おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

幻の女の冒険(後篇 ) 

幻の女の冒険(前篇) 

 固い決意をこめてゆっくりと発せられたその言葉を聞くと、私は鳥肌が立ち、首の後ろの毛まで逆立つ思いだった。彼が私の手を取って握りしめたので背筋がぞくっとした。というのは、一般には「空家の冒険」として知られている、ホームズが三年間の不在から帰還した際の出来事の中で、そうやってホームズに手を引かれて暗がりを進んだことを思い出したからだ。
 と言っても、あそこに書いたほとんどは実際には起こらなかったことであり、突然帰ってきたホームズに手を取られた私が、蛇に魅入られた蛙のように(最初ホームズを見たとき私は失神してしまった)ベイカー街の古巣に引き込まれたというだけの話であり、ホームズが死んだと信じて、あの懐しい部屋から繰り返し冒険へ出発した私たちのお伽話を書くことで作家となった私の前に思いがけず戻ってきたホームズに、ついて行けば今度こそおしまいだと思いながらついて行き、そして私たちの新しい生活と新しい物語がそこからはじまったというだけのことなのだが。

 あの時と違うのは、私がホームズに一方的に引きずられているのではなく、はっきりと自分の意思で行動をともにしていることだった。ホームズがミルヴァートンを殺そうとして失敗するようなことがあればこの手でとどめを刺すつもりだった。病み上がりの元軍医としてあの部屋で彼と暮しはじめたばかりの頃、そしてそれからの数年間、原稿を何度出版社に送ってもはかばかしい返事が返ってこず、何の後ろ盾も定職もないまま、鬱屈して、ホームズの気持にも気づかずにそのヴァイオリンに耳をかたむけていた若い日を私は思った。そして医者の仕事に戻ることを決心して、彼から離れ、一家を構えて、もはやホームズと冒険に出ることもないだろうと思い、それでも彼に誘い出されて、のちの「ホームズもの」になる材料を書きとめたノートだけが増えてゆき、しかしホームズが、実は、私が自分もその一員と信じ込んでいた善良な市民には想像もつかぬ形で裏の領域に入り込んでいることを知っておぞ気をふるい、次第に彼の呼び出しにも応えなくなり、彼との関わりを断つ決心をし、フランスからの手紙にも返事を書かずにいるうちに、ついにホームズが深夜、私の診察室に現われて、ライヘンバッハの滝で終る道行に連れ出されたあの時代を。

 私はなんと変ってしまったのだろう。なんと遠くまで来てしまったのだろう。あのことがなければ私は(メアリの病気があんなに早く進まなければ)父親になっていたかもしれないし、少なくともメアリをあれほど苦しめることにはならなかったに違いない(彼女の善良な魂に安らぎあれ!)。町医者を続け、再婚して家族を養っていたかもしれない。イギリスを離れ、アルプスの山中をさまよったあの時、私たちは一度世界の外へ出てしまったのだ。もうこのまま死んでもいい。そう私が言うのを聞いて、妻の下へ私を返す決心をしたとホームズは言った。ホームズは身を隠し、私は帰ってきたが、それはもはや同じ私ではなかった。ストラスブールとマイリンゲンの間で私は別人になってしまい、二度とメアリの忠実な夫には戻れなかった。

 とはいえイギリスに戻ってみるとすべては夢であったかと思われた。深い喪失感の中で、二度と会えないホームズとの日々を必死で呼び返そうとし、のちに『シャーロック・ホームズの冒険』と『思い出』としてまとめられる短篇を書き継ぐことでかろうじて自分を支えたあの月日がなければ、私は暇な医者の手すさびとして二つの長篇を出しただけの、無名のアマチュア作家で終っていたかもしれない。兄のように独り寂しく死ぬことだけは避けたいと思い、家庭の幸せを求めた私が、今、私の運命を変えた、職業も家も手放させて自分との生活に引き戻した、私を破滅させるかもしれない、私のミューズであり恋人である秘密の共有者に導かれ、人殺しの片割れとなるべく道を急いでいるとは。だが、そのことに何の後悔もないと私は思った。あの時ホームズは私を信じられないでいた。私が彼を置いてまた出て行ってしまうのではないかと疑い、恐れていた。彼の思いに気づかずに結婚し、三年間彼に姿を隠させた償いに、私は時にホームズから理不尽なことを言われても黙って耐えてきた。だが、耐えるだけでなく彼への愛を積極的に証明するチャンスが、今、めぐってきたのだ。これによって私は彼に示すことができるだろう。私が何を措いても守るべきはホームズと、ホームズとの生活であり、それが危機に瀕している今、それ以上に考慮に値するものは何一つないのだのと。

