おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

「カワイイ子じゃないか、画像を送ってくれよ」とヘンリー卿は言った。

 一度でも読み返していれば別なのだろうが、若過ぎるうちに読んでしまってすっかり通じたつもりでいたのが、実は出会っていなかったに等しい本というのがあって、『ドリアン・グレイの肖像』も気づかぬうちにそういう一冊になっていた。後年手に入れた新潮文庫版をどこかに持ってはいるのだが、買った当時は、例の、本にはよく書けているか書けていないかのどちらかしかなく、道徳的な本も不道徳な本も存在しないという文句が序文にあるのを確認しただけで満足してしまったらしい(フレーズは覚えがあったのに、そこに出ていたことさえ忘れていた)。おかげで今回、光文社文庫の新訳(仁木めぐみ訳、2006年)を、ほとんどはじめてのもののように楽しむことができた。

 これは本当によく書けている本だ。今回わかったのは、善悪がどうこうなどという話では全然ないこと。そして、完全に『ジキル博士とハイド氏』の同時代の作だということだ。『ジキル』と『ウィリアム・ウィルソン』は「分身の問題」を共有するとして、巻末の「解説」にも名前が出てくる。しかし、言いたいのはそういうことではない。

 確かにドリアンの最期は誰でもわかるほどにポーの主人公のなぞりだが、『ジキルとハイド』について言えば、完全に雰囲気が共通している。もちろん、そよ風に乗って吹き入る庭の花々の官能的な香に満たされ、金蓮花に陽光がきらめき、雲はつややかな絹糸のもつれた束のよう、晴れた夏空はトルコ石のようで、窓を覆うシルクのカーテンに鳥の影が幻のように落ちて「一瞬日本的な雰囲気を作り出す」(それを見たヘンリー卿は、「こうした静的な形式の芸術を通して敏捷さと動きを表現しようとしている、青白く疲れた顔をした東京の画家を思い浮かべた」と言うのだが、私にはこの「東京の画家」がどんな人たちなのか全く思い浮かばなかった!)画家のアトリエで、ヘンリー卿とバジル・ホールワードがイーゼルに乗せたままのドリアンの肖像画を眺めている描写ではじまるこの小説と、秘密を抱えた陰鬱な男たちが行き来するスティーヴンソンの中篇ではまるで違っているようだが、しかし、ハイドの悪徳が具体的にどんなものか一度も描写されないのと同じように、ドリアンの美しい顔――絵のほうの――を荒廃させてゆく悪徳も、多くはほのめかしにとどまるのだ。

 多くの若い男をドリアンは「堕落」させている。ドリアンがバジルの死体を片付けるために呼びよせるアラン・キャンベルも、「二人の友情は十八ヶ月で終わった」と言われる期間には恋人同士だったのだろう。「日ごとに生物学にのめりこんでいく」、「ある奇妙な実験に関係して名前が出ていた」といわれる彼が科学者なのは、むろん酸を使って跡形もなく死体を始末させるためだが、ワイルドがジキル博士の実験室から直接連れてきた人物だからでもある(H・G・ウェルズの『モロー博士の島』の、モローの助手モンゴメリー―の萌芽でもあろう)。

 アラン・キャンベルに言うことをきかせるために、ドリアンは紙片に何やら書いて彼をゆする。

「すまないね、アラン」彼は静かに言った。「けれどああ言われたから、こうするしかなくなってしまった。手紙はもう書いてある。これだよ。宛名が見えるだろう。君が助けてくれないなら、これを送らなければいけない。君が助けてくれないなら、これを送るよ。どうなるかはわかっているだろう」。

 これは、『ジキル博士とハイド氏』の独身者たちを脅やかしていたものでもあり、ジキルの秘密を知ってしまったラニョン博士と同じく、アランもやがて自殺を遂げることになる。エレイン・ショウォールターによれば、 R・L・スティーヴンソンもまたそのような二重生活を送っていたひとりだったのであり、彼の周囲では(ワイルドも含めて)、『ジキル博士とハイド氏』が何について書かれた話なのかは完全に了解されていたという。

