おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(20)”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の…への反響2【補遺】

tatarskiyの部屋(19) ”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビアへの反響2】の続篇ですので、先にそちらをお読み下さい。

管理人によるはしがき
“Sherlock”の脚本家の一人(マイクロフト役の俳優でもある)がゲイだとわざわざ教えてくれた人がいる。いや、正確には、シャーロックの感想書いてるあの人それを知らないんだろうかとdisってるのを見かけたのだ。しかしゲイだったらどうだと言うんだ? 度し難い権威主義者め。ゲイであればこそなおさら迎合する/しなければならない場合もあろう。女の書き手がセクシストである例などいくらでもある。出来上がったものが全てだしそこからtatarskiyさんがあれだけ緻密に読んで他人に判るように書いたものに対してよくそんなことが言えるな。 

 しかもそう書いているのが、名前を変えているが以前はbioに「BLの加害性について考えたい」とか書いていたのをtatarskiyさんのツイートに啓蒙されて外した人なのだからこれは恩を仇で返すというものだ。昨日から延々と投じてきたこの連続ツイートはtatarskiyさんを掩護するためのものだからこれは叩いておかなければ。そう思ってもう一度戻ったときにはしかしツイートがごっそり消えていた。相変らず臆病だわ。確かに、他にも鍵アカ相手によからぬことを話していた。見つかりたくなければ私のツイートをRTなんてしなければいいのに。

 ホームズは考える時指先をつき合わせたポーズを好んでする。彼の白い手を繰返し描写するワトスンによってそのことは原作に記しとどめられている。実は他にもtatarskiyさんにweb上で批判された恨みを持つ人が(あの時には同時に救ってももらったはずだが)、彼女に対抗するつもりで(?) ”Sherlock”を持ち上げはじめていると聞いた。なんと、権威主義的でないところが原作よりもいいとほめているそうだが、それが、シャーロックがものを考える時に手を合わせる恰好をするのが権威主義でないと言っているそうだからふるっている。

【反響2】として前回まとめたtatarskiyのツイートに対し相手の「そ @sh_1895」がよこした、客観性を装った失礼で見苦しいリプのRTを下にまとめ、そのあとにそれに対するtatarskiyの発言を掲載した。 
鈴木薫

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RT @sh_1895:@black_tatarskiy tatarskiy女史の呟きはちなみにこちらよりご参考のこと。>RT
[鈴木註:tatarskiyの部屋(19)にまとめられたものを指す。なお、「そ」が参照先を付けたのはこれが最初。] 

2/5より始まり、2/11完了までに合計28のログ。画面で見るには長く判りづらいので、以後引用は最初のログから順に振った番号で行うこととする。確認は各自にお任せしたい。

論の構成は、論の導入(何故自分が今回論じるのかの動機)、BBC某ドラマ内にあるホモフォビックとミソジニーについての関係の再指摘、(途中脇道としてホームズのキャラクターについての一考)、ホモを取り扱った作品についての考察と紹介、最後にそに対する私信。以上のパーツに分かれる。

(1)~(4)呟き:論の冒頭部分だが、まず認識が間違っているため実は意味がなかった。 ・まず、彼女が主張するところの「中傷」が行われていないこと。自説に対する異論を中傷と取るのは間違い。

・他者の呟きに対してリプライ、RTをするかどうかの判断基準はあくまでそ側にあると。 ・物事を論ずるのに「同じ手順を踏んだ上で」と、物事の見方と方法を画一化しようとしていること。←研究者としては致命的。

・そもそもそは自分の雑感を呟いたに過ぎず、tatarskiy女史と論ずる気持ちがまるでないこと。論も否定していない。自説に対する異論を否定と取るのは間違い。

(5)~(10)呟き:ホモフォビックを出せば何故観客が安心するかの説明がない。(現にtatarskiy女史は安心できていない)。

またこの論に沿うと、シリーズ内におけるモリー(男に色目を使う愚かな女の代表例)の成長が説明できない。

(11)~(15)呟き:「また注意深く読めば彼が同性愛者として設定されていることもわかるように書かれています」←論の一角をなす考察であるが、結論はあっても説明がない。

どの話のどの章を読んでそう読み取れるのか、論ずる側として補足が必要。キャラクター考察については人それぞれの感想があるため、そ側からの意見は割愛。

(16)~(18)呟き:BBCドラマシリーズ中、SHには特定の彼女はいないが、Jにはいるという点についての検証と説明があれば可。

(19)~(25)呟き:明確な認識の違い有り。そはtatarskiy女史が世の中に多数ある作品の中から特に、「これは(エロティックな男性同士の絆を扱ってはいるが)ホモフォビックではない」と判断した資料に興味を持ったに過ぎない。

