おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

「これはひどい」2題

その1 誰がそういう読み替えをしているのかといえば、それは鷲谷さんです

鷲谷花さんの2008年10月10日のエントリhttp://d.hatena.ne.jp/hana53/20081010/1223603383

 先の鷲谷さんへの批判(http://kaorusz.exblog.jp/14384401/ およびhttp://kaorusz.exblog.jp/14384463/)は上記エントリの存在を知らずに書いたのですが、その後これを読んで、単に呆れたなどという言葉では言い尽くせない、何とも言いようのない不快感を覚えました。自分のブログに貼り付けるのもおぞましいくらいですが、わかりやすくするためにあえて以下に載せた実に下品な文章をご覧下さい。(なお、便宜上、文中にアルファベットを付しました。また、強調は引用者によります。)

以下、「帰ってきたハナログ」より引用

「複製技術時代のホモエロティシズム」についてメモ


しゃべくりメモ。


・『LotR』三部作:全編通じて、あっちではイケメンがギラギラしながら美少年に迫り*1、こっちではイケメンふたりがひねもすいちゃいちゃいちゃいちゃ…(A)、と、古典的ハリウッド映画の「見る・欲望する男性=ヒーロー → 見られる・欲望される女性=エロティックなスペクタクル」という性別分業がほぼ無効化し、「ヒーローとして物語進行の主導権を握る」のも「エロティックなスペクタクルとして肉体をディスプレイされる」のもここでは男性(B)。ただし、『王の帰還』での戴冠式は結婚式*2を兼ね、三部作をしめくくるラストショットが夫婦(♀×♂)と子どもふたり(♀+♂)の核家族のホーム・スイート・ホームのドアであることからも明らかなように、一面では異性愛主義は徹底遵守される。つまり、「女性を除外した異性愛男性同士の濃密な絆」という、昔ながらのホモソーシャルが強化されて回帰してきた形態ともいえる(C) 。(後略)

*1:いちおう「お前がほしい~」じゃなくて「指輪がほしい~」というエクスキューズが付くわけですが


引用終り


(A)『ロード・オブ・ザ・リング』を見たか『指輪物語』を読んだかした人なら誰でも知っていることですが、あれは単純に「指輪がほしい」(権力欲)であって、「お前がほしい」(性欲)ではありません。そんな読み替えをする“腐女子”なんていません。誰がそういう読み替えをしているのかといえば、それは鷲谷さんです。男同士の話を好む女は、男が美少年(原作のフロドは五十過ぎてますが)の持っている指輪を奪おうとして飛びかかるのを見たら、レイプしようとしたと自動的に翻訳しておかずにするとでも思っているのでしょうか。それって、「府中青年の家」の利用者に、同性愛者の団体だというだけで「お風呂でしてたでしょう」とか言った東京都職員と変わりませんよ。あるいは、魔女と疑われた人間の性的ファンタジーを自分の妄想を投影してでっち上げた異端審問官と。

 トールキンのいわゆる「二次創作」つまりファン・フィクションの書き手は、もともとクィアーな原作を読み込んで、しばしば、ホモフォビックな批評家が気づくはずもないことにまで思い至って、遥かに気の利いた話を作っています。百歩譲ってボロミア×フロドの話を書いている人がいたとして(それ自体はありえないことではないでしょう)、それは自分と読者の楽しみのためです。では、鷲谷さんはなんでそんな空想をしているのか?「エロティックなスペクタクルとして男の肉体がディスプレイされるのを餌にして、昔ながらのホモソーシャル体制とミソジニーが女性を共犯に息を吹き返してきた」とかいう持論の「増幅強化」のため? 悪いけどそれって、ユダヤ人のせいで経済がおかしくなったとか朝鮮人が井戸に毒を入れたとかの流言のたぐいとしか思えないのですが。

 鷲谷さんがしているのは、明示的に同性愛として描かれてはいない男同士の関係に同性愛的なものを読み取って楽しむ女性に対する、ヘイト・スピーチです。
もしおまえが明示的同性愛表現以外のところに同性愛的なものを見出し、ホモエロティックな魅力を感じるなら、それはホモソーシャル体制に加担しているんだ」と女を脅す(しかも、“でも私はスクリーンで素敵な女性と出会いたいと思う女ですから関係ありませんわ”と彼女らと自分をはっきり分ける)、極めて悪質かつ抑圧的な主張です。

