おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

幻の女の冒険(前篇) 

 ここに叙べようとする事件の真相は公表すれば多大な波紋を呼ぶ性質のものなので、はるかな年月が過ぎてなお、発表は問題外としても単にこの話題を取り上げることすら、ためらわれるほどである。どんなに言葉を選んでも、少なくとも私の生存中は公にするのは難しいと思ってきたし、今も思っている。とは言え、かつて私は『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』と題してこれを短篇に仕立てたこともある。本当にミルヴァートンの家に忍び込んだのかと訊かれたことは数知れず、あれは冗談ですよと何度答えたか分らない。時には、実際にやったとしてそれを認めると思いますかと訊き返したこともある。むろん金庫破りについては断固否定した。シャーロック・ホームズは女中を口説いて容易にたらし込むほどの凄腕なのかと尋ねてくるのはもともと悪意を持った連中なので、私は一度ならず、女中は知らないが馬丁やコックなら簡単に手なづけるだろうと答えて二の句を継げなくさせた。彼らがホームズと私の「噂」を広めるのに少なからず貢献したであろうことは言うまでもない。

 フィクションであることをいかに強調しようと人々の好奇心は容易に止まず、長い年月にわたって、表題の人物のモデルの現実の死について私の小説に手がかりを求めようとする者が後を絶たなかった(そして例外なく見当はずれに終った)。とりわけ、物語の最後で私たちが見出す女性の写真に関して、由緒正しい貴族にして高名な政治家だった人物の、たまたま小説発表に先立って逝去した未亡人の名が取沙汰されたのは、思いがけぬ偶然とはいえ、故人と遺族に申し訳ないことであった。だが、そんな出来事も、老い先短い人々の、いやましに黄昏の色を加える回想の中にしか存在しなくなった今日、この事件に関する唯一の、真実の証言を残しておいてもいいのではないか。少なくとも、あの時に書いた言葉を今こそ繰り返すことができるだろう。事件の中心人物がこの世の裁きの及ばぬところへ去った今、筆を抑えることさえ心がけるなら、誰にも害の及ばぬ形でこれを記述することができるかもしれない、と。わが友シャーロック・ホームズ氏にとっても私にとっても、これは生涯唯一無二の体験の記録である。


 今は遠い昔となった凍てつく冬の六時頃であった。ホームズと私は例の夕方の散歩から帰ってきた。ホームズがランプの火を大きくすると、卓上に置かれた一枚の名刺がその光に照らし出された。一瞥するや、彼は嫌悪の叫びを発して、名刺を床に払い落した。私はそれを拾い上げた。

   仲介代理業 
   チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン
   ハムステッド
   アプルドア・タワーズ

「誰なの」私は尋ねた。
「ロンドン一の悪党さ」ホームズは座を占めると暖炉の火に足を伸ばした。「裏に何か書いてあるかい」
 私は名刺をひっくり返した。
「今夜十時に裏口より御来駕乞う C・A・M」
「まだ時間はあるな。ねえ、君、動物園で蛇の前に立って、するすると動きまわるあのしなやかな毒持つ生き物、あのおぞましい邪悪な目やひしゃげた顔を見ると、背筋がぞくっとして鳥肌が立ってくるだろう? ミルヴァートンってそんな感じなんだ。僕はこれまで五十人からの悪人を相手にしてきたが、その中の最悪の男にさえ、こいつから受けたような嫌悪感は持たなかった。それでも僕はこいつとの取引を避けられないんだ」

「いったい何者なんだ」
「恐喝王だよ、ワトスン。秘密だの悪い噂だのをミルヴァートンに握られたが最後、蛇ににらまれた蛙のようにおしまいなんだ。富や名声を持つ者の立場を危うくするような手紙類を、こいつは非常な高値で買いあさる。恩知らずの召使やメイドばかりじゃない、上流階級の純真な御婦人の愛やら信頼やらを言葉巧みにかすめ取る、紳士の仮面をかぶったならず者もこいつの客さ。それから、純真とは言えまいが、正真正銘の紳士が下層の若者を愛して裏切られるケース。たまたま知ったんだけど、そうした紳士の二行の手紙に対して、あの蛇は七百ポンド支払った。最終的にその貴族にして政治家の、良き家庭人として知られ、それまで経歴にしみ一つなかった紳士は、銃で自分の頭を吹っ飛ばして果てた。さらに卑劣なことには、要求した額を払えない相手には、あるいは、払えたとしてもこいつの好みに特に叶う相手の場合は、男女は問わないんだが、身体で払うよう求めるんだ。僕は、ある夫人が要求に屈してこいつに身をまかせた翌日、耐え切れずに自殺したのを知っている。実のところ、夫に秘密を知られるのを恐れるこうした貞淑な夫人こそ、こいつの大好物なのさ」

