おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

二人の男――作家としてのコナン・ドイルを誰も本気にしてこなかった(上)

「その夜寝台[ねだい]に二人の男あらむに」と聖書は記せり 黒き紅葉  ――塚本邦雄



ワイルド裁判と『モロー博士の島』
『モロー博士の島』出版(一八九五年)から三十年後に、H・G・ウェルズが自らの全集の序文で、この小説はオスカー・ワイルド裁判を念頭に置いて書いたと述べていることはエレイン・ショウォールターの著書『性のアナーキー』で知った。しかし、ショウォールターはその意味を完全に取り違えている。

 ウェルズ曰く――「その頃、スキャンダラスな裁判が、一人の天才のぶざまで哀れな失墜があった。この物語は、人間とは、動物が荒削りにされて形を成しているにすぎず、本能と禁止とが絶えず内部でせめぎあっている存在であることを思い出させるかの裁判への、想像力ある人間からの反応であった。この物語はそのような考えの体現であり、それ以外にはいかなる寓意も持たない。これは、荒削りで、混乱し、苦しむ獣としての人間というコンセプトをできるだけ鮮烈に描き出す、ただそれだけのために書かれた」

 批評家が「ワイルドとウェルズのつながり」を無視してきたとショウォールターは言う。しかし、彼女が主張する「つながり」とは奇妙なものである。『ドリアン・グレイの肖像』の登場人物を引き合いに出し、次のように述べているのだ。

「ヘンリー卿と同じくモロー博士も生体解剖者であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし、彼の場合は動物から人間を創造しようとする」「博士はまた(…)唯美的な科学論にのっとって苦痛や感情に無関心となり、その実験室はユイスマンスの部屋もしくはヘンリー卿のサロンの裏ヴァージョンで、そこで博士は科学のための科学のもたらす絶妙な感覚を楽しんでいる」

 そんな事実は全くない。ヘンリー卿が「解剖者」であるとは心理分析に長けていることの譬えにすぎず、モローは世紀末の唯美主義者になどおよそ似ていない。「女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし」云々に至っては、切り離して何が悪い(というか最初から切れてるだろう)というのを別にしても、読者にフェミニズム的な怒りをかき立てるための捏造である。結局のところショウォールターはフェミニズム的アピールの材料に使うため、ウェルズもワイルドもねじ曲げていると言わざるをえない。

 ショウォールターは『モロー博士の島』で手術台に繋がれている牝のピューマを、当時の「新しい女」と同一視したり、「この[獣人の]女たちは博士の文明化の試みにとくに頑強に抵抗する」と主張したりしている。ペンギン・クラシックス版『モロー博士の島』の解説者は作家のマーガレット・アトウッドだが、彼女もまた、ショウォールター的な主張を踏襲し、女=抵抗者と見なすことを熱望しているので、「ピューマは抵抗する」だの、「モローを殺すのは彼女である」だの、男の犠牲者に甘んじない抵抗の表象として牝の獣を祭り上げたがる。

 だが、こうした偏見なしに読めば、当然のことながら、ここで問題にされているのは現実の女ではない。抵抗する牝のピューマは、男の女性性――男が否認し、女に投影したもの――の表象だ。この小説が(ショウォールター自身言っているように)「大きな意味をはらんだジェンダーのサブテクストを持っている」ことも、「ワイルドとウェルズ」のつながりも、ウェルズがワイルド裁判を念頭に置いてこれを書いたと述べていることも、そう考えてはじめて意味を持ってくるだろう。

 ショウォールターは、「ワイルド裁判を念頭に置いた」というウェルズの文章を読んで、動物を生体解剖して学界から追放されたモロー博士をワイルドだと思い込み、ワイルドの別の小説の登場人物ヘンリー卿の特徴でモローを補強しようとしたのだ。信じられない。それでは全く主題との有機的繫がりが無いではないか。

 ワイルドをモデルにしてウェルズが描いた人物は、モロー博士のすぐ傍にいる。医学生だった十一年前、酒を飲んで、「ある霧深い夜に十分だけ正気を失った」ため、「スキャンダラスな裁判」の主人公と同様、「ぶざまで哀れな失墜」の結果、人間社会から追放され、モロー博士にスカウトされて島に来た、「混乱し、苦しむ獣」モンゴメリーだ。失敗の中身は語られないが、主人公プレンディックはモンゴメリーから身の上話を聞いたあと、「じつをいえば、若い医学生がロンドンから放逐された理由など、あまり知りたいと思わなかった。私にだって想像はつく」と言っている。ウェルズは読者に想像力を期待しているのであり、それはさして難しいとは思われないのだが。

