おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

コンラッド、謎の男たち(3)

(承前)

 しかし、トマソフがこの男に嫉妬を覚えることはなく、むしろ感嘆の対象であった。相手のほうでも若い彼を引き立てるようなそぶりを見せたり、世馴れた忠告をしてくれたりしたこともあって、トマソフはド・カステルにすっかり感服していた。「当時のフランス軍人が持っていた威信は、貴公たちにはとても想像がつくまい」と老士官は語る。

奥の間[プティ・サロン]に招き入れられたとき、トマソフは、洗練の極みのような二人がソファに掛けているのを見ることになった。彼らの間で何か特別の話が交わされているところを、自分が邪魔してしまったような気持だったという。二人が自分のほうを訝しげに見たように思ったが、はっきり邪魔をしたと思い知らされるようなことはなかったそうだ。

 ここではトマソフは、女主人をめぐる対等なライヴァルというより、自分には理解できない言葉が行き来する、両親の寝室に入り込んだ幼いエディプスのようだ。だが、“両親”に当惑があったとしても、彼を叱責することはない。それどころか、「あの噂が本当かどうか、あなたにお確かめ願えるとありがたいのですが」と女はド・カステルに言い、「あれはたんなる噂などではありません」と男は答えて部屋を出てゆく。しかも、「女はトマソフのほうを向くと、『あなたはわたくしと一緒にここにいらしてね』と言ったそうだ」。まるで、「今夜はあの子と一緒にいてやりなさい」と母が父から言われた晩のプルーストの語者のようではないか。しかも、幼い語者と違って、彼にはそのことに罪悪感を覚える理由はなかったから、「トマソフはもともと出ていく気などなかったのだが、こうはっきり言われて、いっそう幸せな気持ちになった」。そうこうするうち、ムッシュー・ド・カステルが帰ってくる。

外の世界のことをすっかり忘れていたトマソフの夢心地はここで破られた。トマソフは、フランス士官の見事な立居振舞い、悠揚迫らざる態度を目の当たりにし、あらためて、この男こそこれまでに知った誰よりも優れた人物だ、との思いに打たれずにはいられなかった。その思いはトマソフを苦しめた。目の前のソファに座っている、そんな輝ける二人こそ、それぞれがお互いのためにこそ作られたような存在ではなかろうか、と不意にトマソフは思ったのだ。

 自分が場違いな闖入者ではないかと思われ、二人が何を話しているのか理解できないというのは、やはり子供のポジションであろう。しかも母ばかりか、父からも同じように愛され、彼にそむくことなど夢にも思ったことのない子供の。噂が真実なのは疑問の余地もないと、ド・カステルは低い声で女に告げ、「それから二人はトマソフのほうに視線を向けた」。真っ赤になりながらも、「彼はぼんやり微笑みながら二人を見ていた」。

 わけがわからないながら、“両親”の関心はやはり彼の上にあるのである。女が立ち上がり、「フランス士官も腰を上げたので、トマソフも慌ててそれに倣ったが、自分一人が暗闇の中にいるような思いを味わいながら、彼の心はひどく苦しんでいた」。ド・カステルが女に言う謎めいた言葉に、「トマソフは、ますます自分が濃い闇に閉ざされた気分になったそうな。彼は士官のあとについて部屋を出た。そしてそのまま外に出た。そうするように期待されていると思ったからだという」

 トマソフを包む闇が霧散し、真相が明らかになるのは、母の胎内のように心地よく保護してくれた女の私室から出て間もない、ド・カステルとの路上での別れに際してである。フランス士官は、明日、皇帝ナポレオンがロシアの全権公使を逮捕し、随員も全員、国事犯として拘留されるのだと告げる。女は、彼にそうやってトマソフを助けるよう、父にとりなしをする母のように説得していたのだ。

「感謝の念もさることながら、トマソフはこの未来の敵の示してくれた雅量に対する驚嘆の念に圧倒される思いだったのだ。血を分けた兄弟でも、ここまでしてくれただろうか! トマソフは必死に相手の手を握ろうとしたが、フランス士官はしっかりマントに身をくるんでいた。たぶん宵闇のため、トマソフの動きに気づかなかったのだろう」。かくして開戦前夜に、全権公使一同は無事フランスを脱出したのだと老士官は語る。トマソフはむろん、「残酷な試練から自分を救い出してくれた二人に、無限の感謝の念を育んでいた」。しかし、女のほうは、ここで物語からあとかたもなく消えてしまう。「とにかく彼にとって、それが彼女の最後の思い出になったのだから。もっとも当時は、トマソフもそんなことは夢にも思っていなかった。しかし、それが彼女の姿の見納めとなったのだ」と老士官の言うとおり――。

◆白いマントと輝く髪

 だが、トマソフとド・カステルの縁はそれで終ったわけではなかった。母の胎内めいた夢見る部屋から永久に放逐されて、彼らは死屍累々の冬の荒野でめぐりあうのだが、その時のことは語り手自身が目撃している。月光に照らされた雪原を、巡察に出ていたトマソフが帰ってきたのだ。