 あまりのことに言葉を失っている私を見つめて彼は身震いした。
「およそ市場に流通しているものは、すべてミルヴァートンのところへ集まってくる。この大都会には、その名を聞いて青ざめる人間が何百人といる。誰が、いつ、どこで、こいつの餌食になるかは予測できない。金なら唸るほどある上に、狡猾だから、目先の利益のために急いで投資を回収する必要はないんだ。儲けが最大になる時まで、切り札は何年も手元にとっておく。ロンドン一の悪党とさっき言ったけど、かっとなって連れ合いを殴るごろつきと、すでにはち切れそうな財布にさらに金を詰め込むために、じわじわと人の心をいたぶり、苛み、真綿で首を絞め上げるこういう輩が、そもそも較べものになると思うか?」
 ホームズがこのように激しい感情を剝き出しにして話すのは珍しいことだった。

「しかしどう考えても」と私は言った。「そんな奴は法の手が放っておかないだろう?」
「理屈はそうだけど実際には無理だよ。たとえば奴を捕まえて投獄してみたところで、出てくるまでの数ヶ月、破滅を先延ばしにするだけだとしたら、脅迫されている婦人になんの利益がある? 犠牲者は反撃なんかしない。もし奴が後ろめたいところのない人物をゆすれば、もちろん反撃の余地はあるけれど、あいつときたら悪魔のようにずる賢い。駄目だね、奴と戦うには別の手で行くしかない」
「それで、どうしてそんな奴が君を呼び出したんだ」
「それは──」ホームズは一瞬口ごもった。「高名なある依頼人から、気の毒な事件の処理をまかされたからさ。ミルヴァートンはその婦人が無分別な若い時代に書いた手紙を、大金を支払わなければ配偶者に送ると言っている。僕は彼と会ってできるだけ好條件で取引してくれと頼まれたんだ」

 通常、ホームズは依頼人の実名を私に(私にだけは)伏せることはまずなかったので、この言葉の濁し方は引っかかった。しかしすぐに、私を信頼しないのではなく、よほど秘密を要求される要人の内室なのだろうと思い直した。
「それにしてもその女性の夫君は、寬い心を持ってはいないのかね。結婚前のことなんだろう。許してくれると思えるだけの信頼が、お互いのあいだにないのかしらん。ほら、あのヒルトン・キュービット夫人だって」と、私は以前の事件を引き合いに出した。「夫の愛が自分の過去を許容するほど深いと信じられれば、彼にすべてを打ち明けてあの悲劇を回避し、幸せな結婚生活を全うすることもできたと思うんだが」
「そうかもしれない、そうでなかったかもしれない」とホームズは言った。「助けられなかった依頼人のことはともかく、今回の件にかぎって言えば、かの婦人の夫は十分寛大な心の持主だと思うし、送りつけられた手紙を読んでもたぶん動じないだろう。問題は、僕の依頼人がとてつもなく自尊心が高くて、彼に手紙を読まれるくらいなら死を選ぶくらいの心持ちでいることなんだ」
「僕なら、手紙を送りつけられてもそのまま読まずに火中に投じるね」
 ホームズの片頬をすばやい笑みがよぎった。「君ならそうするだろう、ワトスン。だが、今回の依頼人の場合、もう一つ問題があってね。夫にだけでなく、世間に対しても、知られては都合の悪いことを公にすると脅されている。そうなれば夫にも大変な迷惑がかかる。いや、迷惑なんてもんじゃない、今の職にもとどまれまいし、社会的に息の根を止められるだろう。もとより婚姻関係の破綻はまぬかれない」

