おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

「コーラ」と今後の予定と『ラストサムライ』ノート

「ウェブ評論誌コーラ」12号に「“中つ国の歴史”を読みながら――重ね書きされた『シルマリリオン』」と題して書いた。http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/suzuki-1.html 今回は準備のないままトールキンについて気楽に書いたつもりが、思ったより長くなる。
 例によってトールキン関係の記事の場所をまとめておく。

人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説
囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの
トールキン close reading――マイグリンはイドリルを恋していたのか?



◇11月11日の鷲谷批判「『女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた』のか?」の補足を書く予定。

◇上記エントリに対して、言及先を記さず中傷したツイートがあるので、抗議を書く予定。

◇ある方(Aさんとしよう)が自分のブログでBさんに対する批判を書き、その中で私の文章を自説の援用に使った。Bさんがコメント欄に来て意見の応酬になった。Bさんが私の文章について鈴木の真意はこうだと言っているのが納得いかない内容なので介入する予定。

半年前になってしまった「萌えとホモフォビア」の続きももちろん書く。
ちなみに、筆者は「自称腐女子」ではない

 以上、滞っている今後の予定のおぼえがきとして。



 先日、『ラストサムライ』遅まきながら池袋新文芸坐で見て、あまり面白かったので以下にメモ。
 西部劇が不可能になった時代に、それ自体西部劇の影響を受けて作られた黒澤の世界にアメリカ男を投入してみたけれど不発に終ったという作品。
 しかし、男による男のための男の夢だというところは外していない(それどころかあまりにもはっきり出ている)ところが面白い。鷲谷花氏がその辺の歴史的事実(と現状)を、(たぶんわざと)無視してアレを書いたというのもはっきりしている。

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『ラストサムライ』

 特徴その一。女が男の夢であるように、これがキリスト教徒の白人の夢であるのはあまりにも明らかだ。
 第二に、かなりできの悪い夢であること。もっとできのいい夢が過去にあったはず。

 トム・クルーズは第七騎兵隊でインディアン虐殺に加わったトラウマを抱えた男。今はアル中でかつての栄光を見世物にして生きている。それも続けられなくなったところで、近代国家になろうとしている日本で兵士を訓練する仕事が舞い込む。そしてやって来るのは、横浜港の向こうにフジヤマが見えている日本。太平洋の火山島に違いない(むろん日本だとて太平洋の火山島には違いない)。

 興行師は騎兵隊とインディアンの戦いを表わす模型を使っていたが、ヨコハマもそれと同種の作りものである。俯瞰で模型を撮った町と奇態な風俗。トム・クルーズはそんないかがわしい書き割りの世界に入ってゆく。

 むろん火山島には土人が首長を戴いており、上陸した彼は早速謁見を許される。宮城もワンカットで寄れるほど近くにある。天皇はヨーロッパの知る父権性から逸脱した少年で、細い身体を洋服に包んで輿の中に坐す両性具有的な存在だ。サミュエル・フラーの『東京暗黒街・竹の家』で、アメリカから日本に進出したギャングのボスは平安神宮みたいな赤い欄干のついた高台の家(たぶん場所は東京)に住んで、背景に富士山が描かれていたけれど(ホンモノという設定)、そこから一歩も出ない認識で、マジで撮ったのならある意味すごい。

 時代遅れの鎧を来て天皇に刃向かう連中と言われるサムライ(それが戦国時代の鎧なんだから、どんだけ時代遅れか、シナリオを書いた人間はわかっているのかな)。しかし、それこそが忠義だと信じている渡辺謙。彼は天皇の重臣として迎えられる身でありながら抵抗を続ける。
 敷かれたばかりの鉄道をサムライが襲ったという。日本の歴史においてありえない出来事。しかしむろん、私たちはこの話を知っている。アラビアのロレンス――彼もアラブ人に近代戦法を教えようとした。ただし、クルーズの場合、政府軍の教育に来て、叛乱軍に入ってしまうのだ。明治天皇は腹黒い顧問を持ったファイサル王子(遥かに純粋だが)である。ロレンスの二番煎じをオトゥールが演じた『ロード・ジム』もあったけれど、あれは本当に太平洋の島で、首長の息子が伊丹十三だった。

