おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

ハンカチと赤い手帳『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(1) by tatarskiy

ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(1)          

tatarskiy

“My dear fellow, you know my methods.”   
- Sherlock Holmes in The Stockbroker’s Clerk

「ちょっと君の真似をしてみたのだよ」
―明智小五郎(『屋根裏の散歩者』)


今年の3月に公開された映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(原題:A game of Shadows)をDVDで見た。ご存じのようにシリーズ物の二作目で、筆者は一作目もDVDで見たが、正直なところ今一好きになれなかった。しかし、今回見た二作目の内容は非常に興味深いものだった。

まずはご覧になった方なら皆が気づかれたであろうレベルで明示されていたが、テーマやプロットとしては江戸川乱歩の『孤島の鬼』そのままであることに驚いた。もっと素朴なレベルで言えばアンデルセンの『人魚姫』とも言えるだろう(これも片思いしていた友人の結婚による作者の失恋が、執筆のきっかけの一つだという話を読んだ記憶がある)。また、原作と同じ英国の文学作品に先例を求めるならトールキンの『指輪物語』の結末とも重なるものだ。ワトソンに対するホームズは、箕浦に秀ちゃんとの幸福な結婚生活を与え自らは死した諸戸、人間の王女に心を移した王子のために海の泡になった人魚姫、妻と子供を得て未来を約束されたサムのために全ての財産を譲って西の海の彼方へ去るフロドと同じように、女との健全な幸福が約束された愛する男のために、自らを犠牲にする道を選び取るのである。

乱歩の『孤島の鬼』で自分に恋する美青年・諸戸と再会した箕浦は、連続殺人の犯人探しのため彼と“探偵遊戯”に乗り出す。「若い私たちの心の片隅には、確かに秘密を喜び、冒険を楽しむ気持があったのだ。それに、諸戸と私との間柄は、単に友だちという言葉では云い表わせない種類のものであった」
(中略)結婚したワトスンも“探偵遊戯”という口実があれば独身時代と同様ホームズと行動を共にしてくれるのだ。「諸戸は私に対して不思議な恋愛を感じていたし、私の方でも、無論その気持を本当には理解できなかったけれど、頭だけでは分っていた。そして、それが、普通の場合のようにひどくいやな感じではなかった。彼と相対していると彼か私かどちらかが異性ででもあるような、一種甘ったるい匂を感じた。ひょっとすると、その匂が、私たち二人の探偵事務を一層愉快にしたかも知れないのである」
『シャドウ ゲーム』のワトスンはどうやらこの箕浦と同じらしい。勿論この類似は不思議ではない。乱歩は言うまでもなくドイルを読んで書いたのだから。いや、乱歩が他の何よりもドイルから学んだのは犯罪実話のサブジャンルとしての探偵小説というより、まさしく「このようなもの」ではなかったか。
<鈴木薫のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121031より>


上に引用したように、今回の映画におけるホームズとワトソンの関係は、冒険にいたる経緯や結末まで含めて『孤島の鬼』の諸戸と箕浦に非常によく似ている。だが少々厄介なことに、主人公のホームズはいわば“信頼できない語り手”であり、観客の前に映し出される世界はあらかじめ彼の主観によって歪められているとも言えるのだ。非常に巧みな脚本と演出によって多くのシーンに、漫然と見ていたのでは気づかないであろう二重の意味が仕込まれており、その繋がりを追うことでしか発見できない“真相”が隠されているのだ。

第一章

“探偵の仕事”
プロローグに続いて、映画の本篇は、結婚式を明日に控えたワトソンがベイカー街のホームズを久しぶりに訪ねる場面から始まる。室内はホームズが栽培している植物でジャングルさながら、強心剤の原料になるというヤギまでが放し飼いにされている。ホームズ自身は特製の迷彩服で姿を隠しており、呆れるワトソンにおもちゃの矢を射掛けてからようやく姿を見せ、自分はワトソンがいなくなってからもこうした発明や「自分の探偵人生の中で最大の事件の捜査」に没頭して忙しく過ごしていたことを強調するが、ホームズがいったん席を外した隙に彼を気遣う大家のハドソン夫人がワトソンに語ったとろでは、近頃のホームズは「コーヒーとタバコとコカの葉しか口にしなくて、眠らないし、声色を変えて、役者さんみたいに喋ってたり……」という尋常でない様子であったらしく、いざワトソンから明日結婚することを告げられると、一応は祝福を口にしつつも動揺を隠せない。「少し痩せたか?」と自分を心配するワトソンに、ホームズは「その分が君についた。メアリーのマフィンをつまみすぎだ」と笑ってみせる。