「いったいそんなことをしてそいつに何の利益があるんだ」私は憤慨して言った。「他人の幸せを踏みにじって何が面白い。第一、そんな無体なことをしても、金が取れなければ、たんに人を破滅させるだけで、元も子もないというものだろう」
「そのとおり、女性を破滅させてもミルヴァートンには一文にもならない。大金を吹っかけるより、妥当な金額で折り合いをつけた方が絶対に得なはずだ。ところが、こいつは僕に言ったことがあるんだ、ワトスン。秘密を一つ暴いてみせれば、それだけで間接的に少なからぬ利益が上がる。同様の案件はいくらもあるので、時々残酷な見本を示しておけば、金を出ししぶっている連中もたちまちずっと物わかりがよくなるんだと」
 ロンドン市民の取り澄ました日常のすぐ下に、それも生活のためにやむなく犯罪に手を染める下層階級というわけではない人々の中に、このように憎むべき輩のいることを知って、私はあらためてホームズの仕事が根を下ろしている闇の奥深さを垣間見る思いがした。「ホームズ、君は前にもこの男とかかわったことがあるのかい」
「一、二度ね」声の調子であまり話題にしたくないことが察せられたが、それでも彼は言葉を継いだ。「何しろ、仕事柄、秘密には通じている奴だからね。ずいぶん前の話だけど、奴に気があるようなふりをして近づいたことがあるんだ。もちろん、シャーロック・ホームズとは知らせずにだが、あとになって向うもこっちの正体をつきとめて来た。あの時は必要な情報を全部引き出したあとで手ひどく振ってやったから、今でもうらんでいるはずだよ」
「そんな私怨があったんじゃ、交渉人としては具合が悪いだろう」
「なあに、いつかはけりをつけなきゃゃならなかったんだから、これを好機と思うべし、さ」

 ホームズは暖炉の前の椅子に深く腰をおろし、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、あごを胸元に埋め、赤く輝く熾火を見つめて身じろぎもしなかった。半時間ほど黙ったままそうしていたが、やがて決意を固めたように勢いよく立ち上がると自分の寝室に入って行った。しばらくして、山羊髭を生やした粋な身なりの若い職人が、クレイ・パイプをランプで吸いつけ、威張った足取りで通りへ階段を降りて行った。「遅くなるから先に休んでいてくれたまえ、ワトスン」そう言い残し、ホームズは夜の街に消えたのである。私はその時、彼が確かにチャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンを相手に闘いを開始したことはわかっていた。だが、その闘いが、あのような異様なものになるとは夢にも思わすにいた。


 翌朝、私が目を覚まして居間へ入って行った時、ホームズの姿はなかったが、浴室でしきりに水音がするのが聞えた。やがて朝食の用意がととのい、顔が映るほど磨き上げられたポットから注いだ湯気の立つコーヒーを前にテーブルについていると、タオルにすっぽり身を包んだホームズが入ってきた。
「おはよう、ホームズ。先にやってるよ」
「おはよう、ワトスン」ホームズは応えたが、声がおかしかった。
「風邪でもひいたの?」返事はなく、振り向いた私が見たのは、自分の部屋へ入って行くホームズの後ろ姿だった。
 結局ホームズは、その朝、食事をとらず、私が寝室をのぞくと、少し眠りたいからと言って毛布をかぶってしまった。その日私は雑誌の編集者とランチの約束があり、午後は別の編集者と仕事の打ち合せの上、彼の案内で出版社の社主と会食した。社主は私が長篇を書くなら好條件で買い取りたいと言い、私は浮き浮きと帰ってきてホームズに真っ先に知らせようとしたが、彼はすでに寝室に入った後だった。私は自分の寝室で連載用の原稿を書きはじめ、興に乗って明け方まで書き続けたが、気がつくと部屋着姿のホームズが寝室の入口に立っていた。

