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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

鷲谷花批判「女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた」のか?(上)

後日談あり http://kaorusz.exblog.jp/14892828  

            
僕はただ、女嫌いで女性を出さないというふうに見ている人も多いと思うけどね。あの物語に関しては、久生を除いて女性に出てこられちゃ困る、という感じなんですね。 ――中井英夫
                             
                               

 なかなか更新できないでいますが、今回、友人のtatarskiyから場所を貸してほしいと原稿をもらい、これは広く読まれるべきものだと考えましたので、ゲスト・エントリとして掲載いたします。
 
 これは、現在、以下で読むことのできる、鷲谷花さんの論考について書かれたものです。、

http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081010/1223647850
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081017/1224253971

 鷲谷さんの文章については、私自身、大分前になりますが、むしろ好意的に言及しています(参考までにあとで読んで戴ければと思います)。
 そこにも書いていますが、私は最初、個人ブログでないサイトに他の書き手とともに載っているのを見つけた、才能ある若い女性研究者とお見受けした鷲谷さんの論考の、「腐女子」という種族化・属人化、「BL」という商業ジャンルへのゲットー化ではない、メインストリームの文化に見てとれるようになった〈やおい文化〉という包括的な捉え方や、具体的な映画作品を対象とした冴えた分析に注目し、さらには、〈やおい文化〉が「インターネットの普及をきっかけに、かなりグローバルなレベルで、映画の消費文化のひとつのメインストリームを形成しつつある」とか、『ロード・オブ・ザ・リング』がそこでは大きな役割を果たしたとかいう、私が全く通じていなかったトピックに引かれて、フェミニストを自任する、しかし「やおい」については知識のない人たちが少なからず集まる場所で少々話した際に、資料として使わせてもらいました。

 しかしそれは、鷲谷さんの説明を借りて彼女たちに効率的に情報を与えた上で、話を発展させられる(異論の提示を含め)と思ったからであり、〈やおい文化〉という括りに私が心から満足していたことは一度もありません(そのあたりはあとで挙げる私の関連エントリからも窺えると思います)。

 今回のtatarskiyさんの論考は、私よりはるかにラディカルな鷲谷さんへの批判です。

 tatarskiyさんの文章は私と違って非常に明晰なので、この上私から付け加えることは何もありません、と言いたいところですが、蛇足ながら最後にもう一度出てきて一言申し述べます。


鈴木 薫

 今回、この分析は、tatarskiyさんによって、いかに根拠のないものかが完膚なきまでに証明されてしまった。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  


二年間持ち越していた鷲谷花氏への批判、あるいは「ミソジニストはお前だ」

はじめまして。tatarskiyです。
鈴木さんの共同執筆者として「web評論誌コーラ」の記事に名前を連ねたことはありますが、単独で書いたものを掲載してもらうのはこれが最初になります。
さっそくですが、以下の文章は鷲谷花さん個人に対する批判であると同時に、彼女の論考「複製技術時代のホモエロティシズム」の最後の部分での、腐女子に対する“道徳的蔑視”をもっともな意見だと思われたような方たちに対してのものです。

まず、私が最も憤りを感じた部分からですが、

しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。


この文章は「私はこういうミソジニー的なホモソーシャル体制に無批判に“萌え”てとりこまれているような愚かな女達とは違うのよ。私は女性の方が素晴らしいと感じて女性の活躍こそを楽しみにしている、“政治的に正しい”女なのよ」
という、それこそミソジニー的なメタメッセージを内包しています。

それこそ「じゃあ貴女はそういった“活躍する女性”をオカズにしているの?」と聞き返してやりたくなりますね。上の論考の中で、彼女は映画の二次創作を楽しんでいる女性達を、一貫して「男同士での性関係を快楽の対象とした性的ファンタジーの持ち主」として表象しているので、本当に自分を「そういう女たちとは違う女」として表象なさりたいなら、「私のオカズは男同士じゃなくて男女or女同士のこういうパターンです」というところまで表明しなければ無意味です。
“野暮ないちゃもん”とか和らげたつもりになってみせたところで、こういう文字通りの差別化をせずにはいられないところで馬脚をあらわしています。