前祝いにブランデーでも飲もうと言うホームズに続いてワトソンがかつての自分の居室に入ると、そこにはモリアーティの絡んだ犯罪の記事が壁一面に貼り付けられ、ピンを刺して留めた紐で記事が相互に結び付けられた、まるで蜘蛛の巣のような立体の相関図になっている。
ワトソンはホームズから、このところ世界各地を騒がせている要人の怪死やスキャンダルの中心に「天才的な数学者にして高名な作家であり教師。ケンブリッジの拳闘大会の王者にして現首相の学友」であるモリアーティ教授の企みがあること、ホームズがそれを阻止することに全力を傾けていることを聞くが、ホームズの我が身を省みようともしない異常な興奮と熱中ぶりに呆れ、医師としての忠告を口にしつつ彼を気遣う。

ここまでの流れで十分すぎるほどに強調されているのは、ホームズがワトソンの結婚によって彼から引き離されたことで、誰の目にも明らかに心身の安定を失っていること、文字通りワトソンが去った後の空白を埋めようとして新たな発明と、何よりもモリアーティの陰謀を阻止することに没頭していることだ。そしてワトソンは、ホームズの憔悴の真の原因が自分にあることにおそらく気づいていながらそ知らぬ顔を決め込み、あくまで友人として医師として、彼の健康を気にかけてみせるばかりなのだ。

これだけでもテーマと伏線の提示としてはほとんどの人に了解されるものであろう。そしてワトソンのホームズに対する残酷さもあまりに明らかだ。しかもここまでの情報で判断する限りでは、ホームズの語るモリアーティの陰謀は荒唐無稽としか思えない内容で、聞かされたワトソンが半信半疑なのも当然である。しかもホームズが不眠と栄養失調と極度の興奮状態にあったことははっきり示されており、すべてホームズの妄想であったとしてもおかしくないどころか、その方が自然でさえあるのだ。

もちろん物語内部の素朴なリアリティーのレベルとしてはモリアーティの陰謀は事実であり、ホームズはそれを自らを犠牲にしてでも阻止した英雄である。これに先立つプロローグ部分では、変装したホームズがモリアーティの使いの途中のアイリーン・アドラーと再会して夕食を共にする約束をした後、彼女がオークション会場で爆弾小包を渡して殺害しようとしていた医師ホフマンスタールをいったんは爆弾を処理して助けるものの、結局会場の外で毒針に刺されて死んでいるホフマンスタールを発見するまでが描かれている。ここでは下手人であることが暗示される形でモリアーティの腹心モラン大佐も姿を見せており、この一連の流れは表のストーリーの伏線を構成すると同時に、あらかじめ観客に対して、ホームズがワトソンに語るモリアーティの陰謀に真実味を帯びさせる役目を担っている。

だが、現実ならざるフィクションにおいて真に重要なのは、パンフレットに載っているようなそうした表の筋書きではなく、それを口実として提示される文字通りの目に見える“細部”であり、そうした“細部”の連なりから浮かび上がる意味と、その意味同士の繋がりである。フィクションとはいわば精緻化された夢であり、夢とは筋書きではなく細部によってこそ、見る人の“真実”を物語るものである。つまり、“設定”として妄想と現実のどちらとされていようと関係なく、画面に映されたものはすべて“真実”への手掛かりであり、観客はそれを読み解く意識的な目を持つ必要があるのだ。今お読みいただいている筆者による文章も、そうした試みの一例であり、ある意味ではそれ自体が“探偵の仕事”とも言えるものだ。

