おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(12) H*O*M*O

追記にあたる関連まとめこちらにも目を通してください。

7月24日に始まって途中休止していた、間借人tatarskiyの表アカ@tatarskiy1による連続ツイート、完結したのでまとめました。下のRTにも出てくる【tatarskiyの部屋(8)「ホモォ騒動の顛末について」http://kaorusz.exblog.jp/18675599/】の続きになります。東浩紀の発言というのもそちらで読めます。(鈴木薫@kaoruSZ)


H*O*M*O

RT @QueerESL: 【単語】naïve =「無知・考えの浅さが原因で、素朴である」

RT @QueerESL: (例)It was naïve for Hiroki Azuma to bring up the issue of yaoi so he could defend homophobes.(東浩紀が、同性愛嫌悪的なひとを擁護したいがためにヤオイの問題を持ち出したのは、安易すぎた)

RT @kaoruSZ: 折りよくtatarskiyさんのまとめ 「ホモォ騒動の顛末について」届いたのでアップしました(勿論偶然ではない)。

昨日は夏風邪でツイートできなかったのだが、上のRTの一件について。大元のしょうもない記事やそれへの反発に対して心無いホモフォウブが揚げ足取りをした話は確かにどうしようもないのだが、その後の東浩紀による最低な勘違い発言のせいでまたぞろこちらに火の粉が飛んできたらしいので。

早速私が見たはてなブックマークで自称腐女子が「私たちもホモなんて安易に言わないで気をつけないと、ゲイ男性様への差別になっちゃう」とかのたまっていたのにはウンザリし果てた。そして「ホモと言うなゲイと言え。LGBTと言え」と繰り返すだけで意味があると思っている連中には呆れ返る。

まず、あくまで日本語の世間一般を前提とした大ざっぱな話であることを断っておくが、そもそも「ゲイ」と「ホモ」では実はコノテーションの根本的な部分に差異がある。ゲイを馬鹿にした言い方がホモなのではない。

「ゲイ」とはある種“人種”化された社会的属性であり、基本的に“当事者”個々人の名乗りであり、それは本質的に“ヘテロ男性”に対置される、彼らと同等の社会的権利を要求する別の立場の主張である。だからこそ「ゲイの権利」という言い方が成り立つのだ。そして「ホモ」ではこれは成り立たない。

なぜ「ホモ」ではそうしたパブリックな権利の主張にそぐわないと感じられるのか?「差別用語だからだ!」と短絡的な反応をする前に、そもそも「ホモ」という単語をヘテロ男性が侮蔑語として用いる場合、彼は何を意図しているのかをよく考えてみるべきだろう。

“ゲイ男性”を差別すること?いやそれ以前の問題だ。彼が嘲る対象とは「男のくせに女のように同じ男と寝るような、受身であることを恥とも思わぬ男らしくなさ」そのものであり、彼はそうした「男にあるまじき態度」を「同じ男として」憎悪しているのだ。彼が差別しているのは人種ではなく行為である。

ホモフォビックなヘテロ男性にとっての真の恐れとは「男が男にとってのエロティックな対象であり得ること」そのものであり、それは彼自身が男でなくならない限り、決して排除しきれない可能性である。「ホモ」とはその後ろ暗い可能性の尻尾としてのレッテルであり、疑惑の対象は常に彼自身でもある。

「お前ホモじゃないか?」という嘲笑の疑問符は、「裏切り者はお前だろう?」というこの疑惑の他者化であり、本質的に“他人事”ではありえないからこそ、彼は常にそれを繰り返す必要があるのだ。

こうした相手に「自分はホモではなくゲイです」と言ったところで、それは「お前のような裏切り者は男じゃない」という罵倒に対して「自分は貴方とは別の種類の男です」と返すに等しく、本質的に反論たりえていない。相手が「そうか」と引き下がるとしても、それは極めて欺瞞的な手打ちに過ぎないのだ。

いや、端から相互不可侵条約を結んで“休戦”することが目的ならそれでよいのかもしれないが。「男が男にとってエロティックであるなどという現象は、“ゲイ”という限られた種族の間のみの特殊な例であり、スタンダードたるへテロ男性の世界観には関わりの無いことだ」というわけだ。