 彼女たちのせいでグローバルに男同士の表現が増え、ホモソーシャル体制とミソジニーが回帰してきたという、「複製技術時代のホモエロティシズム」で鷲谷さんが描いてみせた図式については、先のエントリで平野智子が徹底的に反駁し、デマであることを示しました。悪質なデマをまくのは簡単でも、ある事実が「無い」ことを証明するのは本当に大変だと平野さんは言っています。それでも彼女は鷲谷さんが取り上げた映画をDVDで全部見て、「男同士のエロティシズムを描く映画が、女性向けという意図を持ってグローバルに作られるようになった」という鷲谷さんの現状分析を、挙げられた具体的なフィルムに即して否定しました(前回のエントリの「追記」参照)。鷲谷さんの認識は「妄想」に等しかったわけです。

 男性ペアの不均衡(力関係や年齢やタイプの)や、大義に身を捧げる者たちの旅、戦い、助け合いについて、鷲谷さんは「複製技術時代のホモエロティシズム」でなかなか適切にまとめておられました。「友情から家族愛から屈折した兄弟愛から師弟愛から主従の愛からライヴァル関係まで、露骨にセクシュアルな肉体関係を除くありとあらゆるエモーショナルな絆で結びつけられているうえに、傷の手当て、肉体的・精神的苦痛へのいたわり、戦いの最中の助け合い、死にゆく友への親愛のしぐさなど、濃厚なスキンシップの描写が全編に詰め込まれ(後略)」--あの文章が映画研究者の共同サイトに載っていた当時、私はそういう点に注目して拙ブログで言及もしました。念のため言っておけば、こうしたパターンやモチーフは周知の通り男性が作り出したものであり、たとえばデイヴィッド・ハルプリンの論文「英雄とその親友」はまさしくそうしたペア(古代オリエントやギリシアから現代に至る)を取り扱っています。

 しかし--重ねて確認しておきますが--「『ヴァン・ヘルシング』の、ふたりの男性の身体の相補的かつ同質的なエロティシズムの表象と、女性の身体の存在感の抑制も、このやおい/slashを愛好する観客層を多分に意識した措置のように思われます」とか、「登場人物の関係性の一定のパターン、すなわち受動的で無垢な美青年と、攻撃的で成熟した年上の二枚目の、性的ではないがそれとなく官能的な組み合わせを指摘しておきたいと思います。このような人物関係のパターンの成立の背景として、やはり映画の消費文化としてのやおい/slash文化の拡大普及を指摘できるわけですが、その拡大普及の状況を決定し、顕在化させた最大のきっかけは、やはり『ロード・オブ・ザ・リング』The Lord of the Rings 三部作(2001-2003)だったといえるでしょう」といった鷲谷さんの分析は、極めて恣意的なものだったのです。

 では、鷲谷さんはあれ(「複製技術時代のホモエロティシズム」)を書くことでいったい何をしたかったのか。《「見る・欲望する男性=ヒーロー → 見られる・欲望される女性=エロティックなスペクタクル」という性別分業がほぼ無効化し》たとありますが(B)、その場合も、スクリーンの内側で(男を)見る/欲望する主体はなお男性です。女性観客はここでどういうポジションにいるのか、鷲谷さんは何も明らかにしていません。女性は関係性に萌えるとか言って、女の性欲をどこまでも他者との関係性に囲い込まれたものと信じ込みたい連中には都合のよいことではあります。だいたい、「男のエロティックな身体がディスプレイ」されるのが鷲谷さんは嬉しいのか嬉しくないのか--基本的にはそんなことを表明する必要はありませんが、“彼女たち”の「リビドー」についてばかり云々して、自分は「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて」はないでしょう。女にとって男のホモエロティシズムは、異性愛中心主義のオルタナティヴでありうるのですが。

