鷲谷花批判「女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた」のか?(下)
2010年 11月 11日さらに後日談あり
http://kaorusz.exblog.jp/14892828
鈴木薫です。
当ブログ内の関連エントリーとしてtatarskiyさんが挙げた“「彼は私をブランチと呼んでいた」”というタイトルのものの外にもう一つ、“お知らせとメモ”というのがあります。
“「彼は私をブランチと呼んでいた」”で検討していることの一つは、「男が流用した女性性を女が再流用して享楽する」可能性です。
こういう場合に、“男の流用した女性性なんてけしからん、こういうものは否定して女の手で「正しい」「本物の」女を表象すべき”という方向へ行かないのは、一つには私が根っからの快楽主義者だからでしょう。以下の考察もそのような人間の視点からのものです。
鷲谷さんの論考の最後の部分について言えば、“ホモソーシャルなもの”はつねにすでにホモエロティックだったのであり、これからもそうであろうこと(鷲谷さんが言うような「アリバイ」などではありえません)を看過するという、ありがちな(かつホモフォビックな)間違いを犯し、おまけに「女性観客」の「リビドー」を貶めるのみならず、彼女たちを「ホモソーシャリティ体制の共犯者」扱いしてしまうところは、かつて溝口彰子さんが書いた、やおいは「ホモフォビアに依存しつつさらにそれを再生産する二重のホモフォビア装置」というその後大勢の馬鹿によって繰り返されることになったフレーズと同様最悪で、これがあるためにそれまでの部分を台なしにしているのは最初に読んだ時からわかっていました(しかし世の中にはこの最後の部分にばかり注目して、重要なことが書かれているとかなんとか言い立てる人がいるんですねえ、呆れ果てました)。
それがなぜtatarskiyさんのような透徹した認識と歯に衣着せぬ批判へ直ちに繋がらなかったかといえば、強いて言うなら私の個人的心理の問題であり、それについて書いたところで誰も面白いとは思わないでしょうからやめておきますが、その代りとして、鷲谷さんがここで唐突に持ち出している、「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆく」という文句の付けようのない(?)「性向」をそなえた書き手がいったいどのような主体であれば、それまでの部分と齟齬を来さないかを考えてみます。
第一に、鷲谷さんが“「素敵な女性」を性対象にする男性”だったら全く問題はなかったわけで、tatarskiyさんが“男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じ”と書いているとおりです。
. 女である主体がこのような発言をするのには、本質的に無理があるのです。だからこそ、それを行なった場合には異化効果が生じます。
といっても今回の場合は、鷲谷さんの動機は、tatarskiyさんが掌を指すように示してみせた安っぽいものでしかなく、その効果も空振りに終っているのですが。
「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主」が“レズビアン”を名乗るのなら、これまた話は簡単でしょう。もっとも通常、そうした言説は“レズビアン=異性愛男性の女版”程度の認識しかもたらさないので(そういう認識ですませている“レズビアン”当事者だっていくらでもいるので無理からぬことですが)、異性愛のオルタナティヴなどには絶対になりえず、“レズビアン”の一語はむしろ人を安心させる政治的に正しいレッテルとして機能して、ヘテロセクシュアルな男性主体を一ミリも脅やかすことはないでしょう。
(馬鹿を対象に書いているのではもちろんありませんが)馬鹿も読みに来るのだからもっとわかりやすく書けとtatarskiyさんに言われたのでこの緑文字部分を追記します。鷲谷さんが以下のような主体であると私が主張しているわけでは全くありません。「鷲谷さんはこう書けばよかった」ということでさえありません。そもそもそれが可能な人なら、正しく見えそうなことをなんとなく書いてしまったりはしなかったでしょう。