こうした手法についてのより詳しい解説を知りたい方は、筆者が以前に鈴木薫と共同で執筆した、サイレント映画『カリガリ博士』についての分析http://indexofnames.web.fc2.com/caligari/suna_nemuri-0.htmをご覧になっていただきたい。この文章の内容は、今回の『シャドウ ゲーム』についての分析とも直接繋がっている部分が多く、以下の文中でも随時引用することになるが、いずれも核心としては19世紀から20世紀初頭を舞台とした作品中に表れた、男性の抑圧されたホモセクシュアリティをめぐる表象を扱っている。

前置きはこれくらいにして、まずは本篇に戻ってみよう。先述したように、ホームズの語る全欧州を巻き込んだモリアーティの陰謀というのは甚だリアリティーを欠いた代物で、聞かされたワトソンはホームズに「それで彼はなにをするつもりなんだ?」と半信半疑で訊ねるのだが、それに対してホームズは「悪者が罪を犯すのに理由など無い」「モリアーティの死をこの目で見る。そして邪悪な陰謀が広がるのを必ず阻止する」「奴を止められるのは自分だけだ」と言い張るばかりで何の答えにもなっていない。だが構造として明らかなのは、自らの命と引き換えにしてでもモリアーティを滅ぼすことだけが、ホームズにとってワトソンを失うことに釣り合うだけの情熱の対象でありえたことである。

問題は「なぜモリアーティなのか?」であり、モリアーティが働いていたとされる荒唐無稽な悪事は、物語を合理的に見せる口実にすぎない。真に重要であり隠されたテーマそのものでもあるのは、「モリアーティとは何者であるのか?」であり、彼を標的に選んだホームズ自身の内面的動機である。

分身と“悪”
ホームズはワトソンに向かって自分のその一種異様な使命感を、「It’s a game, dear man, a shadowy game.」と表現している。日本語字幕や吹き替えでは「いいかい?これは影を追う戦いなんだ」と訳されていたが、タイトルとも関係する“shadowy”という単語には、影のようなはっきりしない曖昧さ、そして非現実的な・架空の・想像上の事物というニュアンスが含まれている。ここでは明らかに、彼を心配するワトソンにさえ怪しまれているようなホームズの精神状態から来るモリアーティの陰謀譚そのものの疑わしさと、ホームズにとって、モリアーティとの戦いが“影”──つまり自らの負の分身とのある種の独り相撲であることが示唆されているのだ。そして結論から言えば、「理由など無い」どころか、モリアーティの“悪”とは実はホームズが自らのものとしては抑圧した願望そのものであり、それは決してワトソンには「言えないこと」なのだ。自分自身の内なる悪の外在であればこそ、それを阻止し得るのもホームズ自身の他にはありえまい。そしてポーのウィリアム・ウィルスン同様、分身を滅ぼせば必然として本体も死に至るのである。

モリアーティがホームズの“影”であるのは、ホームズと同等の優れた頭脳と運動能力、高い知識と教養を持ち、格闘技に秀でているという最も表面的な類似からも明らかだ。また、二人の対決に際してはチェスが効果的な小道具として用いられ、ホームズが白い駒、モリアーティが黒い駒という、視覚的にもわかりやす過ぎるほどのシンボリズムによって対比されている。DVDに収録されている製作スタッフによるコメントでも、「モリアーティはホームズの邪悪な双子といえるだろう」「モリアーティは二面性を持つキャラクターだ。人並み外れて優秀だが、人の道を外れている」と語られるが、通常それは単にホームズと違って悪事を平然と行なう悪人だからだとしか思われまい。しかし、発言したスタッフの意図とは関わり無く、上のコメントの文句はどれも巧妙なダブル・ミーニングとしてとらえるべきものである。モリアーティを真にホームズの“邪悪な双子”たらしめている“人の道を外れた”行いとは荒唐無稽な陰謀などではなく、しかもそれを見出す注意深い目さえあれば誰にでも見ることが出来る、「映像という表層の細部」に巧妙にちりばめられている。

