おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

コナン・ドイルの「アルダ」へ

              彼は再発明された愛、そして永遠だ。――「イリュミナシヨン」

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 昨日はtatarskiyさんとまず上野へ、上高近くの古い住宅を改装した隠れ家的ティーハウスを見つけてお茶したあと、紅葉終りかけの不忍池でスワンボートに乗る。ボート三隻しか出ていない水面に鷗の群が低空飛行。最後に、明日まで夜間開園の六義園へ。その前、上野駅のつばめグリルにいた時に地震。
 帰ってきて椅子でうたたねしていたら電話で起こされた。別れたばかりのtatarskiyさんが、ホームズとワトスンを“ブロマンス”の例とするツイートが多数出回っているのを見つけて、怒り心頭でかけてきたのだ。そりゃひどい。ホームズはホモソーシャリティから切れた人。彼が「男の友情が」とドヤ顔するなんて考えられるか? 「僕の友人は君だけ」の人だよ。ワトスンと二人で全世界に対抗する白い手と甲高い声のクィアーじゃないか。性的であることをあらかじめ絶対的に除外するというのはたんにホモフォビックだと知るべき。

“ブロマンス”の代表ならイシハラとハシゲとでもしておけ。(それにしてもアレをつかまえて自分の牛若丸って、みじめだと思わないのか。若さに輝いていた頃の弟のような青年ならともかく。TV無いから見てないけど薹の立った牛若丸もデレデレだったらしいね。醜悪極まる。)そもそも「女」や「ホモ」を石原が憎むのは内なる女性性を死ぬほど恐れているから。感じるように考え考えるように感じるホームズのような人とは正反対なのだ。(12月8日)

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 tatarskiyさんが映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』を見たことに端を発して、ホームズ物語(それ以外のドイル作品も)再読と発見の日々ははじまった。その直前まで私たちは、主に折口信夫の小説作品に関して同様の発見の日々を分かち合っていたはずなのだが、とりあえず折口は脇に置き、トールキンのことも忘れて。トールキンと言えばコナン・ドイルは、いろいろな意味でトールキンに比較されるべき作家であろう。先入見(前者は大衆小説、後者は学者の手すさびの“児童文学”と見なされて)によって真価を知られないままであることにおいて。新しいジャンルの創始者と思われているが、実は隔絶した孤高の作家であることにおいて。そのジャンルの後継者を自認する者はあまたいるが大半は凡庸なジャンル作家そのもので、創始者は理解されないまま、しかもその理解されなさのほどが半端ではない!
 そして何と言っても、同性愛を明示的に描くことが不可能だった時代に、それを主題として書き(勿論巧妙に隠して、しかもあらわに見せながら)、そのことが今なお発見されずにいるという点において。

 すでにtatarskiyさんの書いたものを映画についても原作についても載せているが、私の連続ツイートも以下にまとめてみた。別に中断しているものもあるが、完了させたらたら載せるつもりだ。

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 昨夜は図書館で河出書房版(オクスフォード版の翻訳)のホームズ全集の(おもに『事件簿』の)注釈と解説をチェックしていた。ホモフォビックなのはかねて聞いていた通りだったが、ホモフォビックとは、たんに「ここには同性愛を示すものが何もないということを指摘しておく価値がある」という文句が突然出てきて唖然とさせられるという現象だけを指すのではない。そもそもそういう精神は批評に全く向いていないのだ。
 とはいえ、これは警察の捜査のようなもので、組織的にやってくれるからこっちとしては大いに助かる。だが、悲しいかな彼らには読み方が分っていないから、膨大な集積もとんちんかんな解釈の連続、宝の持ち腐れなのである。

「高名な依頼人」については別にツイートもしたばかりだが、あの中にホームズが「ヨーロッパ随一の危険な男」と呼ぶグルーナー男爵について次のように言うくだりがある。「複雑な性格と見えますね。犯罪者でも“大”のつく連中は、みんなそうしたものです。わが古馴染みのチャーリー・ピースなんかはヴァイオリンの名手でしたし、ウェインライトも並みの芸術家ではなかった。ほかにも枚挙にいとまなしということです(…)」

 このウェインライトなる犯罪者が実在したことを注釈で知った。オスカー・ワイルドが『ペン、鉛筆そして毒薬――緑の研究』をものしている毒殺魔というではないか。注釈はそれ以上触れていないが、これは “Pen, pencil and poison”に“A study in green”と副題してワイルドがドイルへのオマージュとしたものだ(ちなみに塚本邦雄の歌集『緑色研究』の題はここから来ており、無論ワイルド→男色=緑色の意)。

