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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

彼らの悪、彼らの秘密――エドワード・ハイドからアイリーン・アドラーへ(上)

『ナボコフの文学講義』は『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』に一章を割いているが、この中でジキル博士の隠された悪徳、具体的にはハイドが耽っているとされる“悪”について、ナボコフはこう説明する。「アタソンが先ず考えたことは、ハイドが善良な博士を強請っているということだった――独身の男が蓮っ葉な淑女たちと付き合ったところで、強請りのたねになるどんな格別な理由が出てこようか、とても想像できぬことだ」

 これにならって、コナン・ドイルの『ボヘミアの醜聞』について、「独身の君主が玄人女と写真を撮って何の問題になろうか」と問うことができよう。ボヘミア王の元愛人には、どう考えても別の秘密があったのだ。ナボコフはハイドの悪徳について「推量できる唯一のことは、それがサディスティックなものだということである」と言うが、女性相手の通常の放蕩を上のように否定しながら、ナボコフは「かかるヴィクトリア時代風の寡黙はおそらくスティーヴンソンが予期もしていなかったような結論へと」現代の読者を導くとして、それが同性愛である可能性をを早々に否定する。

「たとえば、ハイドはジキルの被保護者でありかつ彼の恩人だと呼ばれているがハイドにはもう一つの形容詞がほのめかされている、つまりヘンリー・ジキルのお気に入りというのだがこれはほとんど“お稚児さん”というも同然に響いてひとは面喰らうだろう。(…)すべて男から成る様式というのも、ちょっとひねって考えれば、ジキルの秘密な冒険は、ヴィクトリア時代のヴェールに包まれながら、ロンドンでさかんにおこなわれていた同性愛的所業であったと、勘ぐれないこともあるまい」
 なぜ、そう「勘ぐって」はいけないのか。ナボコフの文中に、それを否定し、原作者が想像もしない結論と決めつける根拠は何一つないのだが。
 

 この小説に独身男しか登場しない理由として、ある批評家が、ロバート・ルイス・スティーヴンスンは「『ヴィクトリア時代の禁制の下で仕事し』、物語の中にその修道士めいた様式にそぐわない異質な色合いをそえようとは欲しなかった」ので、「ジキルが耽溺した秘密な快楽の上に彩られた女性の仮面をかぶせるのを、意識的に避けたのである」と主張しているのを引くナボコフは、ジキルの「秘密の快楽」として、女性相手のサディズム以外のものをはなから排除しているようだ。

 確かに、ジキルとハイドのイメージをポピュラー化した映画の中には、彼らの快楽を、女を鞭で打たせることで表現したものもある(だが、サド侯爵だってたんにサディストだったのではなく、従僕に犯されるのが好きで自分をラ・フルール(澁澤龍彦によれば「お花ちゃん」)と呼ばせたのだから、これはいかにも安易で早計ではないか)。

 ナボコフはこれを小説の技法的な問題として処理しようと試みる。女を出すと話が複雑になり、ハイドの陰気な姿と「陽気な伊達男」を共存させるのは「芸術[技術]的にたいへん困難なことになっただろう」から、スティーヴンスンはそうしなかったのだと言う。悪徳の正体を描写しないままの方が「この芸術家にとって無難だった。だが、この無難、この安易な方法は、この芸術家のなかの一種の弱さを示していないか」。しかし彼は、ここで隠されているのが、「ロンドンでさかんにおこなわれていた同性愛的所業」であるとだけは考えないのである。同性愛だなどと取られるのは予期すらしていなかったと決めつけられ、しかも“弱さ”を指摘されてしまうスティーヴンスン。

 実を言えば、ナボコフの本から十年後に出たエレイン・ショウォールターの『性のアナーキー』を見ると、これはすでに解決済みの問題のようだ。無論、ハイドの悪徳とは同性愛であるという線で。ショウォールターによれば、男性同性愛が違法とされたせいで、当時の読者は「ゆすり」という語が出てきただけで、容易に同性愛を連想しえたという。

 ゲイル・マーシャルは"Victorian Fictions"という本で、このショウォールターの見解が、同時代の医学・心理学的言説を考慮に入れたものであると述べている。そして、攻撃的で暴力的に見えるハイドが、実は、小柄で、神経質で、ヒステリー的な発作を起こす、つまり、通常、女性的とされる特徴を持つことを指摘する。『ジキル博士とハイド氏』の世界には、「女性的なもの」が不在なのではなく、男ばかりから成るこの小説の設定が、スティーヴンスンに、彼の男性登場人物のうちに女性的なものを発見し、男だけの世界の隠された意味を追求できるようにさせたと言うのである。

