ヘーゲルや
2004年 12月 16日——季語がない!
——いや、無季俳句だ!
——田崎さんは意図的にやっている!
——それはありえない!
——「作者の意図」には関係なく、効果として意味が生じている。さっきのところでデリダも言っていた!
と談論風発、大笑いだったのだ。
あとで一人になって思い出し笑いしつつ、「ヘーゲルや」と切れ字にしてはじめて俳句と言えるのでは、と思ったり、「ヘーゲル忌」とすれば有季になる(ヘーゲルの命日はいつかって? 知るものか!)などと考えるうち、俳句について知識を得たくなった。『俳句をつくろう』は、俳句はなぜ五七五という形をしているのか、というところから説き起こす、わかりやすくて面白い本だった。俳句は連歌から来ており、連歌は和歌から来ている。こうした歴史抜きで俳句は理解できない、あるいは俳句について論じるのは無意味だと一応は言えるだろう。一応、と留保をおくのは《父》に回帰しない読みという、今回の読書会で出たコンセプトとからむ話であり、また、『俳句をつくろう』の前に買った『アウトサイダー・アート』(服部正、光文社新書)から伸びている思考でもある。私の設問は次のようなものだ——「言語藝術にアウトサイダー・アートは存在するか?」
私の考える答えを先に言ってしまえば、「存在しない」である。人を凡庸にする制度的な美術教育(服部の言葉を引けば、藝大受験用の予備校で教えられるような)に相当するようなものは文学にも確かにある。だが、言語藝術の担い手にとっての「教養」はそれとは別のものであり、不可欠であるのみならず、いくらあっても邪魔になることはないからだ。そういえば文学に山下清はいないと、深沢七郎論で天澤退二郎が書いていたっけ(『楢山節考』でデビューしたとき、そういう言われ方も一部でしたらしい)。その山下清を世に出したのが式場隆三郎だとは、寡聞にして知らなかった(『アウトサイダー・アート』で今回知った)。式場隆三郎の名は、澁澤龍彦の本を通じて、深川にあった奇妙な建築「二笑亭」とその作者の紹介者としてのみ記憶していた。山下清に後ろ盾になる医者がいたことは話として知っていたが、それが式場だったとは。
(つづく)