「邪魔しちゃったかな」
「いや、ちょっと前だったらそうだったけど」と私は言った。「そろそろ寝ようと思っていたところさ。具合はどうだい」
 私は蠟燭を吹き消したが、それでもあたりは水のような仄明りに満たされていた。冬のしらじら明けが近づいていたのだ。私は立ち上がると、自分の幸運についてホームズに話そうとしたが、友はそっと手をあげてそれを遮った。
「ずいぶん筆が進んだね、ワトスン」思いのほか明るい声で彼は言った。「連載決定おめでとう。君が書きたがっていた歴史小説か。冒険小説も出版できそうじゃないか」
「君のやり方は知っているが」私は嘆息した。「驚いたね。聞いてみれば例によって簡単なことなんだろうが」
「そのとおりさ。君の右手の中指の左側に広がっているインクの丸い染みは、長時間ずっと書き続けていなければそんなに大きくはならない。誰と会うかはおとといの散歩の時に聞いているが、昼間食事をした相手は雑誌編集者だから、頼まれたのは連載に違いない。歴史小説なのは、机の上に広げた資料から推測がつく。それから、晩餐を御馳走してくれた出版社のお偉いさんだが、ホームズものの愛読者だろう」
「そう言ってたよ! なんでそんなことまでわかるんだ」
「昨日のモーニング・ポストで、彼、インタヴュー記事で愛読書を訊かれ、H・R・ハガードとドクター・ワトスンのホームズものと答えていたんだが、見落したようだね。ホームズものはストランドが独占しているからいくら好きでも参入は無理だ。君にハガードばりの冒険小説を書かせてみたいと思うんじゃないかと考えたんだが正解だったね。なあに、君が書く“ホームズ”の推理と較べたら月とすっぽん、とんと沍えないあてずっぽうさ」

 ホームズは面白くもなさそうに言ったが、私は声を上げて笑い、そのせいでさらに幸福感が増すのを感じた。疲れていたが、眠くなかった。頭は沍えたままで、身体もむしろ余韻のように力を残していた。
「ホームズ」その背中に腕を回した途端、私はそんな時間に部屋の入口に立っていたホームズの意図を読み誤ったことに気がついた。私が触れると彼はびくっとして私の手から逃れ、二三歩あとずさった。私は驚いて彼の顔を見たが、その時、それまで蔭になっていて読み取れなかった表情が光の中にはっきり見え、私は相手があごが尖って見えるほどやつれており、大きな目の周囲にも隈ができているのを認めた。「どうしたんだ」
「風邪……うつすといけないから」ホームズは私の問いを誤解して答えた。だが、風邪などではないと私は直観的に悟っていた。
「ちゃんと食事しなくちゃ駄目じゃないか」
「食べてるよ。ハドスンさんが心配して特別に用意してくれたからね」

 私のさぐるような視線を避けるかのように、彼は白い両手を上げて顔を覆ったが、その時、袖口が落ちて、あらわれた手首に生々しいあざが並んでいるのが見えた。片方の手に五つ、もう一方の手にも五つ、計十箇の、四本の指と親指のあと。「どうしたんだ、その手」
 ホームズの顔がさっと紅潮して私の手を振り払い、両手を灰色の部屋着の袖に隠した。「ちょっと立ち回りがあってね」彼はほほえもうとしたが、それが途中で凍りついて苦しげな表情になった。
「見せてくれ。他に怪我はないのか」私はなおも言ったが、彼は両手を背中に回して拒んだ。
「大したことじゃない」
「取引はどうなったの」
「あとで話す。元気になったらね」ホームズはそう言って私に背を向けると自室に向かい、すばやく身体をすべり込ませて扉を閉ざしてしまった。

 しかしホームズは元気にならなかった。それから数日、彼は明らかに様子がおかしく、何を訊かれてもうわの空で、必要なことにもろくろく言葉が帰ってこず(仕事のことについては目処がつくまで私に話さないこともあるのでそれ以上詮索はしなかったが)、いや、それ以前に、ピリピリしていて声をかけるのもはばかられる状態だった。それでも夜になると、最初の晩とはまた違う職人風に身をやつし、行き先も告げずに出かけて行った。あるいは昼間もいない時があったが、そうかと思うと一日ベッドで過ごす日もあった。私の方は相変らずミューズの訪れが続いており、その間は何もかも忘れて執筆に没頭した。そうでなかったらもっと彼を気づかったに違いないのだが、それでも、彼が私に話したいと思った時のためにつねに彼に対して心を開いていようとは努めた。私の仕事が忙しい時、とりわけ昼夜逆転して、深夜、寝室で書いている時はそれぞれのベッドで休むのが不文律になっていたが、そもそもホームズはこれを好まず、ただ私の首っ玉にしがみついているためだけでも同じベッドで寝たがるのがいつものことで、それが自室から出てこないというのは尋常ではなかった。あれ以来、明らかに私は拒まれていた。