『ジキル博士とハイド氏』を構成する語り、「弁護士たちと医師たちの間で手渡される語りの断片」(マーシャル)を、ショウォールターは「中断が多く、一貫性がなく、矛盾に満ちた、ヒステリーの女たちがフロイトに語った物語」にたとえたが、マーシャルによればこうした語りの断片は、ヴィクトリア時代の男性社会の「底流をなす隠された世界」に関連する語や、そうした世界への「暗号化された言及」の形をとっており、「裏のドア」「名前を持たない不具」「ゆすり」といった語の意味するものゆえに、「一八九〇年代に主流になる同性愛と両性具有の探求」を扱った小説に、この小説も含まれるとされる。

 ちなみに「一八九〇年代に主流になる同性愛と両性具有の探求」の小説に、ドイルのホームズものも明らかに含まれると私たちは考えている。ドイルの達成は比類のないもので、『ジキル博士とハイド氏』の血を引きこそすれ、その後「黄金時代」を迎える、「推理小説」の初期形態としてすませるのは、トールキンをファンタジーの始祖と呼ぶたぐいの俗説に過ぎなかろう。

 今回、『ジキル博士とハイド氏』についてのナボコフの講義を再読するうち、詳細に、当然のことながら素晴しい筆致で作品を紹介してくれる彼のおかげで、『唇のねじれた男』を書く際に(阿片窟の描写がオスカー・ワイルド写し(『ドリアン・グレイの肖像』)であることをすでにtatarskiyに指摘されていたのだが)、ドイルが明らかにスティーヴンスンの小説を参照していることに気がついた。これこそナボコフの言う、芸術[アート]を読むことだと信じるが、エンフィールドとアタスンが通りから実験室の窓に顔色の悪いジキルを発見して言葉をかわすところ 、「[ジキルの]顔にほほえみが浮んだが、それは忽ち窓下の二人の紳士の血を凍らせるような惨めな恐怖と絶望の表情に変わった。二人はちらっとそれを垣間見ただけであった。窓はとたんに閉じられてしまったからである」というくだりを、ドイルは、ネヴィル・シンクレア夫人が思わぬ場所で、三階の窓からこちらを見おろす夫の姿に出遭う場面に使っているのだ。

「窓はひらいていたから、夫の顔ははっきり見えたが、夫人はその顔に激しい動揺の色を見てとったと言っている。夫は気でも狂ったように夫人にむかって手をふりまわしていたが、それもつかのま、いきなりすっと窓の奥に姿を消してしまった。なんとなく、背後から抵抗しがたい力でひきもどされたような感じだったという」とホームズは語る。無論最後の説明は犯罪をほのめかすミスリーディングで、本当はそこにネヴィルしか(あるいは彼とその変装した分身しか)いないのだが、それはまたジキルの場合の真相、そこにいるのは彼 だけなのに、ハイドへの「変容が突如として襲ってきた」ので「この出会いが唐突に終りをとげた」とナボコフが言うところに一致する。

 
 もはや薬による不断の刺戟なしではたちまちハイドと化してしまうジキルほどではないにしても、ネヴィルの変容は迅速で完璧だ。「もとの物乞いの衣裳をひっかけると、顔を塗ったくって、かつらもかぶった。妻といえども、ぜったい見破れない変身ぶりです」と、本人があとで探偵に語る通り。

 シンクレアの秘密とは、けっして、三日やってやめられなくなった乞食道楽などではあるまい。この話は、妻の友人の頼みでワトスンが、阿片窟に入り浸ったままの夫を連れ帰りに行くところから始まるが、シンクレア夫人も、言われているようにたまたまそこを通りかかったなどというわけでは実はあるまい。

