おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

萌えとホモフォビア――検閲について(1)

                              例ふれば恥の赤色雛の段    八木三日女    


 昔、国語の教科書に伊藤整の小説『若い詩人の肖像』の一部「海の見える町」が載っていて、感想文だか何かを書かされた。小樽の学校に進学した文学青年が自分の同類を見出す話、と当時の私は受け取ったようだ。私自身、高校に入って出会った同級生を、ついに自分に似た存在(本の話ができる相手、むろん女の子)を見出したと思って恋うていた幸福な時期だったこともあり、この感情はひどく親しいものに思われて、その線でまとめたらしい。なにしろあまりに時間が経っているので、どこからか出てきたとして(出てきてほしくないが)、記憶が現実とずれていることは大いにありうるが。

 それから十年あまり後に小樽へ行くことになり、ふと思い出して事前に『若い詩人の肖像』の文庫本をもとめた。教科書に載っていた部分はすぐ見つかったが、驚いたことに見覚えのない文章が肉に混じる脂身のようにあちこちに入り込んでいる。併せれば相当の量になろう。どこが教科書に採られ、どこが削除されていたのか、まだ若くて写真のような記憶力を持っていた頃だから、継ぎ目はくっきりと見分けられた。こんな孔だらけのものを読まされていたのか。

 削除されていたのはすべて、生徒間の男色にかかわる記述であった。それらを取りのぞいた上で、あたかもはじめからそうであったように整形されていたのである。

 このエピソードを思い出したのは、斎藤美奈子が《中学2年の国語教科書の定番教材》『走れメロス』について書いているのを読んだからだ。一篇の結びを斎藤は次のように紹介する。

ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げ、セリヌンティウスがメロスに言うのだ。「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」。そして最後の一文。(勇者はひどく赤面した〉                        
「名作うしろ読み」読売新聞2010年6月4日付夕刊

 はて、「この可愛い娘さんは」ではじまる一文は、私の使った教科書にあったろうか。《ちなみにかつての教科書にはこの部分を(裸は教育上よろしくないという理由で?)カットして載せていたのもあったらしい》と、斎藤も言っている。しかし、「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい」と「勇者はひどく赤面した」には間違いなく覚えがあった。ひょっとして、《かつての教科書》には、「この可愛い娘さんは」云々だけをカットしたヴァージョンがあったのだろうか?

 さらに斎藤は言う。《それだと》――つまり、裸の出てくる部分を削除すると――《「万歳、王様万歳」という群衆の歓声で終わる『走れメロス』は友情の物語、メロスは王を改悛させた英雄になってしまう》。そして、《だけど、ほんとうにそうなのか》と問うて、次のように論じる。

 小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わるのがポイントだろう。赤い顔で激怒していた赤子のようなメロスが最後は赤い顔で恥じ入る。いいかえれば、単純素朴だった青年が恥ないし世間知に目覚める。そこから遡れば、この小説は感情のままに猪突猛進する者、あるいは「心もまっぱだか」な者の恥ずかしさを暗に描いているともとれるわけ。
 マントを手にした少女も「君は裸だ」と指摘した友も「メロス、オトナになろうよ」と促しているように見える。メロスが赤面したのは単に自分が裸だったからなのか、それとも自己陶酔に近い自分の行為に対してだったのか。いずれにしても最後、メロスはコドモからオトナに変わるのだ。


 なるほど、友情物語、信義の大切さ、真摯な行為が人の心を変えうること、などを読み取らせようとするドクサを、ここで、メタ・メッセージを引き出すことで斎藤がくつがえそうとしているのはわかる。《それを成長ととるか俗化と解釈するかは微妙だが、ひねくれ者の太宰だもん。ただの感動小説のわけないじゃない》というのが記事の結び。だけど、ほんとうにそうなのか。結果として友情や信実の称揚に代わって、「オトナになること」(《成長か俗化かは微妙にしても》)を掲げることになった斎藤は、十分に《ひねくれ者》でありえただろうか(むしろストレートなのではあるまいか)。

 そもそも斎藤の読みは、私に見覚えがないように思えたあの一文――「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」――への考慮なくして成立している(ただし、ここで抑圧されているのは、少女とメロスの異性愛の表出ではない)。セリヌンティウスが彼女の内面を推しはかっていうこの言葉には、一片のリアリティも感じられず、彼女はマントを腕に掛けてハンガーのように立っている木偶人形としか思えない。これは、少女にかこつけてセリヌンティウスが自らの心情を吐露したものでなくてなんであろう

 それにしても私の使った教科書には、本当にその部分がなかったのだろうか。いつもなら探している蔵書はけっして見つからない本棚をちょっと捜すと、何とも恐しいことに中三の国語教科書があっさり出てきてしまった。見ると巻末に『メロス』が載っている(二年の定番と斎藤は書いているが、これは三年)。はたして件の科白はちゃんとあった(どうやら、私の記憶が検閲されていたらしい)。

