おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

アッティス――“ライオンのたてがみ”の起源

『空家の冒険』でワトスンにぶつかられた古本屋の老人(実ハ変装したホームズ)が落した本の中に、ワトスンは『樹木崇拝の起源』という題を認める。そしてワトスンの書斎で老人が本棚の隙間を埋めるよう勧める際に名のみ出てくるのは『カトゥルス詩集』(カタラスとも。原文ではたんにCatullus)である。創元推理文庫版の後者に対する注(前者にはない)には「ガイウス・ヴァレリウス・カトゥルス(紀元前八四?―五四?)はローマの著名な抒情詩人」とあるのみだ。これでは何もわからない。

 一方、オックスフォード版の邦訳を河出書房新社から出したホームズ全集には、『樹木崇拝の起源』の方にかなり詳しい注が付いている。うち、「注14」はこの本を、『ガイウス・ヴァレリウス・カトゥルス作の「アテュス」英訳詩――アテュス伝説及び樹木崇拝の起源、並びにガリアンブス格韻律に関する論文付き』前オックスフォード大学マートン・カレッジ給費生グラント・アレン文学士著(一八九二年、デイヴィッド・ナット社刊)と同定し、“この本の論文(本全体の大半を占める)では、「全ての神々の起源は霊であり、神聖な樹木や木の神は、聖なる祖先の古墳や塚に生えていることで、その尊厳を得た」としている”と至れり尽せりの記述をしている(実はこのオックスフォード版注釈、どうでもいいことを長々と書くのが特徴の一つなのだ)。

 注14はここまででまだ全体の半分も行かず、あとは著者のフルネーム、生没年、生地、代表作、ドイルとの関りが記されている。アレンはストランド誌に小説を連載中に逝去、遺作をドイルが補筆完成させたというが、ここまでの間に、二冊の本に関しては、表題以外に有益な情報は全く出てこない。

 もう一冊の本、ワトスンが勧められる「カタラス詩集」 については、注17にこうある。“ 「カタラス詩集」 : 「樹木崇拝の起源」に関する注14参照のこと。”
 どう参照できるのか? 注14に「カタラス」なぞ出てこない。カトゥルスの英語読みだと気づかなければ参照しようがないのだ。

 それは翻訳者の問題だとしても、「カタラス詩集」に注せずに「樹木崇拝の起源」へ送り返してしまうとは。他ならぬ「訳者あとがき」にさえ載っている、「知る人ぞ知る、露骨な性愛の技巧をうたった詩集である」ことすら記さない。そしてカトゥルス(カタラス)が女への愛のみならず、少年愛をも歌ったことはどこにも記されていない。

 ところでさっきの、長い題名及び著者の長い肩書を持つ「樹木崇拝の起源」であるが、英語のキーワードを見つくろってGoogleにほうり込むだけで判ったことがある。1892年刊行のこの本は、ナット社がいまだに扱っており(アマゾンでヒットする)、しかもウェブ上で全文が読めるのだ。

 たとえ全文は読まなくとも目次と構成を見ただけで、また長ったらしい表題自体から判るように、この本は最初に「アテュス」(アッティス)全文の英訳を載せている。オクスフォード版の注釈者は、樹木崇拝の起源についての論文が「本全体の大半を占める」(そりゃ分量的にはそうだ)ともっともらしく主張することで、この詩を検閲したのである。

 ドイルが『樹木崇拝の起源』と『カトゥルス詩集』の二つの書名を『空家の冒険』に書き入れたのは、読者が、二つに切られた宝の隠し場所の地図を再び合わせるように、かの二冊を合わせて答を出せるようにである。それは、『樹木崇拝の起源』に引用、訳出された、「カトゥルス」の詩を参照せよという指示でしかありえない。しかし、オックスフォード版の注釈者は『樹木崇拝の起源』から、わざわざ関係のないところを抜き出した。読むべき部分はそこではない。注釈が無視した部分、カトゥルスの詩「アッティス」だ。

 ところで、T・S・エリオットの『荒地』をご存じの方なら、アッティスの名だけで気づかれたであろう。エリオットは『荒地』自註に、ウェストンの著作と並べてW・フレイザーの『金枝篇』、特にアドニス、アッティス、オシリスを扱った第二巻に、自分の長篇詩が多くを負うと明記している。要するに死んで甦る、冬に枯死して春に再生する植物神の話に――というだけならたんなる知識だが、カトゥルスの詩を知れば情景は一変する。