 真相は、一部は、メアリの友人の話として置き換えられているのだろう。シンクレア夫人は思いあたることがあって、自ら夫を探しに行ったのだろうし、ネヴィル・シンクレアがその三階に着替用の部屋を持っていた阿片窟は、実は阿片窟でさえないのだろう。そしてワトスンが偶然出会う、阿片中毒の老人に身をやつしたホームズさえ、ネヴィル失踪を調査に来たというのは額面通り受け取れる話ではない。ありていに言えば、それはホームズがそういう男たちの一人であることを示すものだ。例によって「しなびていた全身がしゃきっとし、顔の皺は消え、どんよりしていた目に輝きが宿った。そして、おお、そこの火鉢のそばにすわって、驚く私ににこにこ笑いかけているのは、だれあろう、わがシャーロック・ホームズその人ではないか」という、そして一瞬ののちには「そのときにはすでに、いままでどおりのよぼよぼの、締まりのない口もとにもどっていた」という、とても現実とは思えない魔法のような、というか実のところ現実ではない変身ぶりは、内容まで込みでジキルとハイドの変身に類するものと見るべきだろう。

 ホームズがシンクレアのメーキャップを、濡らしたスポンジでぬぐい去ってしまうくだりは、ラニョン博士が目撃する。ハイドからジキルへの変身――「叫びが起こった、男はよろよろとよろめき(…)男は大きくなったように見えた――顔は突然黒くなり、目鼻立ちが溶けて面がわりしたように見えた(…)次の瞬間、私は椅子からはっと立ちあがり、壁ぎわに飛びすさっていた。(…)「ああ、神よ! ああ、神よ!」私は何度も何度も絶叫した。眼前に――血の気も失せて、おののき、なかば失神状態で、いま死から甦ったばかりの者のごとく両の手を前にさし出しまさぐっている――そこに、ヘンリー・ジキルが立っていたのだ」のパロディであろう。こんなおどろおどろしく大袈裟なことなど何一つなしに、熟睡中にホームズの手であっさり元の顔にされてしまったシンクレアは目覚めて驚き慌てる。

 ジキルの秘密、ハイドの悪徳は、結局「殺人」という究極の悪により、あらわにされると見えて置き換えられ、覆いかくされることになる。だが、注意して見れば、カルー撲殺事件自体、実はそれらを指し示してもいるのだ。「この物語の焦点をはっきりさせる端緒の事件だ」とハイドのカルー殺しを言うナボコフは、この最後の点に全く気づいていない。

 この挿話の、殺される老紳士の「美しさ」は何のためにあるのか。翻訳者も途惑ってか、aged and beautifulという被害者をあらわす形容は、「上品な老紳士」とか「年配の上品な紳士」とかに訳されてきた。だが、『性のアナーキー』での引用では「老齢の美男子」であり、ナボコフの翻訳者も「美しい」を落しはしなかった。そして明らかにこの方が妥当である。ショウォールターの示唆に従えば、目撃者の目には老紳士が道を尋ねていると見えた事件の真相は、要するに年を取っても容姿に自信のあったサー・ダンヴァーズ・カルーが、深夜の路上で若い男を誘って殴り殺されたのである。

 ナボコフは『ジキル博士とハイド氏』の独身者ばかりの登場人物を、アタスンからジキルの執事であるブールに至るまで列挙しているが、カルーをもその中に入れるべきだろう。ついでにドイルの『ブルース=パーティントン設計書』にも、「長身で美貌の、うすい顎ひげをつけた、五十がらみの」紳士が出てくるのを思い出そう。『ブルース=パーティントン』でも、ホームズ、ワトスン、マイクロフトを含め、登場するのはおおかた独身男だが、その中の一人はホームズの罠と知らずに訪ねて来て、待ち構えた男たちの前で気を失うことになる。
「倒れたとたんに頭から鍔の広い帽子がふっ飛び、口もとから首巻きがすべりおちて、ヴァランタイン・ウォルター大佐の長くてうすい顎ひげと、やさしくうつくしく優雅な顔があらわれた」。

 気を失うこと自体、すでに女性性の指標であることに加え、美と傷つきやすさと受動性をかくもたやすく人々の面前にさらしてしまったこの男は、ドイツのスパイに情報を渡したのであり、ジキルの変身をまのあたりにして生き延びられなかったラニョン博士のように、彼の独身の兄までも、真相を悟ってそのまま死んでしまう。今回、再読する前から、美しい大佐はドイツのスパイと愛人関係にあったのだろうとtatarskiyに言われていた。ヴァランタイン・ウォルターはホームズたちに言う――「あいつのおかげで、私は破滅し、没落したのです」まさしくそういうことである。

