おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(17)”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア

1月30日~https://twitter.com/black_tatarskiyに掲載(終了)

関連エントリ
tatarskiyの部屋(24)「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」補遺http://kaorusz.exblog.jp/21704329

本エントリへの言いがかりに対する反論は以下に。
http://kaorusz.exblog.jp/19972406/
http://kaorusz.exblog.jp/19973107/
http://kaorusz.exblog.jp/20073529/



RT @kaoruSZ 夜中にtatarskiyさんに電話するとBBCのSherlock(第一話と第三話)見たらホモフォビアとミソジニーてんこ盛りでひどいダメージだと言う。
同性愛者を差別しないという表面的なポーズとセットの“ただしこの二人は違う”アピール、男ゲイを気持悪く描きエクスキューズとしてレズビアンを出す、女と同性愛者を踏み台にして強調される男の友情、ホモっぽく見せてくれさえすればどんな文脈でも萌えと言っていられて“公式様”を批判する発想のない卑屈な腐女子に耐え難いストレスというので、ツイートすることを勧める。
私はTVないからそもそも見ていないが、同じように感じてる人もいるのでは?


@tatarskiy1↑上のRTで相方が書いてくれたが、NHKで放映されているBBCの #シャーロック を見たらホモフォビアとミソジニーてんこ盛りの“ホモなんかじゃない健全な友情”万歳っぷりがまことにひどかった件について。正直こんなことを私個人の責任で書かなければならないのはあまりにも気が重いのだが。

何からお話すればいいのやら頭が痛いのだが、まず基本的な事実として、第一話においてウンザリするほど顕著だったが、このドラマの中でのホームズとワトスンの関係が「ゲイだという誤解に基づいて周囲から気遣いを受けカップル扱いされる」という描写の頻出そのものが、二人の親密さが本当にセクシュアルなものでありうること、またはそうした関係へと発展しうることをあらかじめ否定するためのものでしかないのだ。

あの第一話での周囲からのカップル扱いの頻出とワトスンからホームズへの「彼女いないの? じゃあ彼氏は?」という質問も、それに応えたホームズの側の「君の好意はありがたいしこちらも好意は持っているが“そういう意味”ではない」という含意の婉曲な台詞回しも、「それはこちらも同じだ」という意味のワトスンの応答も、彼らの間に存在する好意に“ゲイ”と分類されるような種類の感情が入り込む余地を慎重に排除し、かつ「彼らは絶対に違いますが、マイノリティであるゲイを差別する意図はありません」というポリティカリー・コレクトなエクスキューズをアピールするためのものだ。

それと非常にいやらしかったのが、ワトスンの家庭の事情に関するホームズの推理力を示す文脈で、ワトスンの姉がレズビアンであり、アルコール中毒でパートナーと別居したらしいこと、ワトスンは姉とパートナーの関係については理解があるらしいことが示唆されていたが、これも実は巧妙にポリティカリー・コレクトな“同性愛への理解”にみせかけたホモフォビアの表れだ。

なぜ原作では兄であったものを姉に変える必要があるのか? なぜ「兄がゲイ」ではいけなかったのか? 答えは簡単。「同性愛者を差別しない」という言辞で男同士のそれと女同士のそれを一括りにし、「差別しない例」として女同士のそれだけを取り上げるのは、“男同士の関係”を忌避しているからだ。

ホモフォビアとはその本質としてホモソーシャリティ≒“男の友情”のネガであり、つまりその絶対的な原義として「男同士の性的関係の忌避」である。それは権力者たる男が男であるために必要なタブーなのであり、そうした男同士が親密な関係を持つ上で絶対に厳守されねばならない掟なのである。

彼らはそのタブーが厳守されていることを確認してこそ始めて安心して“男同士の関係”の魅力を認めることができるのだ。あのドラマの製作者たちは、そのホモソーシャルのコードの厳守を示しつつ、その誤魔化しとしてレズビアンを“尊重”してみせた訳だ。(こうした扱い自体が女への搾取だと思うが)

