おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(11)ある若い“腐女子”への手紙

この件の前段についてはこちらを参照。

ある若い“腐女子”への手紙

はじめまして。先ずは返信を下さったこと自体に対しては御礼申し上げます。

本題に入らせていただく前に確認しておかねばならないことが色々あるのですが、例の大河ドラマについての文章以前に私の表裏両方のアカウント(両方ともプロフィールからツイログが見られます)を見たことがあれば、私がこれまで何について発言してきたかはおわかりになることと思います。

また、友人のブログには例の文章も含めて私がこれまでに書いたことをまとめたエントリーを「tatarskiyの部屋」というタイトルでいくつも掲載してもらっています。http://kaorusz.exblog.jp/
それらをご覧になればわかることですが、私は一貫して女性の性的ファンタジーに対する通俗な偏見と蔑視、及びその原因そのものである、この社会を支配する権力的な制度としての男性のヘテロセクシズムとホモフォビアへの批判を行なってきました。

そしてその中でも必然的に最も主だった話題は、男性同性愛の表象を愛好する女性が“腐女子”として“正常な女”からは分離したものとして扱われ、「女としてふさわしいあるべきセクシュアリティから逸脱した異常な存在」と見なされつつ、それに対する善意の“処方箋”として「ちゃんと“女としての自分”を受け入れられればまっとうな女として現実の男と関係できるようになる」だの「男同士の表象なんかに逃避せずにちゃんと“女性としての生き辛さ”を受け入れてフェミニズムに目覚めれば“成長”できる」だのという不当な中傷を受けることに対する抗議でした。
それもそうしたことをweb上で書くようになった直接的なきっかけは「腐女子がBLとして男性同性愛の表現を“消費”するのは、ヘテロ男性が女性に対して行なってきたのと同様の“搾取”であり、道徳的に糾弾されて当然の過ちだ」というゲイ男性による噴飯もののミソジニーに基づく暴論(それも言い出したのは立派な肩書きのあるアクティビストやクィア研究者です)から派生した、いくつもの不当な言いがかりを目撃したことでした。
本当に私が試みなければ誰も正面から反論しようとしなかったからです。

今でもそうですが、私は私以外に抗議すべき物事に対して抗議する人が存在し、それによって十分な効果を発揮していると判断できる状況であるならば、あえて自分からそうした物事に対して発言したいとは思いませんし、むしろ自分自身の性格としては本質的にはまったく不向きであると思っています。だからどれほど苛烈で自信ありげにみえる文章で抗議しているように見えても、内心では億劫で仕方がないほどですし、どう転んでも抗議した対象やその関係者からの恨みを買うのは避けがたい以上、なぜ私ばかりがそうした損な(時には“損”では済まないこともありました)役回りを引き受けねばならないのかと呪わしい気持ちを抑えがたいこともままあります。

あの大河ドラマについての文章も、完全にそうした必要やむをえざる取り組みの一環であったのですが、たまたま話題がそれまで私が関わっていたそれらよりもメジャーであり、その結果として貴方の目に留まることにもなったわけです。

そして、これが一番大きなことかもしれないのですが、何よりも私がこれまで書いたどの文章の中でも、自分のことを“腐女子”だとは名乗っておらず、そうした自己規定そのものを一切していないことの意味を認識していただきたいのです。
個人的な嗜好について言うのであれば、言うまでもなく私も男性同性愛の表象を愛好する女性の一人ですが、私が抗議し続けていることの本質として、それが私を有徴化される必要の無い“正常な普通の女性”から隔てられるべき“特殊な性癖”の持ち主として規定される特性を意味するという、極めて差別的な社会的前提そのものを受け入れるわけにはいかないからです。

もっと簡単に言えば「腐女子じゃない」ということが「私は男性同性愛の表現そのものも、そうしたイメージや関係性を明示されていないものの中に見出すようなことも好みませんし興味を持ちません」ということを意味すること、男性同性愛の表現を好むか好まないか、興味を持つか持たないかが女性に対する“踏み絵”として働いていること(他の性表現が女に対してこうした意味を持つことなどまずありえません)そのものが、女性に対してヘテロセクシャルを当然の基本とする現実の性的関係以外の「空想としてのセクシュアリティ」を本質的に認めようとせず、かつ当然のようにホモフォビックである制度的な男性のヘテロセクシズムによる抑圧の結果でしかないからです。

逆に言えば、男性同性愛のイメージを愛好する女性が“腐女子”を名乗っていることは、この社会の権力者である世間並みにホモフォビックなミソジニストとしてのヘテロ男性及び彼らの価値観を無自覚に内面化した男女にとっては、「正常な女のありようからは逸脱した“腐った”女が、その分際に相応しいレッテルを受け入れている」ことを意味し、それは彼女の性的ファンタジーや彼女の感受性と知性に基づいた発言それ自体と、実際に紛れもなく存在しているホモエロティシズムを感受することそのものを「取るに足らぬ“腐女子の妄想”」として片付けてかまわないという見下し──「どうせ腐女子だからそう思うんでしょ?」という蔑みに満ちた見解を補強してやることです。