『東京暗黒街・竹の家』で、ギャングのボスはナンバー2を愛する男だと確か四方田犬彦が書いていた。新しく現われたロバート・スタックとの間に生じた三角関係。潜入捜査官とは知らずに、ナンバー2を裏切者と思い込まされて殺す愛憎劇に被占領地の女が彩りに使われていた。

 吉野山中と称して大木の間に背の低いパーム・ツリーが配されたみるからに嘘っぽい空間に、光を透かす霧に包まれた黒いシルエットの幻めいて出現する騎馬のサムライはどこから来たのか。むろん、映画的記憶からである。渡辺謙はトム・クルーズのめざましい働きを認めて、生け捕りにした彼を山あいの村に運ぶ。いよいよ日本ではない、アラブの叛乱だ、いや、チベットの山峡だ。ついに見出されたシャングリラ。失われた隠れ里。二度と辿りつけない桃源郷(本当はニュージーランドだそう)。単純で神を知らないにもかかわらず敬虔に日々の務めに励む人々の、時の腐蝕を(そして近代化を)奇蹟的にまぬかれたユートピア。東京に戻ってからだが、写真を撮る同国人が現われるところもロレンスを意識しているのでは(実際のロレンスをフィルムに収めたロウエル・トマスは、戦後、冒頭の興行師のようなことをしていた)。勝元率いるサムライの帰還を村人はみな頭を下げて迎える。『七人の侍』の見過ぎである。

 百姓を守るサムライなどというものは存在しない。渡辺謙は要するに地元の名士で土地の「王」なのだ(字幕で真田にmy lordと呼ばれている)。般若心経を坊さまが唱える寺(山寺などではなくやたらと立派)の当主であり、彼自身が領主であるかのようだ。脚本家が当時の日本の社会形態のことなど何も知らないのは確実だが、それはどうでもよろしい。これは白人男の夢なのだから。

 傷ついた半裸のクルーズは、渡辺謙の妹、小雪の手当てを受ける(普通は男が好敵手の手当てをするのが定番だが、妹にさせている。女を通じて義兄弟になるのも定番)。この映画、クルーズがやたらと裸を見せる。ちっともエロティックでないけれど、これも西部劇の定番だろう。そう、これは西部劇なのだ。黒澤明の歪んだこだまをまじえた、マニエリスティックな。

 エレイン・ショウォールターは十九世紀末の「男性冒険小説」には、「ヴィクトリア時代のモラルから自由になることのできる、どこか神話的な場所に行ってしまいたいという男たちの憧れが実にさまざまなかたちで表現されている」と言っている。行き先がどこかはいうまでもない。 

 女を通訳にするというのが、一番ありふれた設定だろう。皇国のプロパガンダ映画では李香蘭として台湾人(華人ではなく、日本が高砂族と名づけた少数民族)の少女を演じ、同胞に日本語のみを喋るよう促していた優等生の彼女が、“まだ戦後だった”日本ではシャーリー・ヤマグチと名乗ってアメリカ人との橋渡しをしていた。バルテュスの奥さんが京都で通訳をした女子学生上がりなのは知っていたが、最近、ジョー・プライスの奥さんも彼が若冲を買いに来たときの通訳と知った。しかし、バルテュスの胴長で幼い顏のデッサンや、プライス夫人の若き日の写真を見れば明らかだが、小雪では彼らを魅了しなかったに違いない。ミスキャストの印象はそのあたりから来よう。その小雪(山家の後家)が英語を喋るのにはいくら何でも無理があると思えるからだろう、ここでは渡辺謙が巧すぎる英語を喋る(怪演)。栗林中将じゃあるまいし留学したはずはないんだが。しかしこれがクルーズの“夢の中”だとすれば不思議はあるまい()。