 いくら「イケメンがひねもすいちゃいちゃ」していても、最後には結婚したり妻子の許へ帰ったりしたら、「異性愛主義が徹底遵守されている」と鷲谷さんは判定を下すようですが(C)、実際には観客はそんなものは無視して男同士の関係の描写を楽しめます。結婚や家族の絆で締めくくられる物語というのは確かに定番ですが、それが「ホモソーシャル体制」のプロパガンダだったり、観客が教育されたりするかは微妙です。作品によって違うとしかいいようがありませんし、観客はそれでもヘテロセクシズムに反して、男同士の方が素敵だと思ったり、結婚はつけたりと見なしたりするかもしれません。

《「ヒーローとして物語進行の主導権を握る」のも「エロティックなスペクタクルとして肉体をディスプレイされる」のもここでは男性》(B)とありますが、男同士の関係が中心的に描かれ、特に歴史物やアクション物なら男が肉体美を見せて活躍し、女は添え物という映画なら、今までにもいくらでもありました。そして、ホモフォビックな社会にあってさえ、「ホモと思われる心配」さえなければ--つまり、その名で呼ばれるのでなければ--実は多くの男性がそれを楽しんできました。「ホモソーシャルなホモエロティシズム」自体はこれまでもずっと映画の中に存在しましたし、映画に限らず、古くから男性が男性のために表現してきたものです(むろん、鷲谷さんも映画史研究者ならそんなことはとっくに御存じでしょう)。そうした魅力的な表象を前にしても、女は、男同士の絆など女にはわかるまい、と排除されるか、女が無視されるそんな関係は女には憎しみの対象だろうと勝手に決めつけられてきたわけですが、しかし、明示的に「ホモ」であろうとなかろうと(男と違ってそんなことに脅やかされはしないのですから)、女がそうした表現をエロティックと感じることは普通にありえます(女の性欲は男との直接的な関係によってしか目覚めないと思ってきた--思いたがっている--男たちには思いもよらなかっただけです)。

 ハルプリンは古典的文献について論じながら、男性間の友情が親族関係や夫婦関係に喩えられることは、友情をそうした関係に準ずるものとして回収するのではなく、親族関係や夫婦関係を逆に友情の影に--つまり友情に従属するものに--すぎなくするのだという意味のことを書いています。女性観客は女が排除されていることなど関係なしに(いってみれば、制度をかいくぐって、ゲリラ的に)、制度的異性愛の埒外にある、馴致されない「友情」に惹きつけられるのです。むろん、(ホモセクシュアルを否定する)ホモソーシャリティ体制の片棒担ぎなどとはとんだ言いがかりです。ホモフォビックな男性と違って、「露骨にセクシュアルな肉体関係」がタブーにならないからこそ、「やおい」もありえたのです。

 しかし、そうなったらそうなったで鷲谷さんは、今度は、女を無視する「ミソジニー」に女性観客が加担しているとおっしゃるのでしょう。しかし、それを「ミソジニー」と呼ぶことは、既製の、つまり男との異性愛関係で規定された「女」の表象を嫌いだと言う自由さえ――女である以上(要するに女の分際で)男同士の表象などにうつつをぬかすのは正しくないと説教して――女から奪おうとするものです。だからこそ、前回のエントリで平野さんは鷲谷さんに、「おまえこそミソジニストだ」と言ったのです。

 前回、私たちは「複製技術時代のホモエロティシズム」をあくまで批評と見なして反論したのであり、上記エントリの下品な文章を読むまではそこまで言う気はなかったのですが、この際はっきり言っておきましょう。私が注目したような記述も鷲谷さんにとってはヘイト・スピーチの材料でしかなく、男のホモエロティシズムを女が楽しむ事実が日本ローカルではある程度知られるようになったと同時に、何やら叩いてもいいことになってきた空気を利用して、鷲谷さんは自分をセクシュアル・マイノリティに配慮のある性的に正しい女、しかもただのヘテロではない女としてアピールできる、俗耳に入りやすい文章を書いたのです。しかし、実のところ、ホモフォビックな男性が「男同士の話なんて嫌だ、僕はやっぱりスクリーンで素敵な女性と出会いたい」と言うのと違って、同じ台詞を吐いたところで、彼女にはどこにも行き場がないわけでお気の毒なことです。