 オックスフォード街で私たちは馬車を拾い、ハムステッドまで行った。そこで馬車を返すと、身を切るような風の中、私は厚地の外套の襟元までボタンをはめ、ホームズはマントをきっちり巻きつけて、ヒースの原のへりにそって歩き出した。
「実際は押し入る必要などないのさ」昂奮を押し殺した声でホームズは言った。「奴は逢引と信じて、裏門にもヴェランダの扉にも鍵をかけずに待っている。扉の内側は書斎で、書類を入れた金庫はその中にある。書斎の奥が寝室でミルヴァートンはそこにいる。猛犬を飼っており、夜の間はそいつが放されて庭をうろついているが、女が来るというので繋がれているはずだ」
 ここだ、とホームズが言って、私は、私たちがミルヴァートン邸の傍に達したことを知った。裏門から難なく敷地に入り、私たちは月桂樹の茂みを横切った。周囲を庭に囲まれた宏壮な屋敷は、どの窓にも明りが見えず、静まりかえっている。そこへ忍び寄る前に、私は黒絹のマスクで顔の上半分を覆った。あとで使おうと言って、ホームズもマスクと脱いだ手袋をしまい込んだ。タイル貼りのヴェランダが建物に沿って延びており、その奥に窓が幾つかと扉が二つあった。

「こっちの扉だ」ホームズが囁いた。「奴は寝室にいるはずだから、まず君の隠れ場所を確保しよう」片手で私の手をつかんだまま扉の一つを押すと、それはたやすく開いて私たちは中へ入った。暖炉が燃え、煙草の煙が濃く立ち込める別世界で私たちはほっと息をついた。火は盛んに燃えており、室内は明るく照らし出されていた。暖炉の横に背の高い緑色の金庫が見える。「あの間仕切りカーテンの向うが寝室だ」ホームズが私に囁いた。暖炉の反対側の横にもどっしりしたカーテンが下りており、外から見えた張り出し窓を覆っているのだと思われた。私たちがそこから入ってきたヴェランダへの扉はその向かい側にあるのだった。
「あのカーテンの後ろに隠れていてくれ。僕はもう一度入り直す」ホームズは窓を指して言い、私の手を離すと音もなくヴェランダへすべり出た。私は足音を忍ばせてそのとおりにし、すぐに抜けるよう懐の拳銃を握りしめた。すぐに扉が叩かれた。もう一度、さらにもう一度、もっと強く叩く音がした。

 寝室との境のカーテンが微かに波打つように揺れた。鋭いカチッという音がして、電灯の眩い光が昼のようにあたりを照らし出した。本能的に、私はカーテンの合わせ目を閉じて息を殺した。強い葉巻の臭いが鼻をつき、足音がゆっくりとヴェランダへ向かう。好奇心に抗しかねて、私はカーテンの隙間を細くあけ、電灯の光の下ではじめてチャールズ・ミルヴァートンを見た。大きな頭の五十がらみの小柄な男で、髪には白いものが混じり、肉づきがよく、ひげのない丸顔に金縁の眼鏡、口の端からは黒く長い葉巻が突き出している。着ているのは軍服のようなデザインのスモーキング・ジャケットで、濃い赤紫地に黒い別珍の襟があしらわれていた。ヴェランダのドアの把手を引くと、「鍵はあいているぞ」と滑らかな声が言った。「そのまま入ってくれてよかったんだ」
 部屋の奥にミルヴァートンが戻ろうとした時、こちらに顔が向いたので、私は再び隙間を閉じた。緊張のため鋭くなった私の耳に、入ってくるホームズの微かな衣擦れの音が届いた。一呼吸置いて、私はまた合わせ目を開いた。