 けれどもついに、風が唸りながら狙いすました猛禽のように窓ガラスに襲いかかってがたがた音を立てる夜、帰宅して変装を解き、暖炉の前に腰をおろしたホームズは突然こう叫んだ。「なんて素晴しい夜だ!」
「この天気がかい、ホームズ」
「僕の目的にはぴったりなんだよ。ワトスン、僕は今夜、ミルヴァートンの家に押し入るつもりだ」
 私は耳を疑った。「なんだって、ホームズ……正気か?」
 ホームズはまっすぐ私を見た。ここ数日の混乱から恢復したその目は完全に正気だった。「それ以外、方法はないんだよ」
「馬鹿なことはやめてくれ。いったいどういうつもりなんだ」私は半ば驚き、半ば腹を立てていた。「君はなんにも話してくれないが、僕はそんなに信用に値しない男か」
「ワトスン君、心配かけてすまない。うるさく質問したりしないで黙って見守っていてくれてありがたいと思っている。僕は心から感謝してるよ」
 ホームズの口から出るには殊勝過ぎる言葉に私はむしろ途惑った。
「だけどこれは僕の問題なんだ──むろん依頼人のためだけれど。ミルヴァートンとは過去のいきさつがあるからね。これは僕の撒いた種で、僕が刈り取らなきゃならない。君に迷惑をかけるわけにはいかないんだ」
「何を水くさいことを言ってる。及ばずながらこのワトスン、君のためならいつでも手を貸す用意があるぞ」
「あいつの目的は──」私の昂奮を冷ややかに見下ろしてホームズは言った。「僕の依頼人なんだよ。先夜の会見でそれがはっきりした。受け入れる余地のない條件だろう? 押し入って強奪する以外に、あの手紙を取り戻す方法はない」
「後生だからホームズ、自分が何をしようとしているか考えてくれ。他に方法があるはずだ」私は叫んだ。この時はまだ、なぜホームズがそこまでするのか、まるでわかっていなかったのだ。

「ワトスン、これは十分考えた上でのことだ。僕はもともとけっして早まった行動をするたちじゃないし、もし他に手段があれば、ここまで荒っぽい、しかも危険と判っているやり方なんかしやしない。問題をはっきりと公正な立場から見てみよう。僕のしようとしているのは、あいつによって不当な目的に使われようとしている物を奪い返す、ただそれだけなんだ。厳密に言えば犯罪だとしても、これが道義的に許容しうる立場だということは認めるだろう?」
「確かに、それだけなら道義的には許容できるかもしれん」
「道義的に正当だとすると、残るは身にふりかかる危険の問題だけだ。もしも今夜、思いどおりにならなければ、あの悪党は脅しを実行するだろう。そして彼女を破滅させるだろう。僕にできるのは依頼人を見棄ててその運命に追いやるか、それともこの最後の切り札を切るかだ。僕は自尊心と面目にかけて奴との決着をつけたいんだ。一人の女性が名誉を失おうとして必死に助けを求めている時、紳士たる者、わが身の危険などかえりみるものではないという意見に、君は賛成してくれると思うが」