コナン・ドイルとケイスメントの黒い日記
 コナン・ドイルにとって、ウェルズにとってのワイルドに相当するのがロジャー・ケイスメントであろう。日本では ワイルドに較べれば勿論、そうでなくても知名度が格段に違うこの名前は、日本語ウィキぺディアの記事としては最初の概説しか見当たらず、しかも英文ウィキの当該部分の最終節(全体の四分の一を占める)に当たる記述を完全に欠いている。外交官としての功績でナイトの称号を授与されながら、第一次大船中にドイツと通じたとされ、叛逆罪とスパイ容疑で処刑されたこのアイルランド独立運動の活動家は、英文ウィキによれば、逮捕後、ブラック・ダイアリーズと呼ばれる日記にかかわるスキャンダルに見舞われた。彼の日記には、若い男性を好むpromiscuous homosexualとしての行動が記されており、このことは彼の支援者に手を引かせる効果があったのだ。彼を擁護した者の中には、W・B・イェイツやジョージ・バーナード・ショーといった錚々たる名前が見られるが、コナン・ドイルの名はその筆頭に挙げられる。ドイルは以前からケイスメントと交流があり、彼の大きな功績である、ベルギーのレオポルド二世の支配するコンゴ自由国での原住民への残虐行為の告発を基に、大部のパンフレットを書いている。

 tatarskiyさんと電話で話すうち意見が一致したのだが、映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』に出てくるモリアーティの「赤い手帳」とは、要するにケイスメントの「黒い日記」だろう――「彼自身の犯罪とそれによって得た隠し資産の在り処」の記録ではなく。いや、確かに犯罪ではあっても別の「犯罪」であり、モリアーティはロバート・ダウニー・Jrのホームズにモランとの愛の日記を盗み読まれた上、ロンドン警視庁へ通報されたのではないか。

 すでにtatarskiyさんが論じているが、あの映画の(実は原作でもだが)モリアーティの犯罪は多分にホームズの妄想くさく、彼とモランをつけまわしたホームズが実際に目撃しているものといえば彼ら二人の親密さだけであり、モリアーティが鳩に餌をやりながら手帳を開いているのを見ただけで、それが犯罪と隠し資産の記録だと“気づいて”しまう始末だが、それでも当時の法に従えば、ホームズは単なるリア充カップルを(ケイスメントのように)破滅させられるだけの証拠を、確かに集めていた訳だ(手帳の中身を知ったレストレードはさぞ驚いたことだろう)。

『モロー博士の島』が科学技術をめぐる寓話ではなく、プレンディックとモンゴメリーという男二人の同性愛的な関係をめぐる話であることを私に指摘したのは、去年この小説をはじめて読んだtatarskiyさんだった。その後私(たち)はそれを実証する記述をテクストの中に次々見出すことになった。上に述べたのはそのほんのとば口である。『モロー博士の島』はここではとても書ききれない隠喩で満ちみちているが、「血の味」を知ることが同性愛の隠喩になっていること、実のところプレンディックが、発端から、言葉では拒否しながらたびたびそれを味わっていること、さらに、獣人と人間の連続性(進化論が可能にした認識)が、“同性愛者”という特殊な人間が存在するという“種族化”の不可能性の喩であることだけは指摘しておこう。
tatarskiyさんのホームズ物語読解(『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』分析の副産物)の一部はすでに公開したので(http://kaorusz.exblog.jp/19549811)、ウェルズの小説の二人の男が、ドイルの場合はワトスンとホームズに相当すると言ったとしても、心ある人には受け容れられよう。


夢想の部屋
「最後の事件」を久方ぶりに読み返して驚くのは、ワトスンがこんなに“信頼できない語り手”だったかということだ。勿論、一番目立つのはホームズの追跡妄想だが、モリアーティについての情報がホームズの口から出るものに限られるのと同様に、読者の知りうることはワトスンの語りに限られている。実は、犯罪王モリアーティさえ、ホームズから聞かされたという体裁を取った“作家”ワトスンの創作と考えるべきであろう。そう、私たちはホームズの助手だの伝記作者だのという慎ましい肩書、文筆には素人である医者の片手間仕事という見せかけに騙されて、ワトスンを見くびってきたのではないか。

 それはまた、同様の経歴を持つコナン・ドイルが“作家として”まともに扱われてこなかったということでもある。彼は志と異なるものが偶然売れてしまい、自分の書いたものの価値が理解できなかった作家ではない。たとえ小説が書けたとしても短歌よりもなお悪かったであろう新聞記者あがりの歌人とは違うのだ。