しかも「女性が活躍する映画が見られなくなったのは男同士の話を好む女が増えたせいだ」とでもとれるような結び方ですが、鷲谷氏はそれまで「女性の観客が男同士の話を好んで二次創作をするという消費の仕方がネット時代になって目立つようになった。映画そのものもそういった女性たちをあらかじめ観客として当てにして演出されているようにも思える」という論旨を展開していただけで、「男同士の関係をクローズアップした映画が増えたせいで女性の活躍する映画が減った」という論証をしていたわけではないのに、この結びの部分で無視できない(悪質な)印象操作的な飛躍をしているわけです。

これって、彼女がそれこそ女だから「こういう女たちとは違う」という形をとりましたが、本質的には男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じです。要するに、“男同士での性的なファンタジー”を享受する主体は不健全であるとする病理化です。

え?「男同士のファンタジー自体が不健全なわけではない。ゲイ男性なら問題無いけれど、女がそれを好むのはやっぱり異常だ」とおっしゃりたい?
まず、“男性による女性イメージの横奪”こそ歴史的には現在に至るまで続く制度化されたお家芸です。
下の(まだ私が鷲谷氏はおかしいと意見する前に)鈴木さんが書いたエントリーにその一例が取り上げられていますが、
http://kaorusz.exblog.jp/8729974
端的に言って、“女”なるものは男性が自分のものとしては抑圧した受動性を女性に投影したイメージであり、また、能動性としての“男らしさ”とは、「受動性を“女”として外在化し続けること」すなわち抑圧によって成り立つものであり、つまり“男”も“女”も“男のもの”なのです。
この秩序は必然的に、「男性が同じ男性に対して受動的であること」つまり男が“女”になることを最大のタブーとしますが、それ故にこそ、「男でありながら受動性=“女”を自分のものとして体現する」男性は「女以上に“女”らしい」ものとして受容されます。

馬鹿でない方にはもうおわかりでしょうが、前者は基本的に“異性愛”と呼ばれるものの基本的な図式であり、後者の「“女”を自らが体現する男」とは“同性愛”と呼ばれてきたものに本質的な関連を持ちます。(ここで「女性にも同性愛はあるじゃないか」とか言い出そうとした貴方は単なる馬鹿です。ホモ/ヘテロという区分を自己の主体化の為に大問題とするのは常に男性であり、本質的にこの区分自体が“男のもの”です。女性は「男の差別につきあう」形でそれを内面化=補完するのです)

そして、この“受動性”こそエロティシズムの享楽には欠かせないものであり、「私は能動的な女が好きなだけ」という言い逃れは通じません。
また女性にとっては上に述べた「男性のヘテロセクシュアリティの図式」を補完する「“女”であることを受け入れた女」であることしか許されておらず、「男を補完せず、また“政治的に正しい”とは評価されない性的ファンタジー」を持つことは侮蔑の対象にしかなりません。(“男同士”ファンタジーはまさしくこれに該当します)

繰り返しになりますが、だいたい“男同士”ファンタジーに対して“単品の女”(としか読めない)という反論になっていないものを持ち出してきているのが卑怯ですね。この場合、“男女”か“女同士”でなければ持ち出す意味は無いです。(たとえその場合でも「性的ファンタジーに道徳的ヒエラルキーを持ち込んで差別した」という噴飯物の性的人権侵害がより明示的になるだけですが)