 ホームズが名前を挙げた「大犯罪者」二人のうち、前者はヴァイオリンの名手ということで明らかに彼自身に重なり、もう一人がこのウェインライト、調べてみると「芸術家」とは比喩ではなく、文学も絵画も手がけたらしい。「ペンと鉛筆と毒薬」とはその道具の謂と今さらながら知る。それらを使うわざ(毒薬以外)にいそしみつつ流刑先のタスマニアで没した由。塚本は歌集で二つの「研究」の表題を挙げ、自分は毒の方に関心があると称していたが、私たちの解釈を聞く機会に恵まれていればドイルとホームズにより関心を抱いたであろう。ホモソーシャリティに安住した女嫌いでは、見える幻にも限界があるというものだ。

 実在の、そしてオスカー・ワイルドと関連づけられたウェインライトが、犯罪者と芸術家を兼ねるのは、そしてホームズ自身が彼と同一視されうるのは偶然ではない。探偵は犯罪者でもある――ホームズはいかなる意味でも警察の側の人間ではなく、警察がその典型である制度的な見方とは違うふうに感じ/考え、見、読み取り、享受しうる。これは芸術家には絶対的に必要なことで、だからこそホームズは芸術家でもありうるのだし、制度的な異性愛の男が考えることと感じることを切断されて住まう貧弱な世界とは違うありようを生きる者でもありうるのだ。

 だが、なぜそれが“犯罪”なのか? R・L・スティーヴンスンが『ジキル博士とハイド氏』を発表したのと同じ月に発効した、そして『四つの署名』が載ったのと同じ雑誌の同じ号に『ドリアン・グレイの肖像』を書いた作家を失墜させた法律が、かの探偵の活躍期間を通じて有効だったのは確かである。この間[かん]、英国において同性愛は名実ともに犯罪であった。すでに畏友tatarskiyが端的に指摘しているが(kaorusz.exblog.jp/19664604/ )ホームズ物語に顕著な「過去の因縁」「秘密」「恐喝」「嫉妬」といったモチーフは、実はその大半が同性愛を主題に持ちながら異性愛のデコレーションで偽装されており、中のケーキは誰も手をつけないままであるのだ。

『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』は、「ゆすりの家」と名づけられた家の「秘密のドア」(ハイド氏が出入りするのがが目撃される。実は、ジキル邸の、別の通りに面したバックドア)についての会話に始まり、ジキルの書斎のドアが強引に打ち破られることによる秘密の暴露と主人公の死で終っていたが、ホームズと“彼の”犯罪物語は、「秘密」「恐喝」のモチーフを直接受け継ぎ、男たちの孤立した寒々しい死しか想定されなかった地点で始められながら、ついには「愛の再発明」(アルチュール・ランボー)にまで到らしめるという稀有な達成を遂げ、しかもそれを誰にも知られぬままだったのである。

 tatarskiyさんも前記の「『シャーロック・ホームズの冒険』読解メモまとめ」でほのめかしているが、初期の短篇のホームズは『ジキル博士とハイド氏』や『ドリアン・グレイの肖像』の世界から直接やって来たのであり、その「二重の魂」(ポー)は、先輩格の元祖引き込もり探偵にばかり倣った訳ではない。犯罪捜査と称して阿片窟に入り浸ったり、モルヒネやコカインを用いたりするのは、ハイド氏(ホームズもまた魔法のように別人に変身する)の夜の街での“悪徳”の正体がけっして明言されなかったのと同じ置き換えであり、彼は自分が熟知するロンドンの犯罪者と実は一つ穴のむじなである“犯罪者”であるのだ。

