おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

ヘーゲルや

『俳句をつくろう』(仁平勝、 講談社現代新書)という本を買ったのには、先日の「きままな読書会」の際、議論が一段落したところで出た、「【ヘーゲルの担うに重き自明性】は俳句になっている!」との指摘にぜったい関係がある。この「句」自体、[デリダの]「バタイユ論の冒頭のエピグラム、バタイユからの引用」であり、それを田崎英明が、「現代思想」のデリダ追悼号によせた文章の中で引いている。これについて、

 ——季語がない!
 ——いや、無季俳句だ!
 ——田崎さんは意図的にやっている!
 ——それはありえない!
 ——「作者の意図」には関係なく、効果として意味が生じている。さっきのところでデリダも言っていた!

と談論風発、大笑いだったのだ。
 
 あとで一人になって思い出し笑いしつつ、「ヘーゲルや」と切れ字にしてはじめて俳句と言えるのでは、と思ったり、「ヘーゲル忌」とすれば有季になる(ヘーゲルの命日はいつかって? 知るものか!)などと考えるうち、俳句について知識を得たくなった。『俳句をつくろう』は、俳句はなぜ五七五という形をしているのか、というところから説き起こす、わかりやすくて面白い本だった。俳句は連歌から来ており、連歌は和歌から来ている。こうした歴史抜きで俳句は理解できない、あるいは俳句について論じるのは無意味だと一応は言えるだろう。一応、と留保をおくのは《父》に回帰しない読みという、今回の読書会で出たコンセプトとからむ話であり、また、『俳句をつくろう』の前に買った『アウトサイダー・アート』(服部正、光文社新書)から伸びている思考でもある。私の設問は次のようなものだ——「言語藝術にアウトサイダー・アートは存在するか?」

 私の考える答えを先に言ってしまえば、「存在しない」である。人を凡庸にする制度的な美術教育(服部の言葉を引けば、藝大受験用の予備校で教えられるような)に相当するようなものは文学にも確かにある。だが、言語藝術の担い手にとっての「教養」はそれとは別のものであり、不可欠であるのみならず、いくらあっても邪魔になることはないからだ。そういえば文学に山下清はいないと、深沢七郎論で天澤退二郎が書いていたっけ(『楢山節考』でデビューしたとき、そういう言われ方も一部でしたらしい)。その山下清を世に出したのが式場隆三郎だとは、寡聞にして知らなかった(『アウトサイダー・アート』で今回知った)。式場隆三郎の名は、澁澤龍彦の本を通じて、深川にあった奇妙な建築「二笑亭」とその作者の紹介者としてのみ記憶していた。山下清に後ろ盾になる医者がいたことは話として知っていたが、それが式場だったとは。
(つづく)
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by kaoruSZ | 2004-12-16 23:06 | この分類に含まれるもの | Comments(0)