もうおわかりだろうが、この欺瞞に満ちた紳士協定はヘテロ男性の“ホモ”ソーシャリティが支配すべき“公共の場”での“ホモ”エロティシズムの可能性の抑圧に合意するものだ。存在を許されるとしたら、それはエロティシズムを漂白された「ゲイ男性の人権」を擁護するための啓蒙的広告のみであろう。

「ホモ」とはパブリックな男たちの「合理的で対等な」関係性の影に潜む、アンオフィシャルな汚名と疑惑の影である。それはエロティックで不合理な可能性であり、彼らはそれを互いに対して抑圧することによってのみ、“名誉ある組織の構成員”たりえるのだ。

ゲイは「ホモ」ではないという言い分もまた、この抑圧へ合意した“正規の構成員”としての承認を求めているに過ぎない。だがそれによって表面上は“平等”に遇されたとしても、ホモフォビアの存在は微動だにしないだろう。全ての男は男である限り「ホモであるかもしれない」容疑者であり続けるからだ。

ところで、この男たちの相互監視によって成り立つホモソーシャリティに支配された世界の中で、女性とはどのような存在であろうか?外的な立場としては、言うまでもなく彼女は彼女自身の固有の権利や名誉を持たない男たちの補完物であり、それを下支えさせるべくホモソーシャルの外部に疎外された者だ。

だが彼女がいかなる特権も名誉も持たないことは、男たちがそれと引き換えに縛られている“女ではないもの”としての自己規定─ホモフォビアの呪縛からも無縁であることを意味する。彼女にとって“男同士の絆”とは、その本質そのままに、ただありのままにエロティックなものとして享受されるだろう。

そしてそれは彼女にとって、時として彼女自身の義務として課せられた「男にとっての女の物語」よりも、遥かに甘美な魅力を持つだろう。だが彼女がそれを愛すること、男と男の間にあるエロティックな絆を描くことは、正にそれを否認することによってこそ均衡を保っている男たちにとっては、秩序の撹乱であり許しがたい逸脱をしか意味しない。女がただ男から愛されることだけを望み、男たちの間の秘密についてなどおよそ感知し得ない愚かな愛玩物としての客体であってこそ、このあるべき秩序は保たれるのだから。

女性によるBL表現という形でのホモエロティシズムの顕現は、彼らにとって、自らが抑圧したものが「女のものとして」回帰して来ることを意味する。実はこれは通常“女の本質”とされる「男を愛すること」が“男が抑圧したもの”の外在に他ならないことの、新たな形を取った繰り返しに過ぎない。

男とは、自らが自らに禁じたことを許されている者であるがゆえに“女”を憎むものである。ミソジニーとはすべてこうしたものであり、男をエロティックな対象として捉えることは、その禁止の核心に位置する。そして言うまでも無くホモソーシャルとは、禁止によって作り出される秩序に他ならない。

秩序を回復するためにこそ、彼らは“それ”を憎むのだ。それは“ゲイ”という限定された範囲内でポリティカリーコレクトに扱われるべき人種のやむをえざる性質としてではなく、「あらゆる男にとっての、あらゆる男が」エロティックな対象でありうるなどという無秩序な“ホモ”を描いたものであり、それも「男の当然の性的対象であり、本質としてそれを望むもの」であるべきはずの女が、「女の分際もわきまえずに」描いたものだ。ヘテロ男性にとっては単におぞましいものとして、ゲイ男性にとっては「女如きが俺たちの領分を侵す不届きな所業」として、罵倒し蔑むのが当然の代物だ。

彼らは口を揃えて言うだろう「俺達はこんな“ホモ”なんかじゃない」と。そして罵倒される女性たちの主観としては、彼女たちがそれを“ホモ”と呼んでいるのは、由緒正しい人種としてのゲイとも“普通の男性”とも無関係な、卑しい自分たちの単なる妄想であるという“わきまえ”の証しであろう。「男同士の絆が魅力的でエロティックに見えるのは、女の身の程も知らない私の妄想なのはわかっています。女如きに本物の男性なぞ描けるわけもありませんし、偽物なのはわきまえています」というわけだ。言うまでもなく彼女が蔑んでいるのは自らのセクシュアリティであり、ゲイ男性であろうはずもない。