 一方、ワトスンはアフガン戦争での負傷によってモラトリアムを引き延ばされ、恩給と恐らくは親の遺産(とその運用)でホームズと下宿代を折半する暮しをしながら、作家になる夢も捨てていない医師として、つまりは開業していることを除けば彼らがその頭から出てきた当時のドイルと似た境遇の青年として登場した。彼は少なくともドイルに匹敵する力量を持つ作家になり、向う側の世界、すなわちドイルが存在せず、ワトスンが同居する探偵と彼自身との冒険物語の作者として知られる世界では歴史小説の(この分野に少なからぬ野心を持つ)書き手でもあったろう。周知の通り彼は『四つの署名』の依頼人として知り合ったメアリ・モースタンと結婚し、この仮住いをいったんは捨てて一家を構えることになる。

 tatarskiyさんが言うように、自身は秘密を持たぬ常識人のワトスン(ホームズより知力の劣る凡庸な人物という誤解を生んだ)は、ホームズとは誰であるかを、読者に代って、読者とともに探求する視点人物であった――ある時点までは。言うまでもなくその時点とは、原題をThe final problemという「最後の事件」の時で、ワトスンの結婚すらやりすごして先送りされ誤魔化されていた問題がついに表面化した時、彼がそれまでホームズと自分の間に存在することさえ気づいていなかった――と言えば嘘になろう、彼がホームズのうちに見ていたもの、彼を惹きつけてやまなかったものはまさしくそれに関連するのだから――問題が最終的な形であらわになる時であった。

 周知の通り「最後の事件」は、〈二人〉が死に向かい、〈一人〉だけが帰ってきた物語である。〈二人〉をホームズとモリアーティと見せかけたのはドイル=ワトスンの小説家としての手腕、語りえぬものをいかに語るかという追求の結果であった。ライヘンバッハの滝壺には彼ら二人が今も横たわるとワトスンは記すが、本当はそこでホームズと一緒に死ぬはずの者は彼だったのであり、ここでワトスンは己の死を幻視しているとも言えよう。十年後、ドイルが「空家の冒険」を発表することで公式には帰還者はホームズとなる。しかし、モリアーティは(作品世界において)本当は存在しないのだから、〈二人〉とはホームズとワトスンであり、帰ってきた〈一人〉はワトスンなのである。

「最後の事件」の隠された物語についてはすでにtatarskiyさんが書いている。http://kaorusz.exblog.jp/19549811/ それに続くエントリも併せて参照されることをおすすめする。「最後の事件」と「空家の冒険」に関しては私たちはすでに、本当にあった出来事の順番や詳しい細部まで突き止めているが、それについては別の機会に譲りたい。

 あらためてお断りしておくが、私たちはこうした読解を「多様な解釈」の一つとして提出しているわけでは全くない。一見似たような試みと私たちの仕事とは何の関係もない。これは対象についての恣意的な空想ではなく、あえて言えばホームズのやっているのと同じ推理によるわけで、いかにありえないことに見えたとしても妥当と思えるならそれが真実なのである。対象を本当に知る気があれば、これらの物語はこれ以外に読みようがないと、そしてその気になればそれは誰にでもはっきり見てとれるものだと私たちは考えている。

 急いで付け加えておくと、これはいわゆる二次創作的なものの否定ではないし、細部をあれこれ想像することを「恣意的な空想」と貶めたいわけでは全くない。評判の映画やTV番組も(私はTVを持ってすらいないので見られないだけで)機会があれば見たいと思う。そうしたものはすべて、特に二次と称する必要もない普通の「創作」だし、ホームズとワトスンの関係をホモエロティックなものとするのは原作がすでにそうなのだし、明示的に描くわけにいかなかったドイルが様々な工夫を凝らしたところでもある。

 私がクズだと思うのは、例えば二人について「同性愛でない」といちいち断わらなければいられない輩であり、「最後の事件」後の行方不明期間にホームズはアイリーン・アドラーと暮していたとか言う世にも下らない空想を書いていると漏れ聞くグールドとかいう男である。はっきり言っておくがホームズ物語はガチである。そういうヘテロ妄想は原作と原作者に対する冒瀆だ。

 アイリーン・アドラーについて言えば、おしなべて顔のはっきりしない女しか出てこない原作の中で、なぜ彼女だけがくっきりと鮮やかな輪郭を持つのか。the womanだから? その通りなのだが、そういう貴方がthe womanの意味を判っているとはとても思えない。女と聞いただけで、ヘテロセクシストどもは男とつがわせることしか頭にないから、ホームズと同棲とか言う馬鹿げた発想が出てくるのだ(というか、それ以外の発想はないのだろう)。原作を観察してみよう、ホームズのように。あんな短い話で、アドラーについての言及はさらに短いのに、どうしてみんな見落すのだろう。

 アドラーに夫がいることをどうしてみんな無視するのか。彼女の夫についてホームズが何と言っていたか思い出してごらんなさい、というのがtatarskiyさんからののヒントである(私は思い出せなかったが、その後電話で話すうち、彼女も気づいていなかった「アドラーの本当の正体」に思い至った)。