作品そのものを未読と断じるのは間違い。

(26)~(28)呟き:同感です。そのまま貴方へ。

以上を通しての雑感まとめ:tatarskiy女史は結局のところ、論じたかったのか、そを非難したかったのか、恨みつらみを言いたかったのかが全て曖昧。もしも論じるつもりであるのならば、徹頭徹尾そこに集中するべきだった。残念。

以下私信:何かを論じる際には、まず個人的感情を出来る限り混ぜないようにしましょう。文章を読み通していくと、必要ない文が多々挟まっています。「(笑)」などは論外、減点対象です。折角正論を述べようとしてもそれだけで門前払いです。

他人の同意を得たいのならば、得られるに値する文を書きましょう。


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↑RT @kaoruSZ kaorusz.exblog.jp【「平野智子の部屋(19)”Sherlock”に見てとれる『美しい友情』の代償としてのホモフォビア」への反響2】完結しました

@black_tatarskiy↑私のツイートの全文はこちらの友人のブログで読める。「そ」氏からの返信も先にRTしておいたが、最初のエアリプとまるで態度が変わっていないのは一目でわかる。どこまでもご自分の体面にしか興味が無いようだ。不毛なのでリプライにするつもりはないが、理解力の欠如については指摘しておきたい。

そもそも彼のエアリプの内容はまったく私の文章の趣旨を理解しないまま、とうてい批評とは言えないレベルのそれこそ“主観的”なキャラや筋書きへの思い入れを格好をつけて呟くための踏み台にしていただけである。あれを“異論”などとは笑わせてくれる。私は主人公たちの関係性に対する「ホモなんかとは違う」という強迫的な差別化の描写からはっきり見てとれるホモフォビアと、それとセットの女性蔑視という構造そのものを指摘していたのにも関わらず、「ジョンがシャーロックに恋愛感情を抱いていたとしても彼は幼稚だから理解できないと思う云々」などという、私が書いた文章とは何の関係も無いどころか、あのドラマを見た感想としても無理のある「頼まれもしないキャラ語り」を並べ立てていただけだ。

そして私は彼へのリプライの中で、あのドラマのそれに限らずホモフォビアとミソジニーの描写は「ノーマルな男性視聴者」のためであること、それは“ホモ”と名指されることは激しく拒みながらも、“男同士の絆”の物語そのものは男性にとって普遍的に希求されるファンタジーであるからであり、あのドラマのホモフォビアとミソジニーの描写も彼らがそれを“安心”して享受するための安全弁であるという「構造そのもの」を重ねて説明している。

ここまで書いたように、私はそうした“安心”が必要とされる構造と、必要としている主体が“ホモフォビックな男性”であることをはっきりと指し示している。女性である私とは何の関係も無い。こんなことは普通は誤読しようがないと思うが。なにが「現にtatarskiy女史は安心できていない」だ。

「モリーの成長が云々」に至ってはなにをかいわんやだ。私は「主人公たちの親密さを示すために、彼らの出会いの場面でその片方に気があるとされる女性を冷淡にあしらわせ踏み台にしている」という極めて具体的かつ重要な場面での“機能”を例示したのであり、そこで道具にされた女性キャラにどんな後日談がつけられていようとまったく無関係な話でしかない。「キャラ」と「おはなし」しか理解できないような幼稚な読解力の持ち主以外には説明するまでも無いことなのだが。

そして私が原作のホームズについて言及した内容もその意味もまるでわかっていない。そもそも私が原作におけるホームズが注意深く読めば同性愛者として設定されていることについて述べたことはあくまで“おまけ”であり、まったく私の「論の一角をなして」などいない。

幼稚な俗物には「ホモかホモじゃないか」という低次元な問題としか理解できないのだろうが、そもそも私の文章の趣旨そのものが「ホモかどうか」などという話では全くなく「絶対にホモなんかじゃない」という線引きそのものの差別性を問題にしたものであること自体を理解できないがゆえの必然であろう。

だからこそ私はグラナダ版のそれを例に挙げ「同性愛者とはされていなかったがまったくホモフォビックではないホームズ像」であり、従ってBBC版のような問題は一切なかったと論じている。また私が原作のホームズについて述べたことは「人それぞれによって違うキャラ語り」などではまったくない。