ところが、彼の傍らをもうひとつの人影がこちらへ進んでくるではないか。わしは最初、わが眼を疑った。これには心底驚いた! その人影は、きらきら輝く羽根飾りの付いた兜をかぶり、白いマントに身をくるんでいた。[…]まるで、トマソフが軍神マルスを捕虜にしたかのような風情だった。わしには、彼がこの燦然と輝く幻の戦士の腕を取って進んでくるのが直ちにわかった

 しかし、近づいてくると、その男は軍神どころではなく、トマソフに支えられてようやく歩いており、「兜はぺしゃんこだった。傷だらけの顔はすっかり凍傷でやられ、疥癬でぼろぼろになった髭に覆われていた」。パリでの別れ際には、ド・カステルの身体にはマントが巻きついていてトマソフの手をはばんだが、今や「竜騎兵の立派な白いマントは無残に引きちぎられ、焼け焦げで穴だらけになっていた。わずかに形を留めている長靴の上から巻いた古ぼけた羊皮が、その足をなんとかくるんでいた」という有様で、聞けば、トマソフの乗馬に自分からぶつかってきて脚にしがみつき、哀れだと思って頭を撃ち抜いてくれと頼んだというのだ。焚火の明りの中で、「軍服を着せられた案山子のような」士官はトマソフをようやく認める。

『あなたでしょう、わかりますよ。あの女性の恋人だった若いロシア人だ。あなたは、あのとき私に礼を述べたはず。借りを返してもらいましょう。さあ、この身を解放する一発で借りを返してください。あなたは名誉を重んじる軍人でしょう。私にはもう、折れたサーベルさえもない。わが身の零落を思えば、身の縮む思いがする。あなたには、私が誰だかわかっているはずだ。』

 トマソフは語り手にロシア語で言う。「『これがあの人なんだ、あの例の……』わしが頷くと、トマソフは苦しそうな調子で話し続けた。『これが、輝くばかりの洗練の極みにあった人だよ。男たちからは羨まれ、あの女からは愛されていた。それが今は、死ぬことさえも叶わず、ぞっとするような……惨めな存在になり果てている。この人の眼を見てみろ、ああ、恐ろしい。』」結局、朝になってトマソフは、彼の望み通りにしてやる。「そう、トマソフは約束を果たした。ド・カステルは、運命に導かれるようにして、自分を完璧に理解してくれた男の許にやって来たのだ」

「そう、たしかにトマソフはやった。だが、彼がやったのは何だったのだろうか? 一人の武人の魂が、信念も勇気も喪失するような、死よりも辛い運命から、もう一人の騎士の魂を救い出すことで、かつての借りを百倍にして返したということなのか。そう理解してよいかもしれない。だが、わしにはよくわからない。たぶん、トマソフ自身にしても、よくわかっていないのではあるまいか。」

 例の副官は「トマソフが冷酷にも捕虜を射殺した」と言いふらし、トマソフはやがて除隊願いを出して故郷に引きこもったという。言うまでもなく副官の言うことは真実ではない――だが、『武人の魂』について容易に信じられてしまうことよりは真実に近いのではないか。上に引いたように、語り手自身が「わからない」と繰り返す以上、少なくとも 一方が他方に恩を受け、その返礼として、もはや死しか望まない相手の望みを、騎士道精神にのっとって叶えてやった話だと片付けてしまう前に、もうちょっと慎重であるべきだろう。すべてそうした事柄は、ある状況を成立させるための口実なのだから。もしそれだけのことであれば、あおむけに倒れたフランス士官の傍に跪いて帽子を取ったトマソフの髪が、「おりしも降り始めた粉雪の中で金色に輝いていた」ことなど、述べる必要はなかっただろう。

 こうして、語り手が目撃した、私たちも明らかに見たはずのものの意味は、結局のところ伏せられたまま終っている。語り手は謎を謎のままにとどめる共犯者の役割を担っているが、彼が美青年トマソフに向ける眼差しは、唇の一件でもわかるように、副官によって強調され、反復されながら補完されている。憎まれ役の副官はその意味で徹頭徹尾、語り手の忠実な“副官”であると言えよう。

 この短篇に関しては、ウェブ上で、特に見るべき解釈を探し出せなかった。なお、例のコンラッド=お笑い路線の研究書が言うには、「老人をとやかくいう若造どもに、老士官が叱りつけながら話す、という枠組は、「名誉と信義」を重んじた時代の美学が、今では顧られなくなっていることをあぶりだしている。この作品の発表が第一次大戦中だったため、反戦のメッセージを読みとる向きもあった。しかし語りまくっておきながら「このわしは生まれつき無口」とすっとぼけてみせる語り手には飄々たるユーモアが漂い、単なる説教とはほど遠い「歴史の息遣い」が生きている」のだそうだ。
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by kaoruSZ | 2011-08-18 06:26 | 文学 | Comments(0)