 ホームズの失踪と帰還という折り返し点以降の語り手としてのワトスンに話を戻すと、ホームズの「正体」を知った彼には、それまでのように読者の代りとしてホームズを見、事件について率直に語るというポジションは不可能になる。tatarskiyさんが言うように、以降は読者に対する“裏切り者”であるしかなくなった。逆にそれはホームズとの共犯関係が成立したということでもあり、再びベイカー街に戻ってきた(というかむしろ連れ戻された)後のワトスンは、ホームズとその秘密――あるいはむしろ“彼らの”秘密――を守ることに力を注ぐ。

「過去の因縁」「秘密」「恐喝」等のモチーフはここでも重要な役割を果たす。「空家の冒険」はほとんどセルフ・パロディであり、仲間を死なせて一人戻ってきて今は経済的にも安定し、申し分ない紳士として行いすまして暮している(メアリは真実を知ってしまったことだろうが)ワトスンの前に、昔の悪い仲間の亡霊としてのホームズが現れて気絶させる。チベットに行ったとか何とかいうのはハガードの読み過ぎで、女と一緒だったとは作り話としてもお笑い草である。実際にはメアリの容態をマイクロフトから絶えず知らせてもらっていて、ワトスンが独り身に戻ったらすぐさま帰る気でいたのだろう。ヨーロッパを離れたりする訳がない。

 河出版の解説(やっとここへ戻って来た)では、ある時期以降のワトスンの秘密主義、孤立化、親密さ(ホームズとワトスンの、またワトスンと読者の)が失われてゆくことが指摘され、それは正しい観察だが、しかしロブスンとかいうこの解説者は、何とそれを英国の衰退に結びつけて感傷的なお喋りをしている。要するに、芸術が分らないから時代背景とか政治問題を論じて批評と称する者がここにもいたのだ(それならば最初から芸術について語ったりしなければいいのに)。無論彼らに「空家の冒険」のホームズが、ワトスンの秘密の共有者、脅迫者にして性的誘惑者であることなど分る訳がない。

 ワトスンの秘密主義や孤立化、読者との親密さの喪失といったものは、tatarskiyさんの言うワトスンの読者への“裏切り”によって説明される種類のものである。ホームズとワトスンの親密さが減じて見えるとしたら、それは二人の関係の新たな段階を隠そうとした結果に他ならない。

 ドイルの作品はロブスンが考えるような安易に時代を反映する通俗小説ではない。ホームズものの同時代の読者たち、「最後の事件」に怒り、「空家の冒険」に殺到した読者たちの生きる世界はドイルの生きていた世界そのものだったが、作中世界は創造者としてのドイルの息吹によって生を与えられた別世界、この世界と細部に至るまでそっくりでありながら別物の、言ってみればJ・R・R・トールキンなら「アルダ」と呼んだものであったのだ。ホームズとワトスンが“現実に”生きるその世界は、ドイルの明確な意図をはっきり反映したものである。そこではサー・アーサー・コナン・ドイルの名など誰も聞いたことがないが、ナイトの称号を辞退したシャーロック・ホームズは実在し、彼を男のミューズとする作家ワトスンがホームズ物語の作者として知られている。そこで彼らは勝利する。ドイルはサー・ロジャー・ケイスメントを助けられなかったが、彼処ではホームズとワトスンが社会から抹殺されることなく添い遂げるのだ。

 たぶんそこではワトスンは私たちが読んで受ける印象より遙かに有名人で(ドイルがいないのであるから)、存命中は陰口や中傷やもっと深刻な讒言の種であった彼らの関係は、次第に広く、当然のこととして認識されるようになり、今では公然たる男同士のペアとして通用していることだろう。ホームズが隠遁し、ワトスンも二度目の(偽装)結婚相手が死ぬとそこへ行って住んだ家に近い、英仏海峡の白亞の断崖を見下ろす彼らの墓は(ワトスンは探偵小説と限らず大きな影響を受けたポーの「アナベル・リー」の詩句を墓碑銘に選んだかもしれない)ゲイの巡礼地になっているに違いない。ワトスンのブリキの缶の中に残されていた書類や原稿も今では出版され、彼らの画期的な伝記も書かれていよう。グラナダTV版はあったろうが21世紀に入るといよいよ当時は発表不可能だった彼らの本当の話が映像化され、感動を呼んでいるはずだ。ブロマンスとか下らない事を言っていないで現実も早く虚構に追いつくべきだ。