誰が“彼女”を殺したか?
モリアーティが最初に観客の前に姿を現すのは、アドラーが待ち合わせをしていたレストランのホールの場面でのことだ。彼女がテーブルで紅茶を頼んでいると、ふいに客席同士を仕切る深紅のカーテン状の衝立の向こうから、彼女に呼びかけるモリアーティの声が聞こえてくる。彼はアドラーがホームズのために仕事に失敗したこと、持っていた手紙を奪われたことを、言い渋る彼女から穏やかながら有無を言わさぬ威圧感を込めた口調で聞き出す。彼は彼女に話しかけながら、そこだけが映し出されている手元では紙に鉛筆で書き物を続けている。アドラーの席の斜め後ろ、彼女とモリアーティの席が共に見渡せる席には、モリアーティの腹心であるモラン大佐の姿が見える。モリアーティが「君は警戒していた。だから馴染みの店で、人の多い場所を選んだのだろう?」と問いかけると同時に書き物をしていた手を止め、鉛筆をテーブルに置くと、それが合図だったように、モランが手にしたスプーンでゆっくりグラスを叩く。とたんに周囲の客たちが一人残らず立ち上がり、次々と店から出て行ってしまう。三人の他には誰もいなくなり、その場が静まり返った瞬間、唐突に深紅のカーテンが向こう側から持ち上げられ、今までの恐ろしげな気配からすれば意外なほど特徴の薄い、落ち着き払った初老の紳士が現れる。モリアーティはアドラーに、ホームズへの思いのために仕事に支障を来たすようになった彼女には、もはや自分に協力してくれる必要は無いと告げ、解放されたアドラーは緊張に耐えられなくなったように一礼して立ち上がり、足早にその場を立ち去ろうとする。だが彼女が画面の外に逃れ、入れ替わりに再び席に落ち着いたモリアーティが映ったとたん、テーブルが倒れるガシャンという音がする。モリアーティがそれにはまるで無関心なまま、手元にあった紅茶のカップを啜るところで画面は切り替わり、約束の時間を過ぎても現れないアドラーを待ちわびながら、一人レストランの席に座るホームズが映される。

以上がモリアーティの初登場、そしてアドラー毒殺の場面であるが、この時の画面全体に色彩と共に満ち溢れている過剰な情動は、表向きの筋書きにおけるこの場面の機能を遥かに凌駕するものであり、先に明かしておくと、実はこれは全篇を通して最も重要な場面でさえある。この場面の絵解きから浮かび上がる真実とはそのまま、語られざる真のテーマそのものなのだ。詳しくは順を追って徐々に解き明かしていくことになるが、これを読まれている方も、上述の場面が示唆している真実のありかについて、一緒に考えをめぐらせていただきたいと思う。

まず、はっきりした印象を残すのは、モリアーティの女に対する冷淡さである。前作からの伏線を無理なく生かすのであれば、アドラーこそがホームズとモリアーティの関係の焦点に──早い話が三角関係として描かれるのが一番自然であったにも関わらず、こうして彼女は開幕早々あっけなく退場を余儀なくされ、モリアーティに従っていた理由もついにわからず仕舞いなのだ。そして、こうして観客の前に示されたモリアーティの人物像の第一印象もまた、まるで女を女として扱う気の無い冷酷な無関心さを如実に示しており、ずっと従えて利用していたという設定であるにも関わらず、アドラーとの間にいかなる関係性も想像しがたいような、奇妙なほどの共感性の欠如が目立つ。早い話がアドラーの彼に対する脅えにすら、その原因を想像させるような物語性が微塵も無いのだ。文字通り取り付く島も無い。

結論から言えば、こうした点は続篇の製作に際して関係性の焦点をホームズとワトソンのそれに絞ったことに伴う変更であり、つまりはアドラーは端からお払い箱だったということだが、それだけでなく、対するモリアーティのキャラクター性そのものも、この変更の影響を受けて確立されたものだろう。彼が忠実な従者であるモランを引き連れて登場するのはそれ故の必然であり、先に進む前に覚えておいて欲しいのは、この場面において真に重要なのが、「アドラーがホームズに心を傾けているのをモリアーティに知られたために毒殺された」などという表面のつじつま合わせの筋書きなどではなく、「親密な間柄にある二人の男が共謀して女を殺した」という、このシーンそのものの完結した一枚の絵としての意味合いであることだ。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:28 | Comments(0)