つまり鷲谷氏が結果的にやったのは、「女のくせに、受動性を“女”として受け入れないのはけしからん。不健全である」という、「女の分際をわきまえろ」という最悪の意味での保守的な説教であり、より直接的には「女は女らしくするべきなのに、今時の女は生意気になっちゃって、同じ女として恥ずかしいですわ」という実にミソジニー的な“貞淑さ”のアピールです。
だいたい、「“正しい女像”に同一化できない女は不健全である」という使い古された差別的なテーゼを用いてフェミニスト面をするというのが信じられません。
「男同士というパターンの性的ファンタジーを持った生身の女性より、“スクリーンで活躍する女性たち”とやらに自己投影できる私の方が“健全”である」という浅ましい蔑視です。

また、彼女が言うような「潜在的にホモエロティックなホモソーシャルの映画」が最近になって急に出てきたという事実はありません。
変わったとすれば、それが「どうせ女向けの偽物」という実にホモフォビックでありミソジニー的な“安全化のラベリング”の対象になり、そのラベリングに基づいた(男性にとっては、あらかじめ余裕を持って侮蔑することを許された)“マーケティング”<>が行われるようになったというだけでしょう。

たとえば彼女が持ち出していた映画『ヴァン・ヘルシング』の原作はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』ですが、この小説も含めた吸血鬼表象そのものが、近代以降の文学においては、同性愛の伝統的と言ってもいいほどのメタファーになっており、彼女自身もそれを知らなかったとは思えません。
(ちなみに狼は『吸血鬼ドラキュラ』の中でもドラキュラ伯爵の変身した姿として登場し、草稿の一部である短編『ドラキュラの客』では語り手とドラキュラ伯爵である狼との極めてホモエロティックな描写があります)

また映画『ロード・オブ・ザ・リング』とその原作『指輪物語』を比較すれば、フロドとその従者サムとの親密な絆が、ヘテロセクシャルな要素の大幅なクローズアップによってぼやかされ、(特に滅びの山の麓での場面のように)原作において感動的な場面に決定的に水を差しているのが見て取れます。

王となる宿命を背負ったアラゴルンとその仲間たちであるボロミアやレゴラスとの絆は、なるほど確かに原作よりも分かりやすくドラマティックに演出されていた部分もありましたが、同時にアラゴルンの婚約者アルウェンを、原作では彼女の出番でない場面において、他の男性キャラクターの見せ場を奪ってまで男勝りの活躍をさせたり、回想やテレパシー的な夢を挿入するという形で登場させて濃密なラブシーンを描いたりして無理に“ヒロイン化”しており、結果的に原作とは似ても似つかぬ「凡庸なホモソーシャル映画」に仕上げています。(ついでに言えば、監督のピーター・ジャクソンがアカデミー賞の授賞式で、フロドとサムの関係をゲイではないかという意見について、「ユーモアとしては買うがアイデアとしては買わない」といったホモフォビックな発言をしているそうです)

ちなみに原作者トールキンの描いた世界が『指輪物語』に限らず、特に『指輪』の前史にあたる『シルマリルの物語』においていかにクィアーなものだったかについては、「コーラ」に共著者として書いた拙稿をご覧ください。

映画の中の虚像としての女がどれほど“政治的に正しく、能動的に”描かれたところで、性的ファンタジーを持った生身の女性の解放には繋がりません。
また、「“正しい表象”の方を愛好できない女は間違っている」というフェミニズムの名を借りた道徳律に基づく抑圧は、いかなる場合においても正義ではありません。
それは保守的な性道徳の強化にしかなりえず、女性を萎縮させる効果しか持ちえません。女性をエンパワーメントするために必要なことの逆なわけです。「お前の道徳に承認されない正しからざる部分は“罪”なのだ」という脅しですから。

ホモエロティックなものがホモセクシャルな関係でもあるものとして明示的に描かれることが忌避されなくなり(男の“女性性”の忌避の解消)、それを生身の女性が享受することが蔑視されなくなった時(女性が性的なファンタジーを持つことの純粋な承認)には、世の中の“女性観”そのものが真に変革されていることでしょうが、その時にスクリーンにはどんな“虚像としての女”が映っているのか、それはその時代の人にしかわからないことですが、その時に生きている人たちなら──個々人のセクシュアリティともイデオロギーとも関係無く──みんなが知っていることでしょう。少なくとも「スクリーンでの素敵な女性達との出会いを求めて」などという空疎かつ実はミソジニーそのものの欺瞞的な文句が、その人たちの口から出るとはとても思えません。