この場でもう少し親切に補足するなら、原作におけるホームズの推理力と変装の達人としての演技力という、誰にでも読める表層にはっきり記されている彼の特性とは、その同じ表層でワトスンや彼自身によって言及されているように「想像力」の賜物であり、それは彼が「芸術家」であることを示すものだ。

彼が実に頻繁かつ巧みに他者の境遇やそれに基づいた感情を読み取り、また他者が望む役割を演じてみせることができるのも、人並みはずれた想像力と、その源となる感受性に恵まれていればこそである。そしてこれは芸術家にとっての芸術的資質そのものでもあり、事実彼はそう呼ばれそう自称しているのだ。

「白い手」と「甲高い声」を持つ彼はまったくもって明示的に、人の目を瞠らせる魔術師であり、他者になりきる驚くべき演技力を持つ俳優であり、自身うっとりと陶酔しながら歌うようにヴァイオリンを奏でる演奏家であり、そしてその全てが示唆しているように“成人男子の規範”から逸脱した存在である。

誰かさんのように「男の体面」に固執し凝り固まった自我を生きる者に、「他者のありようを想像し、他者になりきる」能力などあろうはずもない。もうおわかりだろう。ホームズの特異な能力とは「制度が定めた男としての規範を生きる者」にはありえないもの──彼の“女性性”にこそ由来しているのだ。

そして「芸術」とそれと結び付けられた「女性性」とは、特に原作と完全に同時代である19世紀末の文学作品(ワイルドやスティーブンソンがその代表例だが)において同性愛を象徴するモチーフとして描かれていたものであり、実はドイルはそうした先行作品からのあからさまな引用を随所で行なっている。

もっと言えば、同性愛と芸術の結びつきの扱いにおいても、ドイルが最初に、そして最大の影響を受けたのは、表面的なジャンルとしての「犯罪小説」や「探偵小説」としてのそれと同様、かのE.A.ポーからのものであろうが、それらについてはひとまず置くとしよう。

だがはっきり言っておくべきなのは、「ホームズが同性愛者として設定されている」ことの傍証となる細部は、それだけが独立したものではなく、他の幾つものテーマと結びついた広がりを持ちながらテクストそのものの至るところに鏤められているのであり、実はそれこそが単純な筋書きを超えた原作の魅力の源泉であるとすら言えるものだ。

逆に「ホームズが絶対に同性愛者であるはずがない」という意見は、それこそ始めから「それ以外の答えを許さない」強圧的な決めつけであり、テクストに対する検閲であり、細部に対する読解の禁止であるにすぎない。

あらためてBBC版の話題に戻ろう。ここまで解説してみせたように、原作におけるホームズの推理力と演技力という特異な才能が、彼の成人男性としての規範からはずれた“女性性”に由来するものである以上、今回のBBC版のようにそうした“女性性”を持たない人物として設定するのであれば、当然彼の能力の性質やその由来にも「原作とは別の理由づけ」が必要だったのだ。念のために言っておくが、これは「ホームズを必ず同性愛者として描かなければならない」ということでは全くない。

何度も言っているが、グラナダ版の場合ホームズは他者と性的な関係を持とうとはしない人物として設定されていたが、物事に対する子供のように無邪気な熱心さと女性的な繊細さを併せ持ち、他者に対して無神経な振る舞いに及ぶことなど決してないキャラクターであり、つまり同性愛者とはされていなくとも、彼の能力は原作におけるそれと同様、成人男性にありうべからざる“女性性”に由来するものとして描かれていたと言える。余談ながらこうした意味でもジェレミー・ブレットのホームズは単なる容姿の類似以上に原作における彼の本質をよく捉えていたと言えるだろう。

だが、あのBBC版におけるホームズの描き方からはこうした“女性性”が全く欠落しており、他者に対して無神経である上にどう考えても不必要にホモフォビックな「単なる頭のいい変人」でしかない。それでいて他者の心情を読み解く能力や変装の達人であるとかヴァイオリンの演奏を好むといった、原作写しの特性だけはおそらく何も考えずに持ってきているのだから、実のところは全く筋が通らない人物造形になっている。繰り返すが、原作におけるそれらは彼の“女性性”と結びついていたからこそ意味のある細部であったのであり、「断じてホモではないし女っぽくもない」ことにしたいらしい人物にそんな特性を付与しても、それは単に彼に「ホームズ」という名前が与えられていることとセットの空疎な記号にすぎないのだ。

もし本当に「原作とは違う、女性的ではないホームズ」を描きたいと思ったのであれば、女性性ではない彼の能力の由来の明確な設定と、ヴァイオリンなどではなくそれを示すはっきりした独自の特性を持たせるべきだったろう。もっとも、ホモフォビアだけはどうあっても言い訳できないが。

