おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(10.5)「NHK大河ドラマ『平清盛』における同性愛の意味づけについて」追記

tatarskiyの部屋(10)「NHK大河ドラマ『平清盛』における同性愛の意味づけについて」追記


例の大河についての文章で私が何を言わんとしているのかまるでわからない人が複数いるようなので追記。あの時はドラマそのものの内容についての一番コアな部分を抜き出すので精一杯だったのでそこまで手が回らなかったのもあるが、皆まで言わずともわかる人にはわかっていたのだが。

私があの文章を書いたのは、件の大河ドラマの中での同性愛(及びそれをネガとして成立しているポジとしてのホモソーシャリティの描写)の扱いとそれに対する視聴者の反応そのものが、今現在の日本社会における同性愛への欺瞞に満ちた態度の縮図だったからだし、もっと言えばこうした指摘は肩書きのある本職のクィア研究者が公式な仕事として取り組むべきことだったと思う。そういう意味では何の肩書きも所属も持たない私が個人として矢面に立ってああした文章を書かねばならなかったこと自体が非常に歯がゆいことだと思っている。

要はあの大河の内容とそれに対する“健全な視聴者”の反応が象徴しているのは「明示的同性愛は悪や病理でしかなく、しかもそうしたネガティブな描写ですら“腐女子狙い”だとされ、それと対立する“健全なホモソーシャル”からホモエロティックなものを読み取ることも“腐女子の仕業”だと言い張り、そうして男の同性愛の描写のすべてを女のせいにする(はっきり書いてみるとこんな無茶が成り立つと思える認識自体が甚だしい転倒でしかないのは明白である)ことでホモフォビアを発散することが野放しにされる一方、史実としての登場人物たちは後ろめたさなど欠片もない両刀遣いでしかなかったことは実は皆が知っている」という甚だ滑稽でグロテスクな茶番でしかない。“腐女子”呼ばわりされる女性たちもまた「自分たちのしていることは妄想としてわきまえてるから」という従順さでそれを受け入れてしまっているが。

それにしても『ハートをつなごう』とかおためごかしを並べて「性的マイノリティへの理解」を語る一方でハリウッドなら50年代レベルの倫理コードを適用した“悪の同性愛者”の描写を看板番組で流すという某国営放送のダブスタぶりには恐れ入る。要はこうした偽善こそが今時の“良識的態度”な訳だが。

つまるところが現在の日本社会そのものが、「同性愛者の人権」については一応は異を唱え難い前提として人口に膾炙させている一方、属人化されえない「表象としての同性愛」については未だ明示することをタブーとし、それを開かれた場で肯定的に語る言葉を持たないことこそが諸悪の根源なのである。そして“腐女子”呼ばわりされている女性たちは、このダブルスタンダードの狭間で「同性愛者を差別するわけにはいかないが、同性愛は気持ち悪い」という通俗な世間のホモフォビアの生け贄とされているにすぎないのだ。

真に必要なのは、種族としての同性愛者ではなく“同性愛そのもの”への普遍的な肯定であり、そうしたことを語りうるだけの個別の表現への批評のモデルの提示である。またそれは女性がそれを語ることに対する“腐女子”呼ばわりの蔑視(という偽装されたホモフォビア)への当然の批判を伴うべきものだ。

私が書いた文章もまた、微力ながらそうした取り組みに寄与するものであればと思っている。後日また加筆修正した増補版を発表するつもりでいるが、骨子だけのラフスケッチのようなものであっても、まとめて公開しておく意義はあると考えた。思うところのある人には何某かの参考になれば幸いである。

<追記の追記>思い違いをされると困るので留保をつけておくが、私は今回の大河ドラマ自体に魅力を感じることそのものが間違いであるなどと言いたいわけではまったくない。

たとえば江戸時代に作られた歌舞伎の演目は、作中の舞台が室町時代であろうと(今回の大河と同じ)院政期末の源平合戦であろうと、幕藩体制のイデオロギーであった儒教に基づいた倫理観が適用されてしまっているものであるが、今日の観客がその様式美や筋書きの面白さのみならず、当時はそれを取り入れること自体が義務でもあったろう忠義や親孝行といったモチーフに魅力を感じたとしても、何一つ問題はないだろう。それは言うまでもなく、既にそうしたイデオロギーを従うべき権威として流通させていた封建的な身分制度そのものが崩壊しているからだ。作品に残されたイデオロギー自体がもはや物語を成立させるための素材以上の意味を持たず、むしろ過去の価値観を窺い知ることのできる貴重な資料であると同時に、結局は時代と共に過ぎ去り変容してしまう通俗なイデオロギーの無常さと、それに対して時代を超えて生き残りうる芸術そのものの価値とを教えてくれるだけだ。

つまり問題は「今現在のアクチュアルな差別的イデオロギー」が、“当然の前提”として作品に無批判に反映されてしまっていることであり、それはその差別的な前提を支えている社会の多数派の意識が変化してしまえば――新たな問題が常に生まれるにせよ――問題の所在ごと忘れ去られ無害化していくものだ。今回の大河ドラマもまた、同性愛に対する差別的なダブルスタンダードが消滅した未来において再放送され、過去の魅力的な作品として人気を博したとしても、その時には非難すべき理由は何もないであろう。ただし、その時の視聴者の目には、同性愛の扱いに限らず、今現在の私たちにとっては“自然化”されている無数の無自覚な“偏り”が――ちょうど今の私たちの目に歌舞伎がそう映るのと同じ様に――“作品が作られた時代の刻印”としてはっきりと映されることではあろうが。
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by kaoruSZ | 2012-08-27 06:51 | 批評 | Comments(0)