 ホームズとワトスンの登場する話は、多くの(正確には五十六の)短篇と四つの長篇として散らばっているが、実際にはひとつらなりの、ワトスンが下宿をシェアすることになった驚くべき人物に関心を寄せ、相手を知ろうとするのにはじまる長い関係とその終り(どのような?)が書かれているのであり、結局ドイルも彼らと人生をともに歩むことになった。始まりでは二人とも二十代の終りくらいだが、ワトスンは従軍と戦傷のせいで引き延ばされたモラトリアム状態にあり、彼らはコンラッドのThe Secret Sharerのように住まい(と秘密)を分かち合うことになる。

 ホームズとワトスンに比べればあまりにも短い時を共有する、コンラッドの船長と海から来たその分身については以前書いたことがあるhttp://indexofnames.web.fc2.com/etc/conrad_men3.htm が、そこで私はロラン・バルトがジュール・ヴェルヌの『海底二万里』について、閉ざされた「室内」に引きこもり自分だけの夢想に浸る喜びこそが幼年期とヴェルヌに共通する本質であると論じている文章を引き合いに出した。最近、創元推理文庫版の『シャーロック・ホームズの復活』を読んでいてその「解説」に、『シャーロック・ホームズの記号論』という本に収められたシービオクとマーゴリスによる「ネモ船長の船窓」が、ノーチラス号とベイカー街の下宿との共通性を説いていることが紹介されているのに出会ったが、彼らは無論バルトを参照している。この「共通性」は、彼らを引用している解説者が思っている以上のひろがりを持つものだ。
ワトスンをこの閉ざされた夢想の部屋(そのあまたの“冒険”にかかわらずホームズはずっとそこにとどまっている)からともかくも一度は出て行かせることになったきっかけは、言うまでもなく『四つの署名』で知り合ったメアリ・モースタンとの結婚である。そしてその結果が「最後の事件」に他ならない。

「最後の事件」とは何か
「最後の事件」は、それが発表された現実世界のドキュメントに見せかけたプロローグとエピローグ、そしてその間に挟まれた“妄想”から成る。最後のものは、一見、妄想に取り憑かれたホームズを、それに気づかぬ鈍い語り手のワトスンがリアリズム的に描いているかのようだが、それがワトスンの詐術である(いや、詐術などと言わずとも普通に「小説」と呼んでいいのだが)。彼らの同時代人だったフロイトが示したように、妄想と夢と小説は同じ品柄でできており、同じ論理に従う。それが或る時は現実の写しと見せかけていたり、ホームズの言動のようにあからさまに妄想的だったり、ワトスンの語りのようにニュートラルな叙述と見せて実は“夢”だったりという違いがあるだけだ。
 例の『シャドウ ゲーム』は、ほぼ全篇ホームズの夢と言ってよさそうだが、「最後の事件」は、本当に起こったことを明かすわけにいかないワトスンが代りにペンを持って紙上で見た、とりつくろわれ、再構成された夢なのだ。

 モリアーティが実在しないのはまず間違いない。ドイルも、はっきりそれを読者に示すつもりで書いていると思われる。ホームズは言う――「僕は幽霊など信じはしないが、いまがいま考えにふけっていた当の本人が、とつぜん目のまえに現われたのには、思わずドキンとなった」。幽霊ではないにしても、ドッペルゲンガーだろうそれは。
 すでに別にツイートしたがhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121104 ホームズによって描写されるモリアーティの外見自体、彼自身のものとして私たちが知っているものにそっくりなのだし、そもそもそうやって話しているホームズの、深夜のワトスンの診察室への出現そのものが、語られているモリアーティのホームズ訪問の反復である。さらに、モリアーティの部下に襲撃されたとホームズが主張する出来事は、どれも単なる偶然が、ホームズの妄想に取り込まれたとしか思えない。モリアーティの姿を見たと彼が言っている箇所も同様だ。

 ここまで明らかなことをワトスンはなぜ指摘しないのか。なぜホームズに、それは君の妄想だろうと一言云ってやらずに口をつぐんでいるのか。理由は簡単だ。その妄想を作り出しているのは実はホームズではなくてワトスン自身、作中人物ではなくてそれを書いている作家としてのワトスンだからである。(続く→http://kaorusz.exblog.jp/19707256/
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by kaoruSZ | 2012-12-22 07:47 | 批評 | Comments(0)