 もう一つ、今回読んではっきりしたのは、この本の中でヘンリー卿は基本的に部外者だということだ。美しいナイーヴな若者をめぐる年長の男の恋の鞘当て――だが、ドリアンを愛していたのはバジルであり、ヘンリー卿のほうはせいぜい、彼をプロデュースしようとしたに過ぎない。ヘンリー卿を、ドリアンという美青年を素材に小説を描いてみようとした小説家と見なすこともできよう。しかし、彼がそのような労をわざわざとるわけもなく、すでに他人によって書かれた本を贈ると、ドリアンはすっかり魅せられて、その主人公のように振舞うことで彼の人生を芸術にしようとするのである。

 ヘンリー卿とドリアンの関係は、ドリアンと女優シビル・ヴェインの関係として反復されている。場末の芝居小屋で、シビルはポーシャやジュリエットやコーディリアになるが、けっして彼女自身にはならないものとしてドリアンを魅了する。彼は、シビルと結婚して彼女に女優としての名声を与えることを夢見るが、ドリアンに愛されたシビルは、現実の恋を知って拙劣な演技しかできなくなってしまう。

今夜、私は生まれて初めて、いつも演じてきたお芝居がからっぽで、偽もので、ばかばかしくて、空虚だってことがわかったの。今夜はじめて私、ロミオは年寄りで、醜く顔を塗りたくっているし、果樹園にさす月の光は偽ものだし、背景は悪趣味だってこと、それに私が言わなければならない台詞はわざとらしいし、私自身の言葉じゃないし、私の言いたいことじゃないってことに気づいたの。あなたが、崇高な芸術もみなただの影になってしまうようなものを教えてくれたのよ

 むろんドリアンは彼女自身でしかなくなったシビルを捨てる。彼女は自殺する。しかしシビルを、ヘンリー卿のミソジニーの標的としての「自然」(芸術に対立するものとしての)として片付けてしまうのは間違っている。ショウォールターは「美的経験」としての「同性愛の欲望」の対立物である、侮蔑の対象としての女、当時の「新しい女」の死としてシビルの自殺をとらえ、ヘンリー卿をモロー博士と一緒にして「生体解剖家であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうと」する男の一人に見立てるが、モロー博士がそういう人物ではない以上に、ヘンリー卿はそのような人物ではない。「生体解剖」とは心理分析という意味で、比喩に過ぎないし、生殖機能云々はシビルのケースと何の関係もない。ショウォールターはフェミニストとして、ヘンリー卿の(そしてワイルドの)女の登場人物への仕打ちに、自分のストーリーに組み込むのに都合のいい独断的な意味づけをしているのだ。

 しかし、そんな動機と無縁な目で見れば、シビルの運命は男の同性愛に対立するものではなく、たんにドリアンの運命を予告するものである。『ジキル博士とハイド氏』には無く『ドリアン・グレイの肖像』にあるのは、美と男の同性愛と芸術の三位一体だ。この中にあって、上に引用したシビルの語りには、芸術と無縁であるどころか、芸術を享受するのに不可欠な「心」がある。作り物の恋を本物と思い込んでいたからこそ、シビルは現実の恋に出会った時、見誤ることがなかった。心がそれに見あう言葉を得て表現するのではない。言葉によって「心」は生じるのだ。

「本当の殺人を犯した人物を知ってみたいものだ」というヘンリー卿の言葉にドリアンは気絶しそうになる。結局のところ、ヘンリー卿はドリアンの理解者ではなかったのだ。「ハリー、もし僕がバジルを殺したと言ったらどうする?」そう言っても、ヘンリー卿は「ドリアン、君は自分に似合わない役を気取っているんだと言うよ」と答える。どこまでも演技者としてのドリアンしか彼には見えないし認めない。犯罪は下層階級だけのものだとヘンリー卿は言う。「彼らにとっての犯罪は、僕らにとっての芸術のようなものじゃないかと思う。普通でない感覚を得るための方法というだけさ」(←乱歩的!)

 岩波文庫の西村孝次訳その他ではタイトルが『ドリアン・グレイの画像』(原題はThe Picture of Dorian Gray)だったのに気づいて思わず笑ってしまう(「画」が本字であればまだしも)。もとはそれでよかったのだろう。しかし今では、もう、ケータイにドリアンの画像が入っているとしか思えない。昔出た全集では『ドリアン・グレイの絵姿』と改題されており、確か西村孝次は、小林秀雄に画像なんて訳語はだめだと言われて変えたとどこかに書いていた。
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by kaoruSZ | 2011-09-22 19:42 | 文学 | Comments(0)