とりあえず以上です。この長文をここまで読んでくださった方には感謝いたします。

──以下註釈および補足です──

とはいえ、この“マーケティング”にも果たしてどこまで実体があるものやら個人的には甚だ怪しいものだと思いますが。それなりに製作者側が念頭に置いていると思われるのは──それでも“男性向け”のセールスへの意識よりも優先順位は低いだろうと思いますが──日本のアニメ市場くらいじゃないでしょうかね?とても“グローバル”なものとは呼べません。
というのも、少なくとも欧米圏においては「男性同士のホモソーシャルな/エロティックな表象」の担い手および享受者の双方の中心は「狭義のゲイを含めた“男性”である」という前提は、それを愛好する側にとっても差別する側にとっても揺らいだことは無く、ましてや「“政治的な正しさ”を表明することを目的としない男同士の表象」は全て「女のせいにする」という態度がまかり通ることはありえません。
こうしたミソジニー的な責任転嫁の横行自体が“日本ローカル”な代物でしょうし、そうなった原因はまた今回の一件とは別の話になりますが、少なくとも女性の側には一切非はありません。

また「女性にとって男同士のエロティックな物語が魅力的である」ということ自体はおそらく普遍的なことですが、その社会的な意味づけは時代や文化圏によってそれぞれ異なるものであり、たとえば欧米のスラッシュ文化を指して「海外にもBL(やおい)がある」というのは、「江戸時代や古代ギリシャにも同性愛者がいた」と言うに等しい錯誤に過ぎません。

また鷲谷氏が持ち出していた他の映画も、彼女が作った筋書きを裏付けてくれるようなものとは思えませんでした。
チャン・イーモウの『LOVERS』の場合は(アマゾンのDVDのレビューでも指摘されてましたが)そもそも映画のストーリー自体が破綻しきっており、とても引き込まれるような出来ではありませんし、単に映像美をすべてに優先させているという以外に一貫したコンセプトは感じられません。当然男女の三角関係の話そのものも、女を取り合う男二人の間に特別な絆があるというものではまったく無く、鷲谷氏が自説の根拠にしていた剣戟のシーンも、単にヒロインの見せ場ではない(このシーン以前にいくらでもありますが)から舞台の端で待機させられているだけで、それに特別な意味は見出せません。ちなみに最後は唐突なヒロインの死と、彼女の亡骸を抱いて嘆いている主人公というお涙頂戴的な場面でおしまいで、ヒロインの存在が消されたまま終わる映画なんかでは全然ありません。というか、スタンダードにヘテロセクシュアルな映画だと思うのが普通でしょう。

『トロイ』の原典は言うまでもなく古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』で、この中で語られているアキレウスとパトロクロスの友情の物語は“男同士の愛”のイコンとしてあまりにも名高いですが、言うまでも無く「腐女子が作った話」ではありません。そもそも古今東西の別なく戦記物や英雄譚の中心人物が男性であり、そこで展開されるのが友情やライバル関係といった男同士の絆や愛憎劇であるのは必然であり、女性が登場するのは“女”役割を担う物語の彩りに限られるというのは単に“イデオロギー”と呼ぶことは出来ない必然的なものです。単に女性キャラクターを活躍させればいいという問題ではありません。むしろ「男同士の絆のエロティシズムなんぞ見たくもない」といったホモフォビックな──必然的に本質としてはミソジニーなのですが──人物には歓迎される傾向にあるように思えます。「ちゃんとヒロインが活躍してたから腐女子が喜ばなくていい」といったような。つまり、安易に女性の存在を強調することは、「男性の“女性性”や同性愛」の排除を“健全”なものとして正当化しうるわけです。