 ゆすりと同性愛の密接な関わりを知ったあとでは、ホームズの話に頻出する恐喝と「秘密」にも、別の光が当てられることになろう。しかし、スティーヴンスンと較べてドイルには明確な違いが一つある。前者では醜いハイドとしてしか表象されなかったものが、「美しく」「優雅」と形容されうることだ。マイクロフト・ホームズは『ジキル博士とハイド氏』の語り手アタスンのような人だと、これもtatarskiyから指摘された。成程スティーヴンスンの小説の独身者たちは、ディオゲネス・クラブの会員にふさわしい孤独な中年男ばかりだった。アタスンは、本当は年代物のワインが好きなのにジンを飲みながら神学の本を読んで夜を過ごし、芝居好きなのに二十年も劇場のドアを潜っていない男として私たちに紹介される。ショウォールターに言わせると、彼は空想的なものに怯え、無秩序な想像力の領域を恐れているのだが、自宅と役所とクラブを規則正しく移動するホームズの兄も似たようなものである。

「マイクロフトにはレールがあってね、けっして脱線しないんだ。ペル・メルの下宿、ディオゲネス・クラブ、ホワイトホールの庁舎、そこを循環するだけなんだよ」と彼の弟は言う。「それが脱線するなんて、どんな大変化が起こったんだろう?」
「私は習慣を変えるのはいやでたまらないのだが、そんなことをいっておられない情勢だ」と、ベイカー街に現われたマイクロフトは言う。かくも強迫的な習慣への固執は理由のないことではありえない。自分を縛っておかなければ「無秩序な想像力の領域」へ脱線してしまうのではという恐怖。軌道を踏み外した結果は彼らの前に、もう一組の独身の兄弟の形をとって現れる。多数の勲章と肩書を持つジェイムズ・ウォルター卿は、ホームズが面会を求めた時にはもう死んでいた。弟の罪はそれほどに重いものだったのだ。

 マイクロフトの弟に、ヴァランタイン・ウォルター大佐のような罪とスキャンダルの心配がない――ないということはあるまいから、より少ないと言っておこうか――とすれば、それはもはや、彼が、あの陰鬱な独身者たちの行き来する。スティーヴンスンの暗い夜の住人ではないからだ。いや、「ない」と言うのは無理にしても、いわばジキルとハイドのあいだを自在に行き来する、魔法のような力を持った演技者でシャーロック・ホームズがあるからだ。すでに『緋色の研究』で、彼は「目に見えない聴衆の拍手にこたえるかのように」振舞うのを初対面のワトスンに目撃されているが、以後はもっぱらワトスン一人のために、その魅力的な姿を演出することになるだろう。短篇第一作の『ボヘミアの醜聞』では、はっきりと演技者と呼ばれ、アイリーン・アドラーの家の内外で起こる出来事は、ホームズによる“上演”に他ならない。ワトスンはその観客として召還されているのである。

 いや、ホームズの合図で室内に発炎筒を投げ込む役目を負っているのだから、観客参加型演劇か……。ともあれ、ホームズはワトスンを連れ出してスペクタクルを“見せたい”のだ。「これから演じる新規の役のための衣裳替えといこうか」そう言って寝室に姿を消し、数分で役になりきって出てきた彼を、ワトスンはこう描写する。「思いやり深い笑み、善意の好奇心にあふれた目で、のぞきこむように見つめてくるようす、どこから見てもその人物にぴったりで、(…)ホームズはたんに衣裳をとりかえるだけではない。表情から、物腰から、さらにいえば心の持ちようまでが、新たな役柄に応じて一篇してしまうのである。」

 社会的役割に縛られてその人らしくあることに汲々とするのではなく、軽やかに境界を超えるトリックスター、ホームズ。理性的で感情を排した頭脳だけの存在というのは建前に過ぎない。ホームズ自身がそれらしいことを言っているので、単純で善良で感じることができず、文章の字面しか読めない人は簡単にそう信じるが、彼の女嫌いと称されるものは彼が“女性的”であることを妨げない。彼の思考について行けないで嘲弄されるワトスンとは、多分に作られた虚像である。実際には、彼はホームズに魅せられ、その謎を解きたいと思っているのであり、ホームズは彼に語りかけ、その意見と賞賛を求め、彼を驚かせ、魅了しようとしている。