 アッティスは女神キュベレーの息子で愛人だったが、女と結婚しようとしたため、嫉妬した女神によって正気を失わされ、恍惚のうちに自ら去勢し、身体を八つ裂きにするという、血みどろの話である。さらに、キュベレー自身、もとは両性具有だったのが男根を切り取られ、そこから生えたアーモンドの木に生った実を懐に入れた女が身籠って、生まれたのがアッティスなのだから、キュベレーは母というよりむしろ父、あるいは父の身体の一部から彼が生ったようなものであり、またキュベレーはゼウスの子だが、アフロディーテーの場合に似て精液だけから生じており、二代続けて単性生殖と言ってよさそうなのだ。

 ホームズもののサブテクストとしての同性愛という点から見て重要なのは、言うまでもなく、アッティスの物語の中に見られる、性的アンビギュイティやサド-マゾヒズムである。さらに特に注目されるのは、これが、「結婚しようとした男が罰せられる話である」ことだ。

 キュベレーはライオンの引く車に乗っており、カトゥルスの詩では、「すべての場所に低いうなり声を響かせなさい。太い首にある黄金のたてがみを猛々しく揺らすのです」と言って女神が解き放ったライオンは、「白く輝く海岸の水辺にたどり着くと、いたいけなアッティスが海面の近くにいるのを目にし、攻撃をしかける」(中山恒夫訳)

 これに似た話をホームズものの読者はご存じだろう。「シャーロック・ホームズの事件簿」の一篇、ホームズが語り手となっている点で異色の短篇『ライオンのたてがみ』(ちなみにエリオットに酷評された)だ。鞭で打たれたような痕を全身につけて水際に倒れていた若い教師マクファースンは、「ライオンのたてがみ」というダイイング・メッセージを残して死ぬ。彼もアッティス同様、結婚しようとしていた。やがて見出される、水中の“アブジェクト”の描写はつぎのようなものである。

「……もつれた毛のかたまりのような異様なものだった。水中約三フィートばかりの岩棚に横たわって、奇妙にゆらゆら揺れたり、ふるえたりしている、黄色い房に銀色の筋のまじった毛むくじゃらなもの。それは息づいていた。ゆっくりと、重々しく、ふくらんだり、縮んだり、脈動をくりかえしている」

 ホームズと校長のストックハーストは、この怪物を退治すべく、岩棚の上の丸石を二人がかりで押して海中に落す。「波紋が静まってみると、石はまちがいなく岩棚にのっていて、そのふちから、黄色い膜状のものがひらひらのぞいている。どうやら敵が石の下敷になっていることは確かなようだ。やがて石の下から、なにかどろっとした油じみたアオミドロのようなものがしみだし、周囲の水を濁らせながら、ゆっくりと水面に浮いてきた」という気持ち悪さには、地元の警部ならずとも「いったいこりゃなんですか、ホームズさん?(…)こいつはサセックス根生[ねお]いのものじゃないですな」と、いや、むしろこの世のものではないと言いたくなろうが、ホームズは書斎に彼らを連れ帰ると、前日確認しておいた本を開き、まるで“電子計算機”を駆使しつつ謎の加害者を「ラドン」と同定した博士のように、「恐るべき毒針を持つ」クラゲ、キュアネア・カピラータこそ、被害者の膚に焼けた針金か鞭の痕のような、無惨なしるしをつけた犯人だと断定する。

 エリオットが「単に博物学の蘊蓄を傾けただけであって、とうてい探偵の仕事とは言えない」と書いたゆえんだが、しかしエリオットも通俗小説と舐めてかからず、ドイルの仕事に対してその達成に釣り合うだけの十分な注意と敬意を払った批評の仕事をするつもりなら、探偵の言葉を鵜呑みにせずに、ちゃんとこの生物を直視すべきであった。そしてその正体は本の中に求めるべきであったが、エリオットはその本が何かを知らなかったのである。『空家の冒険』に出てきた本、しかも彼にとってきわめて馴染み深い本でありながら。

 女と結婚しようとしていた男を襲った“ライオンのたてがみ”は、「たてがみ」であるからには、切断された頭部である。毛むくじゃらで、息づき、ふるえ、膨らみ、縮み、脈動する。これはメドゥサの首だが、メドゥサの首自体がそもそも去勢象徴なのである。メドゥサの首を見たものは“石になる”。フロイトによれば石のように固くなるとは勃起を意味し、去勢の脅威をまのあたりにしながらも、男の子にとっては自分が男根を失っていないという慰めでもあり、母の性器を覆う毛は同時に男根の不在を隠すヴェールでもある。蛇となったメドゥサの髪はそれ自体が複数化された男根であり、去勢の表現でありながら去勢の否定でもある等々と説明される。要するにそれは去勢(斬首)の脅威が現実に形を取ったものとして、泳ぎに来た男を襲ったのだ。

