おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

二人の男――作家としてのコナン・ドイルを誰も本気にしてこなかった(下)

(承前)http://kaorusz.exblog.jp/19707251/
「空家の冒険」でのホームズとの再会の場面だって怪しいことばかりだ。周知の通り、目の前にホームズがいるのを見たワトスンは気を失ってしまい、本人はそれが最初で最後の経験だと言っている。だが、ワトスンにとってはそうでも、ホームズ物語の中には真っ当な紳士や淑女として通っている人物が、死んだと思っていた過去からの訪問者を目のあたりにして死ぬほど驚くという話がいくらでもあるではないか。「グロリア・スコット号」のトリヴァ老人など、ホームズにある人物と「たいへん親密な関係がおありでしたが、その後はその人のことを忘れてしまいたいと努めていらつしやいます」と言われただけで失神している。
 それまで他人事[ひとごと]として反復されてきたことが今度は他ならぬワトスンの身に起り、そして実はこちらの方が本質的なのだ。トリックの目新しさが命であるかのように書き継がれたホームズものの真の主題は『モロー博士の島』の場合と同様、二人の男の関係(その可能性の探求)であるのだから。

 周知の通り『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』に“二人の男”はおらず、“独りの男”がいただけであった。ジキルの友人だったはずの孤立した独身者たちはスキャンダルに対してどこまでも無力であり、ある者はジキルに先んじて自滅し、ある者はジキルの跡を継ぐよう定められた。ハイドの悪の正体は作者の友人たちにとって公然の秘密であり、その運命は身につまされるものであっても、表立っての抵抗など考えられないものであった。『ドリアン・グレイの肖像』の場合も主題が同性愛であることは明白で、作者の悪徳も知られていたが、ドリアンは男たちを破滅させはしてもポーに倣った結末に明らかなように、彼には分身しかおらず“二人”ではなかった。ヘンリー卿も実のところ彼の理解者からは遠かったのである。そして『ジキル博士とハイド氏』でハイドがそこから通りに出てくるドアのある家が登場人物によって「ゆすりの家」と呼ばれるほど、同性愛をゆすりと切っても切れないものにした法律が、やがて現実の作家を破滅に追いやることになる。彼とボジーの関係などは藝術の見劣りのする影に過ぎまい。

 ドイルがものを書きはじめた頃、彼は当然そのような分身譚、幻想小説、そして同性愛が置かれた状況を意識していたはずだ。ホームズを彼はいつから“そのような人”として考えるようになったのか? 最初からである。そうでなければ、あのように明らかな伏線を随所に張りめぐらしはしなかっただろう。

 あるいはそれは無意識のうちにだったかもしれない。ワトスンがホームズを徐々に知っていったように、ドイル自身によってもそれは書きながら、書いたもののうちに、書こうとするものの中に次第に形作られ、彼自身によっても発見されていったのかもしれない。いずれにせよ彼は前人未踏の領域に到ったのであり、いかなる作家にも似ていない達成を成し遂げることになった。それは単純なバディもの(ホモフォビックな解説者が今日なおこれは同性愛ではないと口を挟み続けるような)でもなければ、たとえばヘッセの『デミアン』のような、分身としての友人が主人公の成長とともに消え去る思春期のイニシエーションとも勿論違う。そうした未熟な若者の話なら、無論世間には受け入れられやすかったはずだ。

A charming week and a lovely trip
 ドイルがホームズを殺そうとして「最後の事件」を書いたとか、読者の非難や要求のために「空家の冒険」で再びホームズを登場させたとかという話は、たんに世間に流通し好んで語られるという以上の意味を持たないだろう。「最後の事件」は恐しく奇妙な話なので、ストランド・マガジンで当時これを読んだ人たちが小説家を非難して、再開しろと哀願や脅迫をしたと言われても俄かには信じ難いくらいだ。こんな出鱈目な話を読ませるなと言ったのならまだわかるが。なぜなら、「最後の事件」は、すでに述べたように本当にあったことを隠すためのスクリーンとして再構成された夢であり、実は「空家の冒険」もそうであるからだ。

 前者は先述した「閉ざされた夢想の部屋」からワトスンが結婚によって出て行ったあと、残されたホームズが深夜別れを告げに来て、そのまま二人で大陸へ向かった道行の顛末、すなわちホームズは行方不明になりワトスン一人が帰ってきたという話を、そして後者はつつがなく「大人」になって一家を構えていたワトスンの前に三年前死んだはずのホームズが現われて、元のベイカー街の部屋へ引きずり込み、再び、いや今度は本当の、「秘密の共有者」になるまでが書かれているのであり、モリアーティには(モランにも)何の関係もない。

 こうしたことを何も考えなかったとしても、たかがモリアーティが逮捕されるまで英国を離れているというだけの理由で、どうして「財産はロンドンを発つ前にすつかり始末して兄のマイクロフトにわたしてきた」などということになるのか、リアルタイムの読者は不思議に思わなかったのだろうか。