「確かにそのとおりだが」私はためらった。「君が引き受けようとする危険が大き過ぎやしないか」
「ワトスン、君だから本当のことを言うけど、僕の依頼人は、実は相手の言うだけのものをすでに支払ったんだよ。奴の言いなりになったんだ」
 私は息を呑んだ。「何てことだ──」
「だけど、あいつはそれでも満足しなくて、手紙の一部だけを返したものの、肝心な部分は手元に残している。しかも、要求に応じたことそのものが、新たなゆすりの材料に加わっているんだ。このままではきりがない。僕の依頼人は今の生活を壊したくない。今の夫は彼女にとって、他の何ものにも代えがたい存在だ。だが、今夜再びミルヴァートンは、彼女から二回目の支払いを受けるべく待っている。僕はそこへ乗り込んで行って、破滅するのはどっちか、はっきり分らせてやるのさ」
「あまり気は進まないが、やるしかなさそうだな」私は言った。「何時に出る?」
「君は来なくっていいんだよ」
「じゃあ、君も行かせない」私は叫んだ。「名誉にかけて言っておくが、それから、生まれてこのかた、こうすると言ったことに反したことは一度もないが、 君がこの冒険に僕を連れて行かないのだったら、僕は今すぐ馬車を拾い、警察に直行して、君がしようとしていることを話してやる」
「君に助けてもらえることなんてないんだ」
「なんでそんなことがわかる? 何が起るかわかったものじゃないだろう。ともかく、僕はもう決めているんだから。自尊心や面目があるのは君だけじゃないんだぜ」
 ホームズは眉をひそめて黙っていたが、不意に明るい表情になって私の肩に手を置いた。「わかったよ、ワトスン、そうしよう。何年も同じ部屋で一緒に暮らしてきたんだから、同じ檻の中で終るのも悪くないかもしれないな。君、音がしない靴を持ってるかい」
「ゴム底のテニスシューズがある」
「結構。覆面はどうする」
「黒い絹で二つ作ろう」
「君という男はこういう仕事に生まれつき向いているんじゃないかしらん。是非それを作ってくれ。出かける前に軽く夕食をとろう。そして観劇帰りの二人連れに見えるよう正装しようじゃないか」

 時間になって寝室から出てきたホームズを見て、私はあっと驚いた。ヴェールの付いた帽子の下にはつややかな黒髪が結い上げられ、黒いマントの裾から黒と見紛う暗い緋色の絹のドレスが覗いている。もっとも、スカートを引き上げてみせると、そこにはズボンを穿いた脚と、ゴム底の軽い靴に包まれた足があったが。ほっそりした手がヴェールを上げ、非のうちどころのない化粧をほどこした顔があらわれた。確かにホームズでありながら、意志の強そうな美しい女性としか思えない顔がそこにあった。
「驚いたよ、ホームズ」長手袋に隠したその手を取って私は言った。
「歳月も彼女を枯れさせること能わず、また習慣もその変幻自在の才を朽ちさせることを得ず」誇り高い頭を上げると、クレオパトラの科白でホームズは応えた。
「だけど、どうして女性に?」
「ミルヴァートンは、今夜、僕の依頼人を待っている。今夜の僕は依頼人の代理だからね。ねえ、ワトスン、今夜僕のしようとしているのはただの押し込みなんかじゃないんだよ」ホームズは再びちかぢかと私の目を覗き込んだ。先刻の判断が間違いであったことを私は知った。彼は恢復していなかった。それは奥でちらちらと鬼火の燃える狂気の目だった。「僕は今夜、あいつを殺してやるつもりなんだ」

「ホームズ、どうしてそこまで! 君は君が追いかける殺人犯と同列になり下がるつもりか」
「ワトスン、僕がこれからやろうとしていることは、結果として多くの人を救うことになるんだ。これは殺人犯のけっしてしないことさ」彼は私から目をそらし、風が窓格子をつかんだ狂人のように力いっぱい揺すぶっている窓の方を見やって続けた。「無理してついて来なくていいんだよ。これはミルヴァートンと僕とが正面切って渡り合う、いわば一騎打ちなんだから。最初の手合わせでは手ひどく一本取られたが、二度と同じ過ちは犯さない。僕にしたことを後悔して、血の涙を流しながら地獄へ行くようにしてやる」
「ホームズ、僕はそれを見届けるよ。立ち会って見届ける。何があってもついて行くし、何を見ることになっても君から離れたりしない。いったい君は、僕が“見る”だけで“観察”できないと思ってるのかい。僕は僕の小説に出てくる“鈍い”ワトスンとは違うんだ」
 その時、窓の外で稲妻が閃き、闇に沈んでいた室内と美しい横顔とを浮び上がらせたので私は息を呑んだ。耳をつんざく雷鳴が通り過ぎる一瞬、私は自分の推測が正しかったことを確信した。痛ましさで胸がいっぱいになったが、すぐに、これが友への、私の愛と忠誠とを証明する千載一遇のチャンスだという思いが湧き上がってきた。ホームズが私の方に向き直った。
「さあ、ミルヴァートンを殺しに行こう」

幻の女の冒険(後篇) 
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by kaoruSZ | 2013-04-30 23:08 | 文学 | Comments(0)