“ライオンのたてがみ”は本質的に女の怪物であり、 たてがみとはメドゥサの髪である蛇、去勢に対抗して多数化し、鎌首をもたげる男根に他ならない。“ライオンのたてがみ”とは、こうした葛藤の表現であり、現実には存在しえないものだ。間違っても「博物学」の下に分類される生物などではない。

 死んだマクファースンを愛していた別の男性教師の嫉妬がここには働いており、それは語り手であるホームズの、不在のワトスンへの感情を代行するものであるが、ここではそれに深入りはすまい。ただ、『空家の冒険』に先立って、ホームズ復活以前にドイルの書いた『バスカヴィル家の犬』もまた、女と結婚しようとした男の受難の話であり、「魔犬」とは“ライオンのたてがみ”と同種の怪物であることを指摘しておこう。言うまでもなく『バスカヴィル家の犬』では結婚は阻止され、ハッピーエンド(男同士の)に終る。

 二つの話の中で「犬」が果たす役割も見逃せない。『ライオンのたてがみ』の死んだ教師は小犬を飼っていたが、『バスカヴィル家の犬』のモーティマー医師もスパニエル(「テリヤより大きくてマスティフよりは小さい」)を連れている。「犬」の一語が表題に含まれている小説でのっけから犬を連れて現われる男。途中でいなくなってしまい、後に沼地の中の島で褐色の毛が付いた頭蓋骨が見つかる巻毛のスパニエルと、かのバスカヴィルの魔犬には何か関係があるのだろうか。結論から言えば両者は同じものなのだが、これについては稿を改めるしかあるまい。

 思えばホームズは学生時代の唯一の友人ヴィクタァ・トリヴァと、彼のブルテリヤにくるぶしに噛みつかれたことで親しくなったのだった。「散文的な友だちになりかたさ。だが効果的ではあった」(『グロリア・スコット号』)「おかげで僕は十日ばかり病床にはいたけれど、そのあいだトリヴァはよく見まいに来てくれた」

 実はこれは『バスカヴィル家の犬』で犬に喉を噛まれた(牙は通っていない)サー・ヘンリーが、モーティマー医師に面倒を見られる挿話のささやかなヴァリエーションである。ホームズは「その学期の終らないうちに」彼と「親しい友人関係に入」り、モーティマーはサー・ヘンリーのずたずたにされた神経と傷ついた心を癒やすため、ともに「世界漫遊の旅」(!)に出る。逆に言えばホームズが小犬に足を噛まれる話をうんとふくらませたものが『バスカヴィル家の犬』なのであり、ヴィクタァとホームズの関係もそこから逆に推測できようというものだ。

 バスカヴィルの魔犬の出典は「直接的な執筆のきっかけだった伝説のそれ以上に、ドラキュラ伯爵が変身した狼であろう」とtatarskiyさんが書いている(連続ツイートの一部を最後に載せておく)。ブラム・ストーカーには、公刊された、異性愛的でホモソーシャルな、女に対して懲罰的な『ドラキュラ』本篇からは外され、短篇として死後出版された『ドラキュラの客』があるが、そこでは狼の牙がかろうじてそれた状態で語り手が助け出されるという、サー・ヘンリーの場合と酷似した状況で、しかもドラキュラが恐怖と魅惑をともに体現する「父」であること、男性が異性愛体制から逸脱し、「父に対する女性的態度」(フロイト)を受け入れる時に可能になる快楽のありかを指し示しているという含意が見間違いようもない。喉に傷がない(と言われる)サー・ヘンリーの純潔は一見守られたかに見えるが、結局のところは御同類になってしまったのだろう。