 ミルヴァートンは暖炉の前の赤い革貼りの椅子に腰をおろしていた。上体をそらせ、脚を伸ばして、葉巻はなおもその口から尊大な角度で突き出ていた。その視線の先に、明るいところへ引き出された生贄のように、電灯の光をまともに受けて、長身の、ほっそりした、黒髪の女が立っていた。顔はヴェールで覆われ、マントにあごを埋めている。その息づかいは速く、しなやかな身体全体が強い情動に震えていた。
「時間に正確なのは昔どおりだな」ミルヴァートンは言った。「おや、どうした、なんで震えているんだ? ああ、それでいい。しゃんとしたまえ。さて、仕事の話だが」彼は机の引出しからノートのようなものを取り出した。「君の望んでいるものは金庫の中だ。約束通り、代償を払ってくれればお渡ししよう……おや、これは──」
 ホームズは一言も喋らずに、ヴェールを上げ、マントを床に落ちるままにして、夜会服に包まれた優美な全身をあらわにしていた。黒髪に縁取られた端正な顔がミルヴァートンと向かい合い、強い意志を表わす濃い眉の下で長い睫毛が灰色の目を昏くしていた。まっすぐな薄い唇は危険な笑みをたたえていた。

「君は女に生まれていても十分私の獲物だったな」ミルヴァートンは身体をゆすって笑った。ホームズの表情は変らないまま、眉の間の縦皺が深くなるのが見えた。「誇り高くて強情な女というのも私の好みでね。そういう女のプライドを打ち砕いて従わせるというのはいいものだ。こうして見ると、君はそういう女に扮するのにぴったりの女優だ」
 ミルヴァートンは立ち上がると、葉巻を手に、ゆっくりとホームズのまわりを一周しながら、美術品でも嘆賞するように眺め入った。そして、あいている手を彼の肩にかけて手近な椅子に座らせると、葉巻を置き、身をかがめてその唇に接吻した。私のいるところからはミルヴァートンの、てらてらと電灯の光を反射している薄くなった頭頂部と、両脇にだらりと垂らしたホームズの腕の先で白い指が引きつるのが見えた。私はもう少しでカーテンの蔭から飛び出して、ミルヴァートンの禿げ頭を銃把でぶちのめすところだった。しかしその時、ミルヴァートンが不意に鋭い悲鳴を上げ、ホームズの両肩を突き飛ばしたので彼は横ざまに床に倒れた。

 ミルヴァートンは口を押えて立ちつくし、私は今の声が外に洩れなかったかと耳を澄ましたが、何の物音もしなかった。床から身を起こしたホームズは、帽子とかつらが脱げ落ちていた。口の周りに赤いしみが広がり、それは口元から手を離したミルヴァートンの方も同様だった。口紅と彼自身の血を手で拭うと、ミルヴァートンは床に薄赤い唾を吐いた。
「こんな真似をしたところでどうにもならないぞ」その発音から察するに、ホームズは奴の舌を完全には噛み切ってやらなかったようだった。「私がここで騒ぎ立てさえすれば、使用人が駆けつけてお前は逮捕される。第一、そうなったら困るのはそっちだろう。どうしたんだ、このあいだはずいぶんとおとなしい子猫ちゃんだったの……」
 ミルヴァートンは言葉を途切らせた。いつの間にかホームズの手に黒光りするリヴォルヴァーが握られていて、その銃口が彼の顔にまっすぐ向けられていたのだ。
「金庫を開けるんだ」

「私を殺せるはずはない」声を震わせてそれでもミルヴァートンは言った。「そんなことをしたら貴様もおしまいだ」
「お前が金庫にしまっているものを公表されたらどの道おしまいなのさ」ホームズは低い声で言った。「彼が読むことを恐れているんじゃない。何があろうと彼は僕の味方だし、僕を愛してくれる。だが、僕たちの関係が世間に知れて糾弾され、万が一にも彼と引き離されるようなことがあれば、それこそ僕は生きちゃいられない。あの夜、だからこそ、僕は心乱れて、そこの扉から入ってきて、お前に慈悲を乞うたんだ。そしてお前は僕をあざ笑った。今も一生懸命笑おうとして、唇がひきつるのを止められないようだな、臆病者め。そう、お前は僕と、ここでもう一度こんなふうに対決することになろうとは夢にも思わなかった。しかしあの夜、これからも言いなりになると約束しさえすれば、お前は喜んで無防備な一対一の差し向いで会うと知ったんだ」