そしてそれは同時に名乗る側の「皆様から馬鹿にされる存在であることはわきまえています。どうせ“腐って”いるのですから、何を言っても“しょうもない妄想”として大目に見てください」という差別との直面や摩擦の回避と表裏一体です。
これは完全に構造的な問題であり、「そんなつもりで名乗っているわけじゃない」という言い分が通用する次元の話ではありません。またそれは必然的に、「私のような女はそうやって馬鹿にしてくださってかまわないことを受け入れております」というメタ・メッセージを発することを意味し、男性同性愛のイメージを愛好する女性全てに対してそうした侮蔑の対象であることを“同類として”押し付けることでもあるのです。
もっとも、そうやって自虐的なレッテルの下で群れていれば、“全体”として侮蔑されることを受け入れることと引き換えに“個人”として浮き上がって叩かれる可能性からは遠ざかっていられるのでしょうが。
そして決まって「“腐的な妄想”とは別にちゃんとしたファンでもあるから」と嘯きつつ、自分が持つホモエロティシズムの魅力に対する感受性への蔑視を内面化していることを「ちゃんとわきまえている証拠」だと倒錯した己惚れと自己欺瞞を抱いているものです。

私が決して“腐女子”などと名乗ることなく、“ただの女”として一切のホモフォビアとミソジニーとヘテロセクシズムを前提とした女性に対する蔑視に抗議することは、自分自身の感受性と知性によって理解しうること、快楽であると感じられることの全てに対する不当な抑圧と──その抑圧者が何者であろうと──正面から向き合うことであり、必然的に“個人”として発言し注目され憎まれるリスクを否応なく引き受けること、その結果としてある種必然的に孤立することです。そして一度そうと決めた以上は、どれ程しんどいことがあっても投げ出すわけにはいかないことです。それでも友人の支えが無ければとっくに心が折れていたでしょうが。

そしてここからが本題なのですが、つまりは貴方と私では最初から“覚悟”の程がまったく違っていたこと、それ故に発言しうることの内容も、発言する際の前提として引き受けていたリスクそのものも、およそ比較にならないものであったことをまずは認識していただきたいのです。

失礼ながら貴方はおそらくさしたる抵抗感も無く“腐女子”と名乗りながらツイッター上で“公式”と無批判に戯れる無邪気なファンの一人として振る舞っておられたに過ぎず、そういう貴方がはっきりとした批判的意図を持ってあのドラマを批評した私の文章に対して、否定的ではない興味を持ったこと自体がある種のダブルスタンダードですし、その上「完全に同意できるわけではないけど」などという留保をつけたコメントをこれまた無邪気にしてくださった日には呆れるほかにありませんでした。
あの友人のRTとコメントはそれを見た私の精神的な苦痛と嘆きようを愚痴として聞いたからこそです。友人が「tatarskiyが何をやっているのかわからないからそんなことが言えるのだ」と言っていたことの意味は、ここまで読んでくださったならもうおわかりだと思いますが。

はっきり言えば、私があの文章の中でドラマの構成そのものにこれ以上ない程はっきりと浮かび上がっていた通俗なホモフォビアを指摘していたことなど、「“公式”を愛する無邪気な“腐女子”ファン」である貴方には、ツイッター上で具体的に言及することなどおよそお出来にはならないことでしょう?そして実際「同意できないのは結論じゃなくて細部なのに」とか嘯いておられただけでしたよね?なら私の“結論”と貴方が違う解釈をなさっていたらしい“細部”がどういったものであったかについて、もしお出来になるのであればそれぞれはっきり言及して下さい。
そんな“公式様”に対する批判がましいことが貴方に意識的に口にできるわけがありませんよね?
それとも今からでも「同性愛を悪や病理としてしか扱えなかった通俗なホモフォビアは残念だけど、ドラマとしては好きだし面白い」と仰って筋を通そうと思われますか?
後で詳しく述べますが、私がやったことは単に「誰かがやらねばならなかったこと」にすぎません。そしてそれをしたところで、私が得るメリットなど何一つありませんし、むしろ損失を被るばかりです。こうして貴方にツイッター上で悪口雑言を振りまかれ、メールで長文の説明に及ばねばならなくなっていること自体がいい証拠でしょう。