「あっちではイケメンがギラギラしながら美少年に迫り、こっちではイケメンふたりがひねもすいちゃいちゃいちゃいちゃ…」--あー気持ち悪い。男同士がいちゃいちゃしてるのが気持ち悪いのではありません、他人の性的欲望をそのように悪意をもってあげつらうのが気持ち悪いのです。鷲谷さんも、その映像(あくまでも彼女の解釈による)をゲイ男性が楽しんでいるというのであれば、まさかこういう書き方はできなかったでしょう。ゲイ男性には“腐女子”にはない「お墨付きのセクシュリティ」があるからです。女に異性間性交以外のセクシュアリティなんて認められたことは一度もないので、たんに「男だから」と言ってもいいのですが。ホモソーシャル体制とかなんとか言うまでもない、これは単なる昔ながらの男尊女卑の回帰でしょう。そして女が女にこういうことをするというのがまさしくミソジニーです。


その2 貞淑さが新たな表現を見つけている

鷲谷さんのエントリについての私たちの批判に対するtummygrrlさんの御意見http://twitter.com/tummygrrl/status/2648504904187905

以下、twitterより引用(括弧つきアルファベットは引用者による)

え?、あのエントリをそう読むのはかなり強引じゃない?だってあれは制作側にあるミソジニーとホモソーシャリティが新しい言い訳を見つけているのではという話であって(A)、読者/観客の側のクィアな読みの可能性や(B)ましてや読者/観客のセクシュアリティ批判ではないと思うんだけど(C) 。6:07 PM Nov 11th Echofonから 

tummygrrl


引用終り

tummygrrlさんへ

(A)「制作側にあるミソジニーとホモソーシャリティが新たな言い訳を見つけている」のではありません(女が望んでいるという言い訳など誰が必要とするでしょう。制作側の言い訳なら、「この映画では伝統的な男たちの絆を描いた」で足ります)。そうではなく、「男性同性愛的表現に対する新たな攻撃の言い訳が見つかった」のです。それを「女向け」と決めつけ、軽視し、馬鹿にできるエクスキューズが。
 私たちは、制作側のそうした意図を想定すること自体が間違っていると主張したのです。もう一度よくお読み下さい。

(B)鷲谷さんが「読者/観客の側のクィアな読みの可能性」を批判していると私たちが主張しているという事実はありません。私が過去の映画の「クィアーな読解」について触れたのは、鷲谷さんが最近の映画に見られるとした特徴は昔からあるものだという例としてです。鷲谷さんは自ら「ある読み方」を実践してみせ、しかるのちそれを「有罪化」していると私たちは言っているのです。その読解はクィアーという名で価値を与えられることなどない、あくまで批判的、否定的に取り扱うためのものです(それが「強引」どころか、はっきり「成り立たない」ものであることは平野さんが証明しました)。今も昔も女に求められるのが「貞淑さ」であることには変りなく、しかし時代によってそれは違う形を取るのであって、今や「貞淑さが新たな表現を見つけている」とも言えましょう。本当に鷲谷さんの言う通りだとしたら、彼女がまず批判すべきは同性愛の男性だったはずです。

(C)他人のセクシュアリティを鷲谷さんは明らかに「批判」しています。同性愛に関して否定的、嘲弄的な言辞を吐くのは政治的に正しくないが、“腐女子”ならいくら叩いてもいいというある種の了解に迎合して、ヘイト・スピーチの対象にしたのですから。
tummygrrlさんは、「公認されたマイノリティ」相手でなければ、ヘイト・スピーチが行なわれていることにさえ気づかないのでしょうか。

今回のことは、反論したいなら(できるのなら)真先に鷲谷さんが反論すべき事柄です。なぜ、tummygrrlさんともあろう方が、軽率な発言をなさったのでしょう。tummygrrlさんがまさか馬鹿とは思えませんので、私のごちゃごちゃした文章はとばし、平野さんの論証は熟読もせず、脊髄反射的にさえずったのでしょうが、肩書きも影響力もある方です、妄動はお慎みになった方がよいのでは。
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by kaoruSZ | 2011-02-10 23:55 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)