 二人はしばらく無言でにらみ合っていたが、やがてミルヴァートンが肩をすくめると、暖炉の脇の背の高い金庫に近づいた。跪いてダイヤルを操作し、磨き込まれた真鍮の握りをつかんで厚い扉が重々しく開かれたところでホームズが命じた。「よし、そこから離れるんだ」そして暖炉の反対側の壁際に彼を立たせると、拳銃をつきつけたまま、カーテンの蔭の私に声をかけた。「ワトスン君、出て来い」
 私が姿をあらわすとミルヴァートンは明るい灰色の目を見張り、それから破顔一笑した。「これはこれは。はじめてお目にかかりますな。あなたがこの御婦人の献身的なナイトか」さすがに、私が彼に向けた軍隊式の拳銃を見ると、その丸い顔から笑みが消えた。
「ワトスン、金庫の中のものをすべて暖炉に放り込むんだ」
 ミルヴァートンは顔色を変えた。「待て。貴様に関係のあるものだけ持って行けばすむはずだろう」
「いや、残らず焼いてやる、お前はもうこれ以上、僕にしようとしたように、他人の人生を破滅させることなんかできやしない。これ以上、僕にしたように、他人の魂を踏みにじったりできやしない。僕は世の中から害悪を一つ取り除いてやるんだ」その顔は暖炉の炎に照らされて悪鬼のようだった。
「やめろ、それは私の財産なんだ」私が拳銃をなおもミルヴァートンに向けながら、片手で書類の最初の束を金庫から引き出すと恐喝者は叫んだ。
「汚れたその財産のために命を捨てたいのか」ホームズは相手の鼻先に拳銃を突き出した。
「私のその財産の中から、ケチな情報を欲しいばかりに」不意にミルヴァートンの声が嘲るような調子に変わった。「昔、さんざんサービスしてくれた顔の綺麗な小僧っ子がいたものだが。それが“奥さん”になるとこうも変るものか。いくらか薹は立ったが、柄にもなく操立てして嫌がるのを無理やりというのも、なかなか乙なものだったぞ」

 ホームズの拳銃が震え出した。右手を左手が押えて引金を絞ると見えた刹那、ミルヴァートンが思いがけないすばやさでその腕を下から払った。拳銃が宙に飛んだ。同時に、私がミルヴァートンに飛びかかり、その頭を銃の台尻で殴りつけた。
「ワトスン、どくんだ」
 言われて私は反射的に飛びのいた。ホームズは、拾い上げ、構え直した拳銃を、頭を押えて唸っているミルヴァートンに向け、二フィートもない距離から続けざまに引金をひいた。「食らえ、食らえ、食らえ」ホームズの甲高い声が響いた。ミルヴァートンの身体は二つに折れて激しく咳き込み、テーブルにつかまって立ち上がろうとしてその上に突っ伏した。それでも身を起こしてよろよろと足を踏みしめようとしたところを、もう一発撃ち込まれてあおむけにひっくり返った。「畜生」かすれた声でそう叫んだきり動かなくなった。ホームズはじっと見下ろしていたが、足を上げると、その顔を柔らかい靴底で踏みにじった。それからもう一度覗き込んだが、相手は何の声も立てず、ぴくりともしなかった。
 
 ホームズは肩で息をしていたが、拳銃を胸もとに押し込むと、機敏な足取りで廊下に通じる扉に近づき、錠を下ろした。同時に、遠くから人声がして、それが次第に大きくなりながら慌しい足音が近づいてきた。驚くべき冷静さで、ホームズは今度は金庫のところへ行き、手紙の束を腕いっぱいに抱えると暖炉の火の中に投げ込んだ。二度三度それを繰り返し、金庫が空になる頃には、誰かがノブをがちゃがちゃ回し、扉を激しく叩いていた。ホームズはすばやく周囲を見回した。テーブルの上にミルヴァートンのノートが、持主の血にまみれて残っているのを見ると、燃えさかる書類の中にそれを投じ、帽子とかつらを拾い上げてそれも無雑作に投げ入れた。髪の焦げる臭いが立ちのぼった。炎がヴェールや造花を舐めて脆い塊に変えるあいだに、覆面をつけ、ドレスを脱いで小脇に抱え、マントを元通り身にまとった。それから彼は、ヴェランダへ通じる扉から鍵を抜き、私を先にして出ると外から鍵を掛けた。「こっちだ、ワトスン。この方向へ行けば塀を越えられる」