「最後の事件」における、実在の“モリアーティ”(無論作品内世界で)に関する記述とワトスンの書いたフィクションとの繫ぎ目は「『最後の事件』ノート」http://kaorusz.exblog.jp/19549811/でtatarskiyさんが綺麗に腑分けしてみせている通りで、モリアーティの影を一掃してみれば実際に何が起ったかは見やすくなるが、それも彼女がもう書いている。

 それにしても危険が迫っていると言ってホームズが自分を帰そうとするのをワトスンが拒んだあと、「一週間、私たちはローヌ河の渓谷を歩きまわつて喜んだ」とか「足下はもう春の美しい緑、頭上はまだ冬の処女雪――それは楽しい旅路だつた」というお花畑状態、何も知らずに読んでもどこか変だと誰も思わなかったのだろうか。「喜んだ」とか「楽しい旅路」とか英語では何なのだろうと思い今回はじめて原文を読んでみたが、 “For a charming week we wandered up the Valley of the Rhone, ” “It was a lovely trip, the dainty green of the spring below, the virgin white of the winter above;”と、もう完全に道行き文だった。「草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る」(近松門左衛門)

 いよいよライヘンバッハの滝へ行くと周知の通り「土地の若ものが」「肺病の末期にあるイギリス婦人」が喀血して同国人の医師の診察を求めていると宿の亭主からの「手紙をもってとんでくる」。言うまでもなく偽手紙だが、モリアーティは最初からいないのだから、この場面全体が実は作り事である。
と言ってもそこに意味が込められているのは勿論だ。まず使いの若者だが、「スイス人の若ものはついに発見されなかつた。その筈であろう、彼はモリアティの多くの配下の一人だつだのだもの」とあり、これは「(存在しない)モリアティの配下なのだから発見されるわけがない」と読みかえられるべきものだし、ワトスンが患者を診に行くあいだ「使いにきた若ものを、案内者兼帯の話し相手としてのこしておくことに話がきまつた」と書いてあるのに、ホームズの手記の中にモリアーティが現われた時彼がどうしたかが書かれていないのが不自然である。むしろ若者はワトスンを先導して宿に戻ったと(気がつくと姿が見えなかったとでも)した方が自然で、これはドイルが話はこびの不自然さを気づかせようとわざとこのようにしておいたのだと思われる。それでも、「モリアティの配下だから」見つからなかったと言われただけで、大多数の読者は納得してしまうのだろう。

 次に肺病のイギリス婦人、この人も存在しない訳だけれど、「空家の冒険」でホームズが帰ってくるまでにメアリが死んでおり(実際は彼女が死んだから彼が帰ってきた訳だが)、その死因が結核だと[作品外で]言われていたり、ドイルが最初の妻を結核で亡くしたことまでも知ってしまうと、この幻のイギリス婦人はメアリの幻としか思えなくなる。
 滝の前でホームズと別れて宿のイギリス婦人のところへ向かったワトスンとは、実はホームズと滝に飛び込んで死ぬのを思いとどまって踵を返し、メアリの下へ帰って行ったワトスンなのだ。しかし結局メアリは失われてしまう――幻のイギリス婦人のエピソードとは、ワトスンのそういう幻想が、あのような形で定着されたものだろう。

 ワトスンはホームズ失踪から二年目に「最後の事件」を書いており、ホームズの帰還は翌年だとすると、執筆時にメアリはすでに作り話の中の「イギリス婦人」のように病篤かったと考えられる。しかも帰ってきたもののワトスンは脱け殻状態で、何があったかメアリに悟らせてしまったろうし、要するにホームズと自分で結果的に彼女の死期を早めたも同然とワトスンは思っていたに違いない(『シャドウ ゲーム』でホームズとワトスンの代役であるモリアーティとモランにメアリの代役のアドラーを“結核で殺させた”脚本家は、よく原作を読み込んでいると言えよう)。

 ワトスンがこの時「麓のあたりまで降つてから見かえ」るともう滝は見えず、「山のいただきあたりに滝へゆく道がうねうねとうねつているのだけが見える」。その道を「ひどく急いでゆく男があつた。その姿は緑のバックのなかに黒くはっきりと見えたのを思いだす」。黒くはっきりと見える幻。無論モリアーティだが、あとで思えばあれがモリアーティだったのだ、などとはさすがにワトスンは言わない。“his black figure clearly outlined against the green behind him”とまるで切り抜いて緑の背景の上に置いたような「影」。実はこれがワトスンが間違いなくまさ目にみた唯一のモリアーティ(しかも、ホームズにあれがそうだと言われてそっちを見た時と違いこの時はそれと知らずに)なのだが、いったいこれは何か? 影は「坂道をとぶように登つてゆく」が「まもなくそのことは忘れて、病人のことばかり考えながら道を急いだ」。