「真に重要な場面からは締め出されるアリバイとしての女」は「親密な絆で結ばれた男同士がホモだと思われないために」というホモフォビアによってこそ要請されるのであり、「女との関係よりも男同士の絆の方が価値がある。ただし同性愛は認めない」という不文律を本当に“イデオロギー”として信じる/信じる必要があるのは男性だけです。「親密な男同士の関係」のホモセクシュアリティを女性が楽しむこととは関係ありません。彼女がそれを愛好しているのは「男同士の関係が魅力的だから」であり、「女が排除されているから」嬉しいわけでは当然ありません。

また、男性の登場人物や彼の同性との関係の描写の方が、女性の登場人物や彼女を対象とした異性愛の描写よりも優れていたり魅力的だったりする作品を鑑賞した時に、作り手の側を「監督がホモなんじゃないか?」とは言わずに「女受けを狙っている」と言うのは、二重にホモフォビックでありミソジニー的ですね。「同性愛男性を差別したと思われるわけにはいかないが、同性愛的な表現は気持ち悪い(もしくは気に食わない)。だが女のせいにすればいくら叩いても問題ない」というわけですから

ただ、上に書いたのはあくまで『イーリアス』について当てはまる話であり、『トロイ』の場合、アキレウスとパトロクロスの関係についてはろくにスポットが当たらない軽い扱いしかされておらず、重きを置かれているのは原典には無いアキレウスとトロイの王女とのラブストーリーや、時代錯誤な趣すらある、健全なヘテロセクシャルな夫婦(トロイの王子ヘクトルと妻アンドロマケー)を中心としたトロイ王家の“家族愛”であり、まったく“男同士の愛”についての話ではありません。早い話が「健全かつ陳腐なヘテロセクシュアリティを描いたストーリー」と「規模は大きいが『ロード・オブ・ザ・リング』の二番煎じの感が拭えない合戦シーン」を見せるためのものでしかなく、鷲谷氏がこだわっていらっしゃった“女性の扱い”については「原典とは比べ物にならないくらい重きが置かれた“健全”な描写をされてるじゃないですか?」としかお答えのしようがありません。

また、単に「主役級である男の俳優が格好良くセクシーに演出されている」ことと「男同士の愛が描かれている」ことはまったく別の話で、つまり『トロイ』は前者には当てはまっても後者には当てはまるとは全く思えません。

『ヴァン・ヘルシング』も実のところ単にクリーチャーの造形や特撮CGを用いたクリーチャー同士の闘いがセールスポイントの娯楽映画であるという必然から製作されているという印象が強く、鷲谷氏が「腐女子目当て」で演出されているように言っていた要素も単に「その場での演出」に止まっており、ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』やその草稿の一部である短編『ドラキュラの客』のような、テーマの表出として必然的に存在するホモエロティシズムではありません。

つまり、彼女は最初から「映画そのものが“女性向け”に演出されている」という自分の結論に都合のいいバイアスのかかった説明をしようとして、実際には単にヘテロセクシュアルな物語であるもの(『LOVERS』)や、男の監督自身はホモエロティックな演出を避けたがっていたが、原作にあるそういった要素が物語の構造と不可分であったために結果的に残ったもの(『ロード・オブ・ザ・リング』)
題材に選んだ時点でホモエロティックな雰囲気になるのは必然的でありながら、時代錯誤ですらある“健全なヘテロセクシャル”的な脚色がされたもの(『トロイ』)
伝統的に同性愛のメタファーとされるモチーフを生かした演出がされたシーンは当然ホモエロティックにも見えるに過ぎないもの(『ヴァン・ヘルシング』)
といった、まるでバラバラの内容である上に実はどれ一つとして彼女の主張したがっている結論の証拠にはなっていない映画を、あらかじめ決まりきった結論のために利用したわけで、これは証拠の捏造に等しいです。

鷲谷花批判「女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた」のか?(下)へ
by kaoruSZ | 2010-11-11 00:45 | 批評 | Comments(0)