 こんなに早く異変が家中に伝わるとは思いもよらないことだった。振り返ると、宏い家全体が煌々と明りをともして闇に浮び上がっていた。正面扉が開け放たれ、馬車道へ人々が飛び出してきた。庭にも人があふれて、私たちがヴェランダから姿をあらわすのを目ざとく見つけた男が一人、声を上げて追ってきた。潅木の茂みの間を縫うように走るホームズに私は続き、少し離れて先頭の男があえぎながら駈けていた。行く手を遮るのは六フィートの塀だったが、ホームズは女の服をその向うに投げ込むと、よじ登って乗り越えた。私が彼に倣った時、先頭の追っ手が私の足首をつかんだが、私は足をばたつかせて振りほどき、ガラス片の植わった笠石を這うようにして越えた。何かの茂みにうつぶせに落ちたところをすかさずホームズに助け起こされ、私たちはハムステッドの広大なヒースの野へと走り出た。二マイルも走ったろうか、ホームズがついに足を止めて耳を澄ませた時、背後は静まりかえっていた。ここまでくればもう安心、追っ手を振り切ったのだ。闇の中で私たちは言葉もなく抱きしめ合い、まだ息を切らしている唇を重ねた。
 

「もう起きるの?」私はシーツの下から手を伸ばすと、ホームズが着ようとしていたシャツの裾をつかんだ。
「レストレードが来る」私は彼の腰に腕を回したが、ホームズはその腕をはずして私の掌に接吻した。「君はまだ寝ていればいい」
 そうと聞いては寝ているわけにいかなかった。事の成り行きをぜひ見届けねばならない。私たちがいぶせき居間でゆっくりと朝食をしたため、朝のパイプをくゆらせているところに、しかつめらしく、もったいぶった、ロンドン警視庁のレストレード警部が案内されてきた。
「おはようございます、ホームズさん、ワトスン先生」と彼は言った。「早速ですが、目下ご多忙でしょうか」
「君の話を聞けないほどじゃないよ」
「もしも、今これといった事件を手がけておいででなければ、ゆうべハムステッドで起きたばかりの事件に、手を貸していただけないかと思ったのです」
「ほう」ホームズは言った。「どんな?」
「殺人です。富裕な人物が自宅の居間で至近距離から弾丸を撃ち込まれるという、非常に劇的な、注目すべき事件です。この種の事件にホームズさんがことのほか洞察力がおありなのはよく存じていますので、アプルドア・タワーズまでご足労願え、助言を頂戴できるなら非常にありがたいのです。どこにでもあるような犯罪では全くありません。殺されたミルヴァートン氏にはわれわれも以前から目をつけていまして、まあ、ここだけの話ですが、ちょっとした悪党でしてね。恐喝目的で手紙や書類を買い集めていることで知られていたんです。それも残らず、犯人たちに焼かれてしまいました。金目のものは盗られていません。かなり地位のある人物が、書類が外に出るのを防ぐ目的だけでやった可能性が高いのです」

「犯人たちと言ったね」ホームズは言った。「複数犯なのか」
「ええ、二人組でした。もうちょっとで現行犯で捕まえられたんです。足跡が残っており、人相も分っています。すぐに見つけますよ。一人は結構すばしこい奴でしたが、もう一人は庭師の下働きに捕まりかけて、小ぜりあいの末逃げおおせました。中背のがっしりした男で、 角張った顎、太い首、口髭を生やし、顔の上半分を隠すマスクをつけていました」
「どうも漠然としてるな」シャーロック・ホームズは言った。「それだけならどこにでもいそうな男じゃない」
「実は、ホームズさんが興味をお持ちになるに違いない点は他にあるんですよ。ミルヴァートン氏には同じ時刻に、女性の訪問者があったのです」
「ほう」
 ホームズの関心を惹くのに成功したと信じて、レストレードは嬉しそうに揉み手をした。