 河出版の注釈にはケイスメントの黒日記のことが載っている、しかも「高名な依頼人」の茶色のノートの発想の元ではないかと書かれていることも、tatarskiyさんからすでに聞いていた。そんなふうに一般に知られているのなら『シャドウ ゲーム』の赤い手帳は絶対そこから引用したね!と思った訳だが、実際に見ると残念ながら結構首をかしげる内容だった。

 ケイスメントのことはこのあたりでも(H・G・ウェルズについてのあとで)http://twilog.org/kaoruSZ/date-121121 書いたが、今ではウェルズにとってのワイルドにも増して、ドイルにとってのケイスメントは重要だったのではと考えている。

 ロジャー・ケイスメントは英国外交官としての功績でナイトに叙せられた後、職を辞してアイルランド独立運動に身を投じ、第一次大戦中の1916年、ドイツと手を組もうとしたとして帰国時に逮捕され、絞首刑になった。その際ドイルは弁護費用の大半を負担して他の文化人とともに彼を擁護したが、「ポルノグラフィックでホモセクシュアルな」Black Diariesのスキャンダルで多くの擁護者は手を引いた。現在では名誉回復されてサーの称号も復活(ホームズの叙爵話と較べ合わせて頂きたい)、遺骨はダブリンへ戻されて国葬後、再埋葬され、彼自身はゲイアイコンにもなっているという。

 このケイスメントの“日記”について、注釈は「高名な依頼人」の登場人物グルーナー男爵が女たちとの情事を綴った「茶色いノート」の「着想の源に」なっているのではないか、「彼にこうした武器の有効性という着想を得させたのはケースメントの一件だったかもしれない」と述べており、それ自体は妥当であろうが、しかし、ケイスメントという人物のドイルにとって意味するところの重大さに較べ、単なる「着想」とはまた随分枝葉末節(のみ)にこだわったものだ。「武器」とはこの場合、世間知らずの令嬢に男爵の色魔(古い言葉だ)ぶりを示して彼との結婚を諦めさせるためのそれで、間違っても男爵を死に至らしめるようなものではない。

 黒い日記へのドイルの反応を記した箇所も全く適切とは思えない。「こうした性的妄想(ケースメントの場合は同性愛)は問題となっている重大事件に比べれば」些事にすぎないと「軽蔑的な指摘をして見せた」とあるのだが、問題とされたのは、性的な記述一般でなく、あくまで男同士のそれである。この注釈はそれが同性愛である事の重大さ(叛逆罪で処刑する程の罪状でないところをスキャンダルと併せて反感を煽れば文字通り葬り去れるほどの重大さ)を軽く見せると同時に、ドイルの軽蔑の対象と、彼にとって何が重大だったかを曖昧にするものだ。
 
 英文サイトにわかりやすい記述があったので紹介しよう。ドイルが日記の中身を見ようとしなかったのを同性愛に対する嫌悪感からのように言う人がいるが、ありえないと思う。

http://soalinux.comune.fi.it/holmes/inglese/ing_casement.htm
“…he[Doyle] controversially repelled the emissaries of the British Government who came touting the pornographic homesexual diaries ascribed to Casement - and,as he (and he alone) said, these could have no bearing on a charge of treason which was graver than anything they might contain. (by Giovanni Cappellini)

(大意; ドイルはケイスメントのポルノグラフィックでホモセクシュアルな日記を押しつけようとした英国政府の使いに対し、反論して彼らを追い返した。彼は(彼だけが)こう言ったのだ――これらの日記と叛逆罪の容疑とは、何の関係もない。日記に何が書いてあろうと叛逆罪の容疑の方が重大だ。)

 注釈はまた、ドイルは「男爵とケースメントを類似性のある人物としては描いていない」と指摘するが、写実的に描く以外の言及の仕方があるとは思わないのか。これもまた何も分かっていない――ケイスメントと同性愛を重要だと注釈者が考えない=考えたくない――からこういうことしか言えないのだ。「高名な依頼人」は現在進行中の別の連続ツイートで扱っているので、この話題はそちらに譲ることにする。※

※「『高名な依頼人』ノート」としてまとめた。http://kaorusz.exblog.jp/21426732/
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by kaoruSZ | 2012-12-20 07:50 | 批評 | Comments(0)