また私が最初にポストしたドラマ自体に対する批評の“細部”そのものが“結論”と不可分なものであり、そもそも批評において全体と照応しない細部などありえません。私が書いたあの文章は全体で作品の内と外に亘る一つの構造の指摘でしかありえないもの(同性愛や男性の女性性が悪や病理として意味づけられていたこと及びそのメタレベルの意味)です。そしてそれは私個人の好き嫌いや「自然な人それぞれの感想」などとはおよそ次元の違うものです。言っておきますが、そうしたそれぞれの感想それ自体は私も好んで収集していますし、貴方のところからも幾つか収集させていただいたことがあります。ですが何かを批評するというのはまったく違う次元の手続きが必要な話です。はっきり言えば、私が書いたものより「より精緻な批評」というのはありえても、「それぞれ平等に違う批評」などというものは成り立ちません。それは単に「どちらかが間違い」でしかありえません。

それから「直接こっちに言えばいいのに」とか言っておられましたが、そういう貴方が何について何を言われたのか最初はまるで明かしておられませんでしたよね。横から“助け舟”を出してくれたお友達の尻馬に乗っておられただけでしたよね?そしてお二人で私と友人を実に適当に悪者扱いにして悦に入っておられただけでした。あんな醜悪な真似をなさらなくても、私と友人のどちらにでも話しかけてくだされば、それがどんな内容であろうとたとえ罵詈雑言であろうと一対一でお聞きしましたが。
あの時の貴方は、それこそ“腐女子”として“分をわきまえて”群れている人の「個人としてリスクを負わず群れの一匹として仲間に頼る」という特権にぬくぬくと浴していたわけです。貴方が私のような否応なく孤立した、“公式”に対しても批判的な一個人でしかなかったら、あんな助け舟を出してくれるお仲間に恵まれたはずもありませんよね?

また別の話になりますが、私があの大河についての文章を書いたのは、ある種の予防的先制攻撃としての意味合いも大きかったのです。

というのは、あの文章の追記にも書いたことですが、要は“腐女子”への罵倒は本質的に男性同性愛に対する嫌悪感のすり替えであり、“腐女子”の人の自称自虐というのはそうしたホモフォビアを内面化した通俗な世間へのおもねりです。つまりその“自虐”は必然的にホモフォビアへの加担でもあるわけですが、当然ながらそれは女性が自身のセクシュアリティに対する自尊心を剥奪されている結果にすぎず、彼女をエンパワーメントすることなくさらに抑圧してもなんら解決しないことです。ですが呆れたことにゲイ男性(もしくはそのシンパ)の側でも権力者であるヘテロ男性との衝突の回避もしくはある種の“緩和”として「腐女子も自分たちへの差別に加担している」と言い立てたがる手合いが少なからずいます。

私はそうした手合いの妄言を相手にしたことは何度もありますし、正面から論破すれば一応はそれで済むのですが、ある意味彼ら自身より厄介なのが、そうしたこけ脅しの妄言を真に受けて「ちゃんと他の“腐女子”を批判しないと私までゲイ男性を差別してると思われる」と思い込み、ろくでもない“啓蒙”に奔る“模範的腐女子”が後を断たないことです。

そして私が危惧したのは、歴とした“肩書き”のあるゲイ男性もしくはそのシンパや何らかの“性的マイノリティ”、または“クィア研究者”が先にあの大河ドラマの内容への批判を然るべき場所で発表し、その中で直接ではなかったとしても、それに影響された連中が「あの大河での差別的な同性愛の扱いに“萌え”ていた腐女子も同罪だ」とでも言い出すことでした。
そしてそんな事態が現実になってしまえば、たちまち自称腐女子の人たちの間で近親憎悪的な“反省”合戦が始まるのは目に見えています。あるいは一切に目を瞑って“萌え”続ける人と二手に分裂して、後者が「腐女子の無反省の証し」としてヘイトスピーチの種に使われることになることも考えられますが。

それはともかく、あのドラマの中での同性愛の扱いそのものに倫理的な問題があり、それがドラマ全体のテーマや構成にまで及ぶ核心的な問題であるのは明白なのですから、そのことに対する指摘は、「必ず誰かがやらなければいけないこと」です。もっと言えば、私のやったことは、貴方がなさってもよかったはずのことに過ぎません。

tatarskiyより
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by kaoruSZ | 2012-08-29 16:55 | 批評 | Comments(1)
Commented by gongusmos at 2012-09-05 14:24 x
突然のご無礼をお許しください。いつもツイッター上でtatarskiy様の考察をたいへん興味深く拝読しております。わたしは初夏に友人から矢川澄子という著作家を教えてもらい、いくつかの作品を読んでおりました。また、彼女が澁澤龍彦の妻であったこと、しかし離婚したこと、さらに離婚した後も澁澤を大きな拠り所としていた(と思われる)こと、そして自殺しなければならなかったことについて、ずっと考えていました。
上記のブログ記事を拝読し、tatarskiy様がおっしゃる男性のホモフォビア、そして女性がそれを自ら受容させられざるを得ない状況にあったことの歪みを、澁澤と矢川との関係に見るような気が致しました。
わたし自身が男性であるゆえ、このコメントもきわめて表面的でしかないこと、どうかご容赦下さい。いつも多くのことを学ばせて頂き、心から感謝申し上げます。