 傷ついて夢うつつのクルーズは、スライドする板戸越しに小雪たちの生活をかいま見る。彼女には息子が二人いる。主を失った赤い鎧が(捕えられる前、彼にとどめを刺そうとして逆に殺された男の着ていたもの)目立つ場所に据えられており、それは小雪の夫だった「ヒロタロウ」のものだ。天皇への忠心に生き、西洋化の波が押し寄せる時代に古い生活様式を守って生きる勝元は、“高貴な野蛮人”である。アメリカ先住民を悪玉とする西部劇はもはや成り立たず、彼らは被害者であり“高貴な野蛮人”として表象することさえ不可能な時代なので(オルグレンが実際に生きている時代にとってはアナクロニックだが)、クルーズは太平洋を渡るしかなかった。滅び去って今は亡い美しい日本であれば、どこからも文句は出まい。そこでは、殺した男の妻に、「Sorry …ごめんなさい…for your husband …ヒロタロウ」と片言を並べるだけで相手は許してくれる。夢の中だから当然だ。

 本当なら、勝元との同性愛的絆(ロレンスのオマー・シャリフに相当)と、妹を通じた兄弟の契り(ロレンスではこれはありえなかった)に力を入れるべきだったろう。クルーズの存在感の薄さは、彼がスターであることを考えれば異例だが、同一化を観客にうながす視点人物(ポルノの主演男優)と考えればこれでいいのかもしれない。渡辺謙は一番面白いけれど借り物の印象。武勇の腕だけの真田広之も借り物だ。全体に、ちぐはぐなのだ。

 主人公の絆は”ラスト・サムライ”謙とのものだが、どうも中途半端。温泉に入るクルーズ、また裸を見せる。髪を洗う小雪は「もう終りですから」と、片袖脱いだ後ろ姿だけ。西部劇に入浴シーン(男の)はつきもの。『竹の家』ではナンバー2がクラシックな木の浴槽で入浴中にボスに殺される。ロレンスの白いアラブ服とヘッドドレスに相当するクルーズのコスプレは、小雪の夫の赤い鎧を彼女の手で着せられるというかたちで(その前段階としてクルーズの帯を解く小雪の手のアップ)起こる。傷の手当てと同じようにされるがままで、偶然のように唇が触れ合うがそれだけなのは、そのまま最後の戦いに出陣してゆくからではない。これが童貞の夢だからだ。

 むろん、渡辺謙の死後、隠れ里へトム・クルーズが戻るという結末は必然であったろう。しかし、肝心なところで気が抜けているこの映画をどうにかするには、そのあとに夢から覚めるシーンを付して枠物語にするしかなかったのでは。『竹の家』の当時のニッポンはアメリカ人の関心の対象ではなかったが、今は違う(以下は捏造なので注意)。棚の上から落ちてきたおもちゃの日本刀が頭に当たって目覚めるクルーズ。ビデオやDVDのケース、あるいは壁に貼られたポスターのイメージとして渡辺謙や真田広之が彼を見下ろす(『カリガリ博士』の登場人物(のモデル)を主人公が精神病院の庭に見出す場面に相当しよう)。クルーズ自身は牛乳瓶の底のようなメガネのオタク青年。脚本家(志望?)の彼は、オリエントが白人の夢の中にしかないことを知りつくしていて、知識と資料をかきあつめて『ラストサムライ』のシナリオを書きはじめる(しかし、枠物語の部分は同性愛的部分とともにプロデューサーに削除されてしまう)。

ここと、最後の“オタク青年の目覚め”については平野智子の示唆による(そんなレンズを作るメガネ屋、いまどき無いと思うが)。
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by kaoruSZ | 2010-12-23 02:25 | 日々 | Comments(0)