女や女同士がいくら性的であろうと、ノンケの男にとっては痛くも痒くもあるまい。むしろポルノ的な文脈でもって喜びさえするだろう。どうもアイリーン・アドラーはそうした扱いであるらしいが。いかにもヘテロセクシストの考えそうなことである。

そして生身の同性愛者の男は存在しないことにされるか否定的にしか扱われず、当然レギュラーメンバーにも入れられていない。有色人種ならいかにもおためごかし的にヤードのチームに入れられていたり、冤罪をかけられて殺害された不幸な犠牲者として原作から人種を変更して加えられているが。

こうしたホームズとワトスンの関係性の描き方へのホモフォビックな抑圧は、実はそのまま原作における二人のそれぞれのキャラクター性をまったく把握できていないことに繋がっていると同時に、ドラマの中での二人の関係性を女と同性愛者を踏み台にしなければ肯定できない原因にもなっている。

その象徴的な例として、まずは二人の出会いのシーンを比較してみよう。不愉快な方から先に挙げるが、ドラマでは死体の置かれた病院の研究室にホームズと検視官のモリーの二人がいるところから始まる。ホームズに気があるらしいモリーは彼の気を惹きたくて化粧しているが、ホームズはそれをそ知らぬ顔で小馬鹿にし、モリーは傷ついた表情で口紅を拭う。

そこにワトスンが紹介者であるスタンフォードに連れられて現われ、すぐに彼が自分が募集していたルームメイト候補であることに気づいたホームズは、いきなり彼が派遣されていた戦場がアフガンとイラクのどちらかと訊ねて驚かせた後、ベイカー街の部屋を見せるために彼を連れ出す。

ここまでが二人の出会う最初の場面で、この後大家のハドスン夫人にカップルと誤解されながら部屋を見ている間に成り行きでホームズの仕事について行くのだが、総じて他人に対して人当たりが悪く気遣いも窺えない「高機能社会不適合者」と自称していたようなホームズが、なぜワトスンに対してだけ初めから比較的好意的であり、仕事に連れ出して信頼を寄せるようになったのか、ドラマの展開の中では説得力ある理由はろくに示されていないのだ。

はっきり言えば、彼らの親密さを担保しているものは、まず第一には彼らに「ホームズとワトスン」という名前がつけられているという単純な事実それ自体であり、もう一つは彼らの出会いに先立って、ホームズから(彼の登場とほぼ同時に)露骨に冷淡に扱われる哀れな女=モリーの存在である。

つまり、ホームズに色目を使いしかもまるで報われず冷たくあしらわれる哀れな女という、明白なマイナスの存在を踏み台にすることで、“彼女よりは遥かにまともな扱いをされる”という対比の形でホームズとワトスンの関係性を初対面から相対的にプラスに演出したというわけだ。

これだけでも露骨な女嫌い(蔑視)そのもののやり口であるが、先に述べたようにこのシーンの後にはさらに二人が「ゲイなんかじゃない」とアピールする描写が続くのだから「ホモソーシャリティとは女と男性同性愛の排除によって成り立つ」という教科書通りの図式を見事になぞっているという他にない。

しかもこのやり口は第三話において、今度は完全にホモフォビアとミソジニーが一体になったより悪質な形で反復されるのだ。研究室で作業中のホームズのところへモリーが新しい交際相手であるらしい男を連れて現れ、ホームズとワトスンの前で彼に向かってしなをつくって得意気にしてみせるのだが、ホームズはその男が自分に向かって挨拶してみせた直後に、冷然と「ゲイ」と一言吐き捨てるように言う。男は即座にその場から立ち去り、ホームズは動揺するモリーとなぜ彼女の交際相手にそんなことを言うんだと咎めるワトスンに対して、「眉を綺麗に細くして整髪料をつけ、いかにもなブランドの下着を見せていた」と言い、ワトスンは「整髪料くらい僕も使う」と反論するが、ホームズは「君の使い方とは違う」と言い、とどめに「自分に電話番号を書いたメモを渡していった」と男の置いていった紙片を示してみせる。