 tatarskiyさんから電話があってあれらの犬たちについて話した時、『ライオンのたてがみ』の数学教師マードックが、死んだマクファースンの小犬をいじめたのは、『グロリア・スコット号』を読んで犬に噛みつかれれば男と仲良くなれると思って噛みついてもらおうとしたんじゃないの?と私が言ったのは冗談だが、なんで犬に乱暴を働いたのかは読み直してもやはり書かれていない。しかし、strangeと繰返し形容されているマードックが「ベラミー嬢にマクファースンが心を寄せるのを、快く思っていなかったと思われるふしもある」とは、ベラミー嬢を好きだったからではなくて、彼自身がマクファースンに心を寄せていたからであることは明白だ。つまり、今の一節で、ホームズの語りは確かに真実をついていたのだが、本当のことが判明しても読者には教えてくれないし、自分はベラミー嬢を愛していたが「友人のマクファースンを彼女が選んだと知ったときから」「自分は身をひいて、ふたりの仲介役に甘んじることにした」というマードックの告白は言うまでもなく最初の部分が嘘なのだ。人里離れた地の、うち二人は男子校の教師であるこの三人の独身者たち。校長のスタックハーストがマードックに対する疑いを詫びて「『どうかこれまでのことは水に流してくれたまえ、マードック』ふたりは仲よく腕を組んで出ていった」とはどうみてもカップル成立であり、成程tatarskiyさんの言うとおり、これはホームズが男を取られる話に違いない(通ってくる本命(ワトスン)がいるホームズの浮気の相手なのを承知の上で、スタックハーストはつきあっていたのだろう)。

 警部がホームズを大いに賞賛し、彼は謙遜気味に応えるが、これはもう探偵小説としての体裁をととのえるためのものに過ぎない。とはいえ、ここでのホームズの言葉が、水ぎわの境界領域をめぐってのものであることは興味深い。沼沢地方にせよ、かの滝にせよ、死は水辺あるいは水中で起こるのだから。

「祖国からも財産からも友からも親からも離れて行くのですか」と問うたアッティスは、キュベレーのライオンに追われて森の中へ逃げ込み、「そこで終生変わることなく女奴隷として過ごした」とカトゥルスは歌う。『空家の冒険』に戻るなら、ここには、ホームズに帰ってこられて、家も診療所も取り上げられ、ベイカー街で再び同居することになったワトスンの運命とのいくばくかの類似がうかがえよう(むろん、ここまでハードでないにしても)。一度はワトスンに結婚されてしまったホームズが、彼が再び独身となったのを知って戻ってきた時、本当に起ったこととは何か。今それについて述べる余裕はないが、遡って『最後の事件』で本当は何があったかを推理したtatarskiyさんの「『最後の事件』ノート」http://kaorusz.exblog.jp/19549811/で、さしあたっては渇を癒していただきたい。それでは足りないという方は、拙作『晝顔』http://kaorusz.exblog.jp/m2013-05-01/で、『空家の冒険』に至るまでの話をお読みになることをお薦めする。

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 tatarskiy@tatarskiy1                           1月11日

『具体的に言うとバスカヴィル家の犬』と『恐怖の谷』は、ホームズとワトスンが実際に遭遇した他の事件=最初の長編2つやそれまでに書かれた短編の細部、作中世界ではワトスンが、現実世界ではドイルが参照した実在の事件の資料、そしてワトスン=ドイルが影響を受けた他の作家の作品という、由来の異なる三種の外部テクストの“引用”によって成り立っている。

これはメタレベルで言えば他のエピソードもすべてそうなのだが、他のエピソードが作品世界の時系列中に実際に起きた出来事に根拠を持つのに対し、この二つの長編はワトスンがある同じ目的のために書いた完全なフィクションなのだ。

これも具体的に言うと、実在した事件(または伝説)の資料とは、「犬」ではその巻頭の献辞にもある西部イングランドの伝説、「谷」ではアメリカで実際に起きたアイルランド系秘密結社をピンカートン探偵社の探偵が潰滅させたという事件の記録であり、誰にでもわかる外形的なモデルを形成している。

そして他の作家の作品とは、この場合は「犬」におけるブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を指す。あの魔の犬のイメージの出典は、直接的な執筆のきっかけだった伝説のそれ以上に、ドラキュラ伯爵が変身した狼であろうし、作品のテーマと結末そのものが、ホモソーシャリティと異性愛の勝利に終わった『ドラキュラ』のそれを逆転させた、男の結婚の阻止と同性への愛の成就というパロディ的な意味を持ってもいるのだ。

普通にシリーズを通読した場合でも、「犬」が他の三つの長編と著しく異なる特徴として、事件の推理部分である第一部とその発端となった過去の回想である第二部という形式を取らないことが挙げられようが、実はそれを帰結しているのは、そのプロットにおける異性愛のロマンスの実質的な欠如である。



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昨年末から今年1月11日までのツイートに最小限加筆訂正した。
ドイルのテクストは延原謙、深町眞理子訳を使った。
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by kaoruSZ | 2013-12-11 08:29 | 批評 | Comments(0)