 そうであれば、やはりあの科白も、恥ずかしさに拍車をかけたに違いない。思えば『走れメロス』は恥ずかしい小説である。メロスが赤裸を恥ずかしがるだけでなく、中二か中三の男女とりまぜた教室で《まっぱだか》の男を全員がイメージせざるを得ない状況に置かれ、あまっさえ運の悪い一人はそのくだりを朗読しなければならなかったという記憶によってのみならず、メロスとセリヌンティウスが、一度だけ互いを疑ったという内面を告白しあって、一発ずつ殴り合い、「ありがとう、友よ」と「ふたり同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた」なんて、もう最高に恥ずかしい。おまけに、理不尽に人を殺していた暴君までが、あろうことか改心したいじめっ子のように「静かにふたりに近づき、顏を赤らめて」、わしも仲間に入れてくれ、なんて言い出すのだから。[表記は見出された教科書による]。

 斎藤の言うように《小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わる》のは重要である。だが、私たちの目には、それ以外の「赤」も映る――「激怒」が「赤面」になるまでのメロスの踏破するページにあざとくも撒布された、「灼熱の太陽」、「真紅の心臓」、木々を染め上げる「斜陽」の「赤い光」、鉄人レースに「呼吸もできず、二度三度」メロスの口から噴き出る「血」、「胸の張り裂ける思いで」メロスが見つめる「赤く大きい夕日」、「顏を赤らめ」る暴君、「緋のマント」――そうやって移りゆき、リレーされた末、ついに再びメロスの面に「赤」は宿るのだ。生まれ出たばかりのように赤裸でマントに包まれるメロスは、結局、「赤子」のままではないのか。

 だが、別にここでは『走れメロス』についてこれ以上何か言おうとするものではない。昨年9月7日付で「愚鈍な女」と題する記事を書いた。あそこで、「ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、[検閲を]しない」と、そして、「ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が現実にはずっと多い」と述べたことに関連させて、オルハン・パムクの『わたしの名は紅[あか]』を取り上げるのがそもそもの目論見であった。『若い詩人の肖像』から同性愛への言及を削ったのはホモフォビアであり、斎藤美奈子が神話破壊の読み手たらんとして結果的にもう一つの教訓的ストーリーを引き出してしまったのは「萌え」の抑圧の結果であろう。『わたしの名は紅』はといえば、検閲されたわけでもなく、誰の目にも明らかに、書かれ、名指されていながら、おおかたの批評から男同士の愛が黙殺されている好例だ。しかも、無視された事柄は後述するとおり一篇の主題と分かちがたいのだから、まさに「批評の質が著しく損われ」ている。

 最近、パムクの場合、具体的に検閲かと疑われさえする事実があることを知った。2ちゃんねるのスレッドで『わたしの名は紅』の日本語訳に欠落があることが指摘されているのを見つけたのだ。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1163674130/l50

 以下が、トルコ語からの英訳“my Name is Red”にあって(トルコ語原文にももちろんあるとのこと)、日本語訳にない部分。

I was told that scoundrels and rebels were gathering in coffeehouses and proselytizing until dawn; that destitute men of dubious character, opium-addicted madmen and followers of the outlawed Kalenderi dervish sect, claiming to be on Allah's path, would spend their nights in dervish houses dancing to music, piercing themselves with skewers and engaging in all manner of depravity, before brutally fucking each other and any boys they could find.

 英語版を見てみたところ、確かにそのとおりだった(“my Name is Red” 9ページ)。上に挙げたのはパラグラフの後半だが、これが抜けているので、邦訳27ページの終りから二番目に当たるパラグラフは、オリジナルの半分の長さしかない。むろん、不注意で落ちたということは十分ありうるし、今の日本でこうした表現を制限する理由はありそうにないが。

『わたしの名は紅』の訳文の欠点はあちこちで言われていて、確かにひどいところは本当にひどい。文法的に変なところ(そういう箇所が多すぎる)さえなければ、文章自体には魅力があると思うし、正確に訳せてもセンスが悪い人はどうしようもないから、逆に惜しいのだけれど。

 ちなみに、上に引用したくだりは十二年ぶりにイスタンブルに帰ってきた“カラ”がピクルス売りから聞く、異端のカレンデリ派のコーヒーハウスでの乱行(/交)ぶりだが、そのものずばりの表現もさることながら、ここは先へ行ってコーヒーハウスが暴徒に襲われる事件の最初の伏線になっているし、これを読んでいれば50章で語り手になる二人組がどういう連中か、彼らがカレンデリ派だというだけでもう私たちにもわかっていたはずなので、この脱落による影響は一見そう思われるより大きい。(つづく)
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by kaoruSZ | 2010-06-21 01:18 | 文学 | Comments(0)