この場面における一連のやりとりそのものが、ホームズに相手にされなかったモリーの新しい交際相手を見せびらかすという彼へのあてつけが、彼女にとって最悪の形で裏目に出るという、露骨にミソジナスな“愚かな女”への嘲笑と、“ゲイ”とは“ノーマルな男”にはない特徴を持つ“特殊な人種”であり、それは「女のように身だしなみに気を使い、男のくせに男に色目を使う」という「男にあるまじき振る舞い」を意味するという「同性愛の人種化」であり、そして何よりも、それに対してホームズとワトスンが「そんな奴らとは違うノーマルな男」であることを強調する「差別としての差異化」を目的としたものであるのは明らかだ。しかもこの場面は第三話を丸々費やしたホモフォビアの発露の序章なのだから胸が悪くなる。

この後、彼らはモリアーティから制限時間内に犯罪の謎解きを次々とこなすというゲームを仕掛けられ、それと平行してマイクロフトから依頼された軍事機密のデータ盗難に絡んだ殺人事件の捜査の進展が描かれるのだが、これは当然原作の「ブルース=パーティントン設計書」が下敷きにされている。あのエピソードの犯人であるヴァレンタイン・ウォルター大佐は実はわかる人にはわかる形で同性愛者として設定されており、それはこのドラマでも変形させた形で踏襲していたのだが、その意味づけと描き方は原作への冒瀆としか言いようのないほどホモフォビックで醜悪なものだった。

先にドラマでのエピソードの概要を説明すると、原作での犯人ウォルター大佐とその兄でブルース=パーティントン計画の主任だったサー・ジェームズ・ウォルターは、ドラマでは本筋の事件の登場人物ではなくモリアーティからの課題として挿入されている小エピソードの登場人物に置き換えられている。サー・ジェームズの方はテレビの美容変身バラエティー番組の人気司会者の女性に、ウォルター大佐の方は彼女の番組でいじられ役を兼ねたアシスタントをしていたその弟に設定されている。彼は明示的にゲイであり、自分の愛人だった姉付きの美容師と共謀して姉を殺害したという話になっている。

そしてここからがあまりにも見ていて胸糞の悪かったシーンの説明になるのだが、先述した被害者の女性の弟に疑いを抱いたホームズとワトスンは、姉の死についての遺族インタビューを装い記者として彼の自宅を訪れ探りを入れる。

彼は中年の男性にも関わらず、紫のシャツを着て身だしなみを気にし、ペットの猫を可愛がるという、「見るからに女性的で薄気味悪い男」として描かれる。彼から話を聞いた後、カメラマンを装ったホームズが写真撮影を願い出ると、彼は鏡を覗き込んで顔と身だしなみをチェックするが、ホームズはこちらを振り向いた彼に断りも無く、いきなり至近距離からフラッシュを浴びせて連続撮影をする。画面には彼の眩しさのあまり目をかたく瞑った歪められた顔が、何枚も連続で大写しになる。そしてこの撮影が終わると、ホームズとワトスンはもうインタビューは済んだと言い、戸惑うばかりの弟を置き去りに退出する。

正直、解説するのも苦痛であるが、この一連の場面は露悪的なまでのホモフォビアとミソジニーに彩られたものだ。視聴者に違和感と薄気味悪さを感じさせるように故意に演出された、ステレオタイプそのもののゲイ男性、彼の「男にあるまじき」ナルシシズムを象徴する、紫のシャツやペットの猫、そして何よりも、そうした彼自身の姿そのものである、彼が覗き込んだ鏡、そしてその直後のホームズにフラッシュを浴びせられ、一瞬前まで鏡に向かって取り澄ましていた同じ顔が歪められた表情で大写しにされるのは、説明の必要もないほどに露骨な、「男にあるまじき、女のようなナルシシズム」を持った男への懲罰である。

