おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(6)<24年組からよしながふみへ(笑)>

<24年組からよしながふみへ(笑)>

……愉快なネタをRTした直後にウンザリする話だが、書いておかねば仕方がない。この時http://twilog.org/tatarskiy1/date-111230とかこの時http://kaorusz.exblog.jp/18505306/とかに書いた話の続きだけど、数年前のはてなとかで群れてたリベラルぶったミソジニスト共の何がクズだったかという話(あとこの時http://twilog.org/tatarskiy1/date-120122とこの時https://twitter.com/tatarskiy1/status/159193953311277056にもちょっと発言してるが)。

要はあの連中が好んでやっていた24年組(特に萩尾望都)とフェミニズムと決まってよしながふみをくっつけて「女性たちの表現の歩みとリンクしたフェミニズム的達成()」とやらをでっち上げるやり口が死ぬほど下らない有害な与太話だったということだが。

今でも「BL やおい」とかと「フェミニズム 24年組 萩尾望都 ゲイ よしながふみ」とかのキーワードで検索すれば、連中が差別的なゲイの男に文字通りヘイコラしながら“正しい女”として承認されその他大勢の同性を差別されて当然の立場に追い込むことに加担した証拠が山ほど残ってるけど。

だいたいテレビドラマレベルの通俗なあざとい“世間のみんなに褒めてもらえる”お話と背景描けないのはテレビに失礼なレベルのバストショットばっかのポンチ絵のよしながふみ如きと、純粋に先駆的な漫画の表現者だった24年組の人を同列に語れる時点で美意識の欠如をひけらかしているに過ぎないわな。

よく「描き手が女性である」というだけでクソもミソも一緒にできるよ。と思うが、それも結局は今でも女性の作品に対しては「独立して優れた表現」であることより「女ならではの“望ましい”女性性の表現」であることが求められているからに過ぎないだろう。通俗化した“フェミらしさ”もその一つだ。

友人のブログの記事だがhttp://kaorusz.exblog.jp/11888365/ここでの吉本隆明の萩尾望都へのセクハラぶり(褒めてるつもりで自分の女性観とホモフォビアをごり押し)と、通俗フェミ的解釈でもって「女性特有の状況や内面が男同士という形で表現されている」とかのたまう馬鹿は結局同じだろ。

よしながふみのくだらない下品さって、そういう俗物どもの「これは貴女の中のフェミニズム的なものの表現なんだよねぇ?」って好色なヨダレ垂れ流したようなリベラルぶった(必然的に)男の価値観にデフォでおもねって作品の外でもベタに「そうなんですよv偉いでしょv」ってコメントする媚び媚びぶり。

そういうあられもなく下品な“政治的に正しい女の媚態”の発露だからこそ、臆病な通俗フェミぶった馬鹿どもが「24年組からよしながふみへ」みたいなでっち上げ偽歴史のゴール()に仕立て上げてくれるんだが。本当は24年組とよしながふみに「男の人が褒めてくれてる」以外の共通性なんて無いよ。

言うまでもないが24年組の人の作品を男が認めたのは、それが誰の目にも明らかな革新的な漫画の表現だったからにすぎないし、そこに政治的道徳的な意味づけなんか必要なかったのも当たり前。でも彼らは同時にホモフォビアと一体の、女が男の同性愛の表現を読み描きする「男心をそそる」理由を探したがった。

よしながふみを持ち上げるのって、そういう男の側のスケベ心と女の側の道徳的な自己正当化を欲する臆病さとに見事に対応しているわけだ。表現としての巧拙ではなく「正しい“女”の内面の表現」として弁明できるかという尺度を最優先した評価軸なんて、道徳の教科書の採録テキスト選びと変わらないが。

当然ながら私はそんな女性差別的な茶番に付き合うつもりはさらさら無いし、他の人にもそんな必要は無いと言い続けるつもりだが。浜の真砂は尽きるとも、差別的な自覚も無い馬鹿の種は尽きないけど。
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by kaoruSZ | 2012-07-02 21:21 | 批評 | Comments(1)
Commented at 2012-11-11 04:11 x
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