 ワトスンと変装したホームズとが連れ立ってアドラーの家の前に来ると、「私たちがその家の女主人の帰宅を待ちつつ行ったりきたりしているうちにも、ひとつまたひとつと街灯がともされていった」。観客の期待を煽るべく、舞台のライトが明るくされ、夢の現場が作られてゆく。「家自体は、私がホームズの簡潔な描写から像していたとおりのものだったが、なぜかこの界隈では、人出が予想していた以上に多いようだった。いや、それどころか、閑静な住宅街の、小さな通りだというのに、これが驚くほどにぎわっている。粗末な身なりの男たちの一団が、角にたむろして煙草をふかしたり、談笑しているかと思えば、流しの鋏研ぎ屋が回転砥石をまわしている。近衛連隊の兵士がふたり、子守りっ子をからかっているかと思えば、葉巻をくわえてぶらぶら歩きまわっている、身なりのよい青年の姿も二、三目につく」。ワトスンの観察は正しい。これはホームズがワトスンのために用意した、現実そっくりの舞台に他ならない。

 いよいよアドラーを乗せた馬車が近づいてくると、小銭を貰おうと突進した浮浪者同士が衝突し、つかみあいをはじめ、近衛兵と鋏研ぎ屋がそれぞれに加勢し、降りてきたアドラーもそれに巻き込まれ、牧師姿のホームズがそこへ飛び込んで行ったかと思うと声をあげて倒れ伏し、近衛兵と浮浪者が二方向に逃げ去ったあとに身なりのよい男たちが近づいて血を流している牧師を介抱し、アドラーに向かって各自が台詞を口にして、牧師が家の中へ運び込まれる。先に文章中に出てきた浮浪者、鋏研ぎ、近衛兵、身なりのよい青年たちを残らず回収しながら場面を収拾するドイル‐ワトスンの見事な手並みだ。

「そのあいだ、私自身は窓のそばの持ち場を離れず、そこから一部始終を見まもっていた。ランプがともされたが、ブラインドはあがったままだったので、私にも寝椅子に横になっているホームズの姿がよく見えた」とフレーム内フレームに切り取られたアドラーの居間で上演される劇を覗き見ることになったワトスンは言う。物語のはじまりで、実はこれに似たブラインドの下りた窓を彼は見ている。往診の帰りにベイカー街を通りかかって、「煌々と明かりがともってい」る「彼の」部屋を見あげ、そうしている間にも「その長身の、痩せた姿が、黒いシルエットとなってブラインドの向こうを横切る」のを、「二度までも見てと」っているのだ。言うまでもなくこの記述は後の『空家の冒険』を思い出させずにはいない。あそこでもブラインドは下ろされ、周知のシルエットが浮び上っていて、それをこちら側の建物の暗い部屋の中からホームズとワトスンが見ていた。

 私たちは『空家の冒険』を検討した結果、あれは完全にワトスンがあとから再構成した情景であり、ベイカー街の彼らの部屋に銃弾が撃ち込まれることもあの蝋人形もなかったという結論に達しているが、それについては今は触れない。ただ、「たまたま」通りかかったワトスンが「なぜかとつぜん」ホームズに再会したくてたまらなくなって呼び鈴を鳴らし、上がってゆく、「かつては一部が私のものでもあった部屋」、ワトスンが結婚によって去ったその部屋が再び“二人の部屋”になる(ホームズが強引にそう図る)話こそが、『空家の冒険』であることを確認しておきたい。

『ボヘミアの醜聞』において、ワトスンはホームズから、舞台上での出来事から絶対的な距離を置くようあらかじめ指示されている。アドラーの家の戸口の前で、何が起きようと近づかず、手出しをせず、発炎筒を投げ込む役割だけを担わされて、明るく照らし出された窓の内側で演じられる情景を、手の届かない夢物語のように、絵本に眺め入る子供のように覗き見るよう命じられ、その距離はわずかに発炎筒を投げることでしか埋められない。

 周知の通りこの「距離」は、モラン大佐にとっては、“魔法の銃”(口笛とミルクで操られる蛇やバスカヴィルの犬同様ありえない兇器)によって踏破されるべきものだった。開いている窓からロナルド・アデアに撃ち込まれた銃弾は、それでもまだ物語内においては存在しただろうが、説明される動機は偽りで、まして彼がホームズを狙ったなどという事実はない。『ボヘミアの醜聞』のエキストラにまさる大がかりな舞台装置を取り除くなら、『空家の冒険』は空家自体が存在せず、もはや夢物語の観客ではないワトスンが、「ざらざらした現実」(ランボー)を抱きしめて、再びホームズと生きることを選ぶ(選ばされる)話なのである。


彼らの罪、彼らの秘密(中)
by kaoruSZ | 2013-12-14 05:06 | 批評 | Comments(0)