このあからさまな演出自体、このエピソードにおける弟の真の罪とされ罰せられているものが、姉の殺害などではなく、彼の「男らしさからの逸脱」そのものであるのは明白だろう。そして彼の愛人が表向きの罪である姉殺害の共犯者とされていることも、「彼らの関係が罪である」という裏の意味を含んでいる。

つまり、この小エピソードは、流石に最近ではあからさまに差別することは許されないゲイ男性に対する、製作者であるヘテロ男性の密やかな“憂さ晴らし”と、彼らの製作するドラマの主人公であるホームズとワトスンを、そうした“変態たち”とはっきりと文字通り“差別化”するためのものなのだ。

原作者のドイルも紛れもなくその一人である、ホモエロティシズムに心惹かれていた過去の優れた作家たちは、まさにこのドラマの製作者たちにとっては嫌悪と蔑視の対象でしかないらしい“明示することを許されない愛”を描くためにこそ技巧を尽くしていたのだが。「隠して愛する」ために技巧を尽くすのではなく「隠して差別する」ためにそれをすることこそが最新のトレンドというわけであろうか。

そしてこの第三話とシーズン1そのもののクライマックスである、夜のプールサイドでのホームズとモリアーティの直接対決の場面。モリアーティは前もってワトスンを人質に取り、ジャケットに爆弾を括りつけられた彼の姿をホームズに見せつけてからおもむろに姿を現すが、それは前にモリーの新しい交際相手として紹介され、ホームズにゲイだと看破されて退散したはずの男である。モリアーティはホームズを試すためにあえてゲイのふりをして彼の前に姿を見せたのだと言い、以前から彼に興味を持っていたことを彼の能力への賞賛と揶揄を交えながら語ってみせる。

ホームズはモリアーティに要求されたブルース=パーティントン計画のデータが入ったメモリースティックを引き渡すが、モリアーティは「こんなものはいつでも盗めた」と吐き捨てると、メモリースティックをプールに投げ捨てる。ワトスンはその動作の隙をついて背後からモリアーティを羽交い絞めにし、ホームズはモリアーティに銃を向けるが、モリアーティはまるで動じないままワトスンのことを「忠実なペットだが情が移るのはまずい」と揶揄してみせ、同時にどこからか警告するように赤い光線がホームズの額にマーキングするように当てられる。

下手に動けばホームズが狙撃されると悟ったワトスンはモリアーティから離れ、二人にはもはや打つ手がなくなるが、モリアーティはホームズに「自分から手を引かないとどうなるかわかっただろう。今君を殺してもつまらないからそれはこの先の特別な機会にとっておく」と言い残してその場から立ち去る。

モリアーティが姿を消すとホームズは即座にワトスンに駆け寄り、爆弾を括りつけられた彼のジャケットを脱がせて投げ捨てる。ホームズは「さっき、君が僕のためにしてくれようとしたこと、凄い」と、珍しく感謝を言葉にし、それを聞いたワトスンは「誰もいなくてよかった。君に暗いプールで服を脱がされたのを見られたら大変だ」と冗談で返す。緊張の解けた二人は「噂じゃすまないな」と笑いあう。このやりとりは実質的なこのエピソードの締めくくりである。

実際にはこの直後にいきなり戻ってきたモリアーティが姿を見せると同時に、二人の体にライフルの照準を示す赤い光線が当てられるという、いかにもクリフハンガー的な引きが付け足されているのだが。

このプールサイドのシーンでの一連のやりとりは、前半のホモフォビックな挿話がなぜ必要であったのかを明かしてくれている。このそこだけを抜き出せば感動的であろうホームズとワトスンの絆を示す場面を描くためにこそ、彼らが「絶対にゲイではない」ことを幾重にも保証しておく必要があったのだ。

ラストを締めくくるワトスンの冗談も、前半の挿話の中で彼らがあらかじめ「本物の同性愛者」から峻別されているからこそ、完全にイノセントな“純粋な友人”同士の“単なるほほえましい冗談”として成立しているのだ。