 ホームズと別れてメアリ(と彼女に象徴される英国での真っ当な生活)の下へ向かうワトスンがそれと知らずに見たのは、自分の代りにホームズと滝へ飛び込むべく急ぐ彼自身の「影」だったのであり、彼が「そのことを忘れて」イギリス婦人の下へ急ぐのはけだし当然であろう。そしてイギリス婦人は幻でワトスンには救いようがないとは、もはやメアリの下へ帰っても手遅れであることの暗示でもある。

 医者が間に合わなくて実際に死ぬ結核の女性は、ホームズ生還後の『スリークォーターの失踪』に再び現われる。ポーの小説さながらの死美人は「ベッドに横たわっているひとりの女性――若く、美しい。穏やかだが、血の気のない顔、うつろに大きく見ひらかれた青い目――豊かに渦巻く金色の髪のなかから、その顔が凝然と天井を見ている」と描写され、傍で悲嘆にくれる夫がホームズとワトスンを医者と思って告げる――もう遅い。彼女は死にました。

 最近、これもtatarskiyさんから指摘されたのだが、この美女は蝋人形である――「空家の冒険」のホームズの蝋人形が存在せず、モラン大佐(実は彼自身もホームズの狙撃者としては存在せず、よそから借りてこられたのである)や読者の目を惹きつける囮であったように、彼女も異性愛のラヴ・ストーリーという表向きのプロットのために借りてきて据えつけられた作り物なのだ。スリークォーターはなぜ失踪したのか、本当の愛は誰と誰の間にあるものなのか、これは短篇で登場人物も少ないので、ぜひ御自分で確かめて頂きたい。

コナン・ドイルとは何者か
 帰還後の彼らの夢想の部屋は荒波にさらされる。彼らは本当のカップルになり、自分たちを否定する社会に対抗することになるのだ。ホームズが女嫌いだとはワトスン自身がそう書いてもいて、いくらでもそれを繰り返す人がいるのも事実だが、本当の「女嫌い」の推理小説とはレイモンド・チャンドラーのそれのようなものだろう。チャンドラーのことは以前ブログでもちょっと書いたことがあるが、特に彼と較べた場合、ドイルの特徴は際立つ。ホームズがホモソーシャリティから切れているのは、マジョリティの男たちのネットワークから否応なしにはみ出てしまう存在だからだ。一方、一匹狼を自認するハードボイルドの探偵とは、女を憎みながら女と性交する男であり、同じスタンスの無数の男たちが彼を支えている。

 もしワトスンがいなければ、ホームズは他の“犯罪者”たちと、そして/あるいはジキル-ハイドやドリアン・グレイやオスカー・ワイルドと同様の、さらにはロジャー・ケイスメントのような最期を遂げていたかもしれない。孤立無援の彼の唯一の砦にワトスンはなったのだ。植民地の人権問題に尽力し、アイルランドのために働いたロジャー・ケイスメントは、性的な秘密の暴露という理不尽なやり方によって殺された。ホームズの「帰還」以降、つまり彼らがカップルになって以降のワトスンが秘密主義になり、ホームズが事件の記録の発表を嫌うようになり、彼らがマイクロフトを通じて政治や謀略の領域により深く踏み込んでゆくようになったのもけだし当然と言えよう。変わり者の探偵とアマチュアの友人がベイカー街の部屋を訪れる市井の人の奇妙な訴えに耳かたむける「冒険」の世界は去り、秘密を握られ身を危うくする前に進んで他人の秘密を握ることこそ、自分たちを守るものであることを彼らは知ったのだ。

 ワイルド裁判の衝撃の下に明確にテーマを設定して書いたウェルズと違い、ドイルは少なくともはじまりにおいては、意識的に彼らの関係をメインの主題と意識していた訳ではないだろう。ホームズものの最初の二つの長篇は、伝奇小説であったり、臆面もないラヴ・ロマンスであったりという面を持つ。また、探偵小説の始祖としてのみならず幻想小説家としてのポーの衣鉢をも彼は受け継いでおり、それは「最後の事件」のウィリアム・ウィルスンを髣髴とさせる分身の描写一つ取っても明らかだ。しかし、ポーのデュパンと無名の語り手をモデルにホームズとワトスンを創造したドイルは、自らの小説の真のオリジナリティ――形式をまねた追随者のついに及ぶものではない探偵と親友の関係の魅力――の本質に向かって、ゆっくりと成熟して行ったのだ。

 ここでは私たちの見出した証拠のいちいちを述べることはしないが、少なくとも短篇第一作では、ホームズをクィアーとして描くことにドイルは腹を決めていたと思われる。そして彼は運命的にケイスメントに出会った。彼と、彼をあのような形で失ったことは、ホームズの話に人に知られることのない、しかし決定的な痕を残すことになった。周知のようにポーは「幻想小説」や「探偵小説」の祖として見なされてもその藝術性は担保されているが、ドイルは平気でたんなる凡百のミステリ作家の祖として片づけられてしまう。しかし、トールキンがファンタジー文学の祖であるなどということが全くないように、ドイルもまたその唯一無二の達成をヘテロセクシズムとホモフォビアのせいで今日まで認められることのない作家なのだ。
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-22 08:44 | 批評 | Comments(0)