しかしながらあのドラマの製作者たちは、大して原作を読み込むこともせずにホームズの能力や特徴の表面的な部分だけを真似しつつ、「人付き合いの悪い変人」という程度の通俗なイメージをなぞるだけで事足れりとし、設定を現代に置き換えたという目新しさを売りにしつつも本質的な独自の工夫も無く、結局のところ彼らがもっぱら腐心してみせたのは、「どうすれば絶対にホモには見えないか」というくだらないにも程がある差別的なこだわりに過ぎなかったのだから、その安直さには溜め息しか出ない。

つまるところホームズとワトスンの関係性の描写も、「人付き合いの悪い無神経な変人が、ワトスンとの友情によって多少は人間らしくなる。絶対にホモではないが、お互いの存在は女との関係より優先される」という程度の、最初から落としどころの見え透いた、極めて陳腐なものにしかなりようがないのだ

前にも書いたが、ホームズの側にも女をあてがっておくという手が使えたなら、彼にあんなにもホモフォビックな態度を取らせる必要はなかったであろう。だがそうすれば、彼にはホームズと名乗る必然性も、ホームズと呼ばれるだけの説得力も持たないことがあまりにも明らかになってしまっただろう。

ホモフォビアが必然的にミソジニーに由来するものである以上、「ホームズは絶対にホモなんかじゃない。ホームズとワトスンの関係がホモなんかであるはずがない」という強迫的なバイアスは、実はそのまま原作で描かれているホームズの“女性性”を決して見まいとすることでしかありえないのであり、つまり同性愛以前に、男の持つ“女性性”そのものが未だにアクチュアルなタブーなのだ。そして原作におけるホームズのキャラクターは、未だにこのアクチュアルなタブーに触れるものなのであり、皮肉ではあるがそうした意味でもまったく古びていないと言える。

そしてあのBBC版でのホームズの描き方は、彼とワトスンとの関係性に対するそれと同様、通俗なホモフォビアとミソジニーによる検閲の結果であるに過ぎず、「こうした描き方しか許さない」という抑圧の反映として以上の価値や意味は、およそ見出しがたいものであるとしか言えない。

あとは本アカの文章の続きに譲ろう。もっとも、そちらもある種の二度手間込みで書かねばならないことを考えると気が遠くなるのだが。純粋に好きなことをするつもりで原作について書き出した当初は、また人の恨みを買うのを承知で文章を書かねばならない日が来るとは思っていなかった。

ちなみに「そ」氏の馬鹿さ加減には事細かにつきあう気は最初からなかったのだが、私がはっきりと書いていることを明らかに自分のプライドのために無視していたのには正直苦笑した。特に、格好をつけたつもりでいるらしい結び。なにが「他人の同意を得たいのなら、それに値する文を書きましょう」だ。

私ははっきり「お前と積極的に話すつもりなどなかったが、一度は示しをつけておかねば済まないから」話しかけたのだと書いたのだが。つまり私はあらかじめ「お前の同意を得たいなどとは微塵も思っていない」と通告していたのだ。読解力の欠如を憐れむべきだろうか。

もっとも、こちらを「女史」呼ばわりしつつ、いかにもこちらが「感情的なだけの女」であるかのように見せかけ、自分は「冷静で分析的な男」ぶってみせていること自体で、それこそ「差別的な男」としての馬脚を現しているが。

元々私の文章について(最初から読解力の欠如丸出しであったが)言及した動機そのものが、自分がいかにも知的で公平に見えるように振る舞うための踏み台として使うために過ぎなかったのであろうが。その踏み台が直接口を利いて自分に文句を言ってくるとはまるで思っていなかったのだろう。

他にも今回私の書いたことについて差別的で理不尽な物言いをしてくる男女はウンザリするほどいて引きも切らない。私がゲイ男性や肩書きのあるクィア研究者であれば、これほど大勢から無礼な物言いを投げつけられることは決してなかったであろうが、私は誰かが言わねばならないことを言ったまでである。

自分の言ったことについては一切間違っているとは思わないし、後悔もしていないが、本来なら私以外に、私より先に言うべきであった人がいたはずだという思いもまた確かである。もっとも、こんな後書きめいた感慨に耽る余裕はまだ無いのだが。ともかく今日はこれまで。今度は本アカの方でお目にかかろう。

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by kaoruSZ | 2013-02-26 19:36 | 批評 | Comments(0)