つまりこの台詞は彼らの関係にセクシュアルな危うさが存在する可能性を示唆するものではなく、「そんなことはありえない」ことをお互いに完全に了解しあっていることをはっきりと示し、彼らのイノセントさを強調するものであり、そしてそれが同時に“純粋な友情”の象徴として機能しているわけである。


また、ここまでの論証をご覧になっていればおわかりになるだろうが、この同性愛に対する「仄めかしてから排除する/排除するべく仄めかす」という扱いは、ホームズとワトスンの関係の演出においてだけでなく、ホームズに対するモリアーティの位置づけにおけるそれとしても反復されているのだ。

筋書きの上ではなんら必然性が無いにも関わらず、モリアーティがホームズに気のあるゲイの男であるかのように登場させられていたのは、ホームズとワトスンの互いへの好意と同様、モリアーティのホームズに対する執着に対しても、最初は同性愛的な要素の仄めかしによってそのインパクトを強め、しかる後にそれを否定することによって観客のホモフォビアを慰撫し安心させるという手続きであり、また同性愛という逸脱を“事実”としては完全に否定しつつ、その上澄みとしての“効果”だけを得るという巧みなやり口でもある。

つまりホームズのパートナー(ワトスン)との関係とライバル(モリアーティ)との関係の双方において、同性愛の要素を仄めかしつつ否定することによって「イノセントさの確保と関係の重要性の強調」を同時に演出しているわけであり、しかもワトスン、モリアーティのどちらの場合も「病院の研究室が初対面の場であり、モリーという女性が“踏み台”にされる」という全く同じシチュエーションの反復であるというのが厭味なまでに徹底している。

つまりどちらも「女ごときよりも男同士の友情/ライバル関係の方が重要。ただし絶対に同性愛ではない」という、露骨なミソジニーとホモソーシャリティに満ちたメッセージなのであり、同性愛イメージを搾取しつつ否定するという巧妙な仕掛けでもあるわけだ。

そして結局は生身のゲイ男性は悪役としてさえ「あらかじめ存在しなかった」ことにして一丁上がりというわけであるが、これも建て前としては「本物のゲイを悪役にすることを避けるポリティカリー・コレクトな配慮」と言い抜けられるのだろう。本当は「悪役としてさえ存在を許す気が無い」だけなのだが。

また、これは裏アカで先に書いた話の続きになるのだが、このドラマにおけるモリアーティとマイクロフトのそれぞれの特徴は、実は原作のホームズ自身の特徴の写しである。具体的には、モリアーティの場合は人質となっていた盲目の老女の言葉にもあった「柔らかな」つまり男らしからぬ調子の声音と、芝居がかった演出を好み、常に余裕ありげで飄々としたトリックスター然とした態度であり、マイクロフトの場合は金時計の鎖の下がった三つ揃いの背広に杖代わりの雨傘という、19世紀の紳士然とした出立ちそのものと、(後日詳述することになると思うが)シーズン2第一話のアドラーとの関わりにおいて歴然と示されていた、女嫌いでさえない全くニュートラルな女への無関心であるが、これは特にホームズ自身に対する強迫的なまでにしつこい“童貞”扱いと際立った対比を成しており、製作者がいかにホームズを単なる“童貞”だと、つまり「まだ女との経験が無いだけの未熟だがノーマルな男」だと思いたがっているのかを露呈していた。

もうお分かりになるだろうが、この原作のホームズ自身からモリアーティとマイクロフトに移されている「高い調子の声音」も「トリックスター然とした剽軽な態度」も「女への無関心」も、つまりは「男らしくない」とされるものだ。要するに、製作者はホームズが「ノーマルな男らしくない」ことを許さず、原作の彼自身を“検閲”したわけである。そしてその代わりとして、原作の彼にはありえなかったような、周囲の人々に対する無神経さと、女と女のような男=ゲイ男性への蔑視的な態度とを付け加えたわけだ。
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by kaoruSZ | 2013-02-10 05:21 | 批評 | Comments(0)