウータン」が、彼女たちの息子であり夫である男を後ろ手に縛り、「絞首台に髪の毛で」吊るして鞭打っているのだから。「年上の白髪まじりの女」と義理の娘がふるう理不尽な暴力とは、『モルグ街の殺人』のあわれな被害者たちが「雌オランウータン」に変身しての、逆転された奇妙な攻撃ではないか。

 もう一つ気づいたことがある。ずっと忘れていたが、レスパネエ夫人は頭皮を剥がされて死んだわけではなく、剃刀による傷で死んだのだが、それがまた凄い――「その咽喉が完全に切られていたので、体を起そうとすると頭部が落ちてしまった」。
 以前、久方ぶりに「モルグ街の殺人」を読んだ時、私はこの、剃刀による殺害の細部をすっかり失念していたことに気がついた。娘のほうが暖炉の煙突に逆さに押し込まれていたことは覚えていたのに。最近になって、「つるつるの頭」の記述を確認するため見直していて、私はまたも、この恐しい傷の描写に、はじめてであるかのように(そうでないことはすぐわかったが)出くわした。こんなふうに忘れてしまうところをみると(こうして書いたからには二度と忘れられなくなろうが)、髪の毛の剥奪にもまして首が落ちるほうが怖いと(意識的にせよ無意識的にせよ)思っているのだろうか。『マルドロールの歌』の作者の場合ははどうだったろう? そこまで考えて、マルドロールはギロチン/剃刀の下に三度首を差し伸べるが、三度とも刃は頚骨で受け止められ、結局、頭は落ちないのを思い出した――「ぼくが自分の頭を重いかみそりの下に差しのべると、死刑執行人は彼の義務を遂行する準備をした。三たび、刃が新しい力をこめて細溝をすべりおち、三たび、ぼくの頑丈な骸骨は、特に頸根っこのところはそうだから、土台からゆり動き、まるで、夢のなかで、崩れる家におしつぶされたかと思う時のようだった」(栗田訳)。

 首が落ちる/落ちないことへのロートレアモンのオブセッションの源泉の少なくとも一つもまた、モルグ街の惨劇についての記憶ではないだろうか。
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by kaoruSZ | 2009-10-11 08:26 | 日々 | Comments(0)