「夜の十一時に女客があると言われて、メイドが裏門のかんぬきを掛けないままにしたそうです。犯人もそこから侵入したと思われますが、ここに一つ不思議なことがあるのです」レストレードはもったいぶって言葉を切り、ホームズと私はじっと次の言葉を待った。「私たちは、オックスフォード街からチャーチ・ローまで男女の二人連れを乗せたという辻馬車を見つけました。時間も事件の直前で、ぴったり符号します。観劇帰りらしく正装しており、女は黒いマントにヴェールの付いた帽子、ちらりと見えたその顔は、秀でた鷲鼻、きりっとした眉に鋭い目で、薄い唇の、それほど若くはないが、すらりとした、とびきりの美人だったそうです。一方、男の方は女よりも背が低いくらいで、人相も体つきも、ミルヴァートン家の庭師の手伝いの言うところと一致します。仲睦まじい様子で夫婦に見えたと馭者が証言しています。私が直接尋問したんですが、あんな女神のような女に惚れられるなんて幸運な男もあるものだと嘆息していました。この二人がミルヴァートン邸の庭を足早に横切るのを、メイドの一人が窓から見ています。客が忍んでくるのは知っていたので、二人であっても不審には思わなかったと言っています。彼女は寝つけずにずっと外を見ており、銃声がして騒ぎになったあと、ヴェランダから男二人が逃げ出すのも目撃しました。ところが、もう一人の男が入るのと、女が出て行くのは見なかったと言うのです。要約しましょう。女は確かにミルヴァートン邸に足を踏み入れた。しかし逃げる姿を大勢の人たちに見られたのは男二人です。二人目の男はどうやって入り、女はどうやって逃げたのか。さあ、ホームズさん、この謎をどう解かれますか」

「残念だが君の力にはなれそうにもないよ、レストレード」ホームズはあっさり答えた。「実を言うとミルヴァートンのことなら、僕もいささか心得ている。ロンドンで指折りの危険な奴と見なしていたさ。そして同時に、法律の手が及ばない犯罪もあるのを知っているから、そういう犯罪に対しては、ある程度、私的な制裁も許されると思っている。いや、議論の余地はないよ。僕の心はもう決まっているんだ。僕は被害者よりも犯人たちに共感するから、この事件を扱うことはこの先もありえない」
 ついに諦めてレストレードが辞去しようと背を向けた時、ホームズと私は目を見合わせた。ホームズはその長い人差指を唇に当てた。そして警部の足音が階段を遠ざかると、元の椅子におさまって私に言った。「連中が無実の人間を捕まえるようなことが万一あれば、その時は反証を挙げてやるさ。そうでもないかぎり手出しは無用だ。何か見つけられるとは全く思っていないけどね」

 そのとおりになった。ホームズが途中で投げ捨ててきたドレスさえ、警察が見つけることはなかったのである(あのあたりの浮浪者と古着屋を当たる才覚がレストレードにあれば見つかったろうとホームズは言った)。十分な時間が経ってこれを材料に短篇を書いた時、私は庭師の下働きが証言し、レストレードが説明した犯人の特徴について、「それじゃワトスン君の人相と言っても通るじゃないか」とホームズが応じ、レストレードが面白がるという愉快な細部をつけ加えた。ホームズの女装について言えば、あれほど見事に本物の女として無理なく通るのは、いや、それ以上に見えるのは、私の知るかぎりでは他にはアイリーン・アドラーと名乗っていた「いかがわしい女として一般には知られていた」人物だけだ。“彼女”の写真をホームズが手元に取っておいたというのは『ボヘミアの醜聞』の中でのみの話で(“ボヘミア王”から実際に贈られたのは嗅ぎ煙草入れてある )、ホームズは確かに彼のthe womanの写真を生涯大切に篋底に秘めていたが、それが彼の恋愛対象だなどと主張するのは、私の小説の「アドラー」が「ホームズ」の恋愛対象だと(そうではないと明記したのにそう思いたがる読者があとを絶たない)言うのと同じくらい馬鹿げている。かの記念すべき短篇第一作との関連を匂わすために、私は『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』の最後に、ホームズとワトスンがリージェント・サーカスの手前にあった貴顕紳士、その夫人、世に知られた名花の写真をショウ・ウィンドウに掲げた店を訪れる挿話を入れた。だが、たとえ、彼らがそこに見出したとされる「微妙なカーヴを描く鷲鼻、きわ立った眉、引き結ばれた唇、その下の小さいが強い意志を示す頤」が誰かの写真と一致しようとそれはただの偶然に過ぎない。ゆめお間違いなきよう願うものである。


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by kaoruSZ | 2013-04-30 23:07 | 文学 | Comments(0)