女の描いた偽物の“ホモ”を叩くことは、ヘテロ男性には自らが由緒正しいマイノリティたるゲイ男性を憎んでいることを、ゲイ男性には自らが非の打ち所の無い“立派な男”であるヘテロ男性から憎まれていることを忘れさせ、「あの忌々しい女どものせいで」不快な思いをしていると信じさせてくれる。

だが男たちが彼女に負わせ、彼女自身も自分の罪と信じ込んでいる“ホモ”という汚名は、「男にとって男がエロティックであること」の可能性と美意識と世界観そのものであり、現実の社会においては、それを抑圧することの利得によって全ての男は共犯である。「ゲイ男性に失礼」とは大した言い逃れだ。

言うまでもなく「女こそ男にとって当然にして唯一の性の対象であり、男が望む形の美を体現することこそ、女の義務であり存在意義である」とする男性によるヘテロセクシズムの世界観とは、現実にこの社会を支配し「何が当然の前提としての従うべき“現実”であるか」を規定する覇権そのものである。

BL表現を愛好する女性たちがそれを“ファンタジー”と呼んでいるのは、それが本質的に“従うべき現実”としてのヘテロセクシズムの世界観に反するものであるからだ。それは決して彼女の“妄想”の産物などではなく、“従うべき現実”によって抑圧されている“もう一つの可能性”そのものであり、それは女こそを当然の対象とする通俗からは離れた、オルタナティブな美意識の表現である。そして「通俗以上の何か」を表現しうるものとは、あらゆる芸術の目指すところそのものだ。

勘のいい方ならもう気づかれたと思うが、ホモエロティシズムの表現とはかつて名だたる芸術家の─つまり“男”の手になる傑作を生み出してきた普遍的な美の対象であり、それは近代的なヘテロ/ゲイという二分法やそれに基づいたホモフォビアなど及びもつかぬ、文化そのものの始まりと共にあるものだ。

以前に制度的なヘテロ男性のメンタリティの問題として論じたことがあるが、http://kaorusz.exblog.jp/18345164/ 近代的なヘテロセクシズムとホモフォビアの機能は“性的なもの”と“知的なもの”との分離にあり、それは合理主義的な理性の優越による、官能的で不合理な感受性の抑圧である。

そして芸術とは、自らの官能的な不合理に基づくファンタジーを、知的な技巧を凝らして表現することによって、他者にも快楽として享受されうる普遍の域に至らしめようとする営みである。それは特定の個の感受性から発しながら、洗練を経ることで多数の個の感受性に働きかける力を持つことだ。

“性的なもの”と“知的なもの”の一致なくして芸術的な表現はありえない。そしてヘテロセクシズムの要諦とは両者を分離し、前者を“女”の本質とすることによって後者を男が占有することであり、それに対して芸術としてのホモエロティシズムの表現とは、本質的にこの二つの一致を象徴するものなのだ。

それはまさしく両性具有の実践であり、そこから生み出される表現もまた、個々の性別や性的指向を超えて人を魅了する力を持つだろう。ただ制度的なヘテロ男性のホモフォビアとヘテロセクシズムだけが、それが彼自身にとって魅力的であることと、彼のものであるべき女がそれに惹かれることを認めぬのだ。

この文章をここまで読んでこられたなら、本当に大切なことが何かはもうおわかりだろう。ホモエロティシズムのイメージ自体が蔑視されたまま、種族としての“ゲイ”だけは差別されないなどということはありえず、そんな欺瞞をヘテロ男性との“相互理解”であるとする錯誤はミソジニーの温床に過ぎない。

“それ”がなんと呼ばれるのかが問題なのではない。必要なのは彼自身が、それがイメージであれ現実の他者であれ、“ゲイ”ではない自らもまたホモエロティックなものに惹かれうること、その可能性そのものを肯定することだ。
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by kaoruSZ | 2012-11-18 16:56 | 批評 | Comments(0)