私は、たとえば――自分は「素敵な女性」の官能的イメージに萌える、しかも「素敵な女性」を欲望の対象にするのではなく彼女に同一化してオーガズムを得る性向の持ち主で、とりわけ、能動的で男勝りの強い女性が危ない目に逢ったり、敵に捕えられたり、拷問にかけられたり、時にはもっと酷い目にあったりというのが、性的指向という分類なんぞ自分には何の意味もなかったのだとあらためて実感させられる“嗜好”の持ち主なので、近頃は男あるいは男同士を官能的に描く映画ばかりでまことに残念だ――というのであれば、筋が通っている(現状を分析したそれまでの論考の内容と整合性がある)と思いますし、それはそうだろうと納得しますし、道徳的にであれ他の意味においてであれ正しくないなどとは全く考えません。
むろん、そうした主体(念のため言っておきますが、女性とは限りません。男性主体とは性的指向にかかわらず、その成立条件からして必然的に「女になって犯されたい」という無意識の願望を抱え込むものですから)が、「お前は女だから女に同一化するのが正しい」というメタ・メッセージを発しているのであれば話は別ですが。
以上、ながい蛇足でした。
──補足──
tatarskiyさんが鷲谷さんの分析している映画の内容にまで踏み込んで補足したもので、私ももう一言。
チャン・イーモウの『LOVERS』がそんなふうなら(ちなみに取り上げられた映画、私はどれも未見です)、むしろ私が過去ログで言及した(その後、コメント欄で恐れ多くも鷲谷さんが「参考になりました」と言って下さった)『肉体と悪魔』にこそ、鷲谷さんの指摘はふさわしいことになりますね。あれは正真正銘ヒロイン無視(しかも死亡)で男同士抱きあってましたっけ。思えばこれ以外にも例として選べたフィルムはあったので、たとえばハワード・ホークスのある作品(題名を思い出せないのですが、フィルムセンターのホークス特集で見ました)では、親友と妻の姦通という『肉体と悪魔』と全く同じシチュエーションながら死ぬのは妻ではありません。最後は妻を寝取られた船長が大怪我をして、死にゆく船長の左右に妻と親友を配した構図に。ところがそこでキャメラは船長と親友に寄って妻はフレームの外に追いやられてしまい(二度と戻って来ない!)、スクリーンは男二人を大写しにして、許しと和解と愛の再確認、そして永遠の別れという感動的な場面(「お涙頂戴的な場面」ではありません)で終ります。そう、「ヒロインの存在が消されたまま」で。
しかしあれは果たして(男同士の)「真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)」(実際、昔の映画ですが)の発露だったのでしょうか。
そうした映画は要するに異性愛のラヴ・ストーリーとして“パス”しつつ、実は男同士のホモエロティックな関係を表現していたわけです(そこには単に多数派に受容されるための手段にとどまらないものがあるようにも思えますが、それはまた別の話)。そこで作動していたのが、もっぱら、鷲谷さんの言う、(何やらやたら獰猛なばかりで快楽を欠いた)「みずからを増幅強化する」ような「ホモソーシャルな体制」なんてものだったとはとても思えません。「昔ながらの」ではなくアクチュアルな――「腐」呼ばわりして(しなくても)女を攻撃し、ストレート男性とゲイ男性が頷き合う、そして権威主義的な女性が彼らに気をつかい同性を非難する――今どきのニッポンのホモソーシャル体制ならまぎれもなく存在しますが。
これ以上長くなるのは避けたいのでこのくらいにしますが、最後にこれだけは言っておきます。強制的異性愛体制(ヘテロセクシズム)下にあって男とつがうこと以外の可能性を否定されている女性(レズビアンであってもこの条件は変わりません)は、しばしば男性のホモエロティシズムを甘美なオルタナティヴとして(再)発見するのです。異性愛が規定する〈女〉とされることへの反発と拒絶(こうした反応自体、至極まっとうなものです)は、原因ではないとしても、そこに確かに含まれています。しかしそれを「ミソジニー」と中傷し、自己否定扱いするのは、まして「ホモソーシャリティ体制の共犯」に繋げようとするのは、絶対おかしいし、最低です。
なお、tatarskiyさんが触れている“「コーラ」に共著者として書いた拙稿”はここにあります。
(実はこの論文中には私の不注意によるミスが二つあります。「失われた道」の主人公を「オックスフォードの歴史学教授」と呼んでいますが、彼の勤務先はオックスフォード以外の大学でした(作者とつい混同)。それから、アレゼルだけでなくニエノールも黒髪であるかのような書き方をしてしまいましたが、彼女は言うまでもなく金髪です。幸い論旨にはさしたる影響はないものの、ここで訂正しておきます。)
もちろんです。