おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

彼らの悪、彼らの秘密――エドワード・ハイドからアイリーン・アドラーへ(中)

『ボヘミアの醜聞』にはいろいろおかしなところがある。たとえば、結婚後久しぶりに会うワトスンに対してホームズが無言であること(「それでも目には親しみぶかさをたたえて」とかごまかしているが)。「医者の仕事にもどるつもりだったとは、聞いた覚えがなかったが」とホームズが言うのも変だ。こうした会話が自然に思われるとしたら、それはこの話全体がワトスンの夢である場合だろう。そう言えばアドラーについての前置きのあとにワトスンが自分の結婚について触れ、新聞で見るホームズの近況を述べたあとに、たまたま通りかかって見上げた窓にホームズのシルエットが見えるという展開も、いかにも嘘っぽいのだ。むしろ、かつて二人で暮した懐しい部屋の窓は最初闇に沈んでいたのが、ワトスンの夢想の中で昔通りに灯が点り、するとホームズの影が映ったので喜んで入ってゆくと友は変らずそこにいる(そして最後は再び暗い窓で終る)というのが、映画にしてもよさそうな展開だろう。

 そうしたことを話していたらtatarskiyに、この時ホームズはもう死んでいたのだと言われて驚いた。『最後の事件』の後、ホームズが死んだとワトスンが信じていた時期に書かれたという設定だから、全てが過去になってしまったところから、亡きホームズを思い出してワトスンは書いているというのだ。

 成程それならこの不吉で暗いトーンも腑に落ちるというものだ(から騒ぎのあたりは対照的に祝祭的だが)。ホームズが無言なのも(夢の中の沈黙は死を意味するとフロイトも言っていた)、どこか噛み合わない会話も。私たちは夢の中で死者に遭い、しかもその事実を思い出さない時、こんなふうに話すことがある。

 例によってドイルは出自の違うピースを巧みにつないで(繋ぎ目は目立たない)一篇を組み立てているのだが、たまたまワトスンが立ち寄ったその夜、謎の依頼人が訪れることになっており、その正体はボヘミア国王だったなどという展開がリアリズムから程遠いことなど、まるで指摘されたことがなさそうだ。寄り道を終えて元の流れに戻るけれども、一度知ってしまったことは忘れるわけに行かないから、この上演も、窓の外で見ているワトスンの目に映るホームズも、そのような二度と還ることのない回想としての夢の中のまぬかれ難い憂愁にひたされたものだということは覚えておこう。

 それにしてもいったい、注文や評判の結果として行き当たりばったりに書いてシリーズにしたと思われている、ホームズものによって知られることを喜ばず、金のために再開したように言われるこの“長い小説”の構想を、ドイルはいつ立てたのだろうか。『空家の冒険』の巧緻で複雑な構造と驚くべき大胆な(隠された)内容から見て、『最後の事件』で中断後の再開時には、もう最後までの構想があったと以前から私たちは考えていたが、しかし『ボヘミアの醜聞』が私たちが見出したようなものであるならば(確実にそうだと思っているが)、すでに短篇第一作からドイルの構想は定まっていたのだし、一貫して全くブレはないのである。

 ワトスンは再びベイカー街に向かうが、ここでの「あの家にたむろしてた連中、あれはみんなぼくの共犯なんだ。今夜一晩、雇っただけなんだよ」というあらずもがなの説明と、「そんなことだろうとは思っていた」という応答もやっぱり変だ。どこかの劇団でもそっくり借りてきて、しかも一糸乱れぬ演技を見せなくてはならないのだから、ボヘミア国王からいくら調査料を貰っていたとしても、そう簡単に(時間的にも)できることとは思われない。写真を見につけていないか二度調べたと王様が言うのも、サクラを雇うのもエドガー・ポー写しだが、『盗まれた手紙』ではせいぜい数人の男に路上で騒がせただけである。その程度ならまだ分るが……。しかしこれはポーと違い、今は亡き(この時点では)ホームズから、懐しい部屋を訪れて死者を思い出してくれたワトスンへの贈り物としての上演なのだから、そこまで大がかりでも手が込んでいてもけだし当然であろう(短篇第一作だから読者への椀飯振舞かと思ったが、そうではないのだ)。

『空家の冒険』に到ってドイルは、ホームズとワトスンの「僕たちがそこからささやかな冒険の数々へ出発したなつかしい部屋」(our old rooms -- the starting-point of so many of our little adventures)を、あの時のアドラーの家のようなスペクタクルの対象にしてみせる。ベイカー街の通りを挟んで向かい合う鏡のように、しかも自分たちは見られることなく見るための恰好の場所へ、ホームズの冷たく細い指に手首をつかまれて連れてこられたワトスンは、あの夜と同じようにブラインドに浮ぶホームズの影を見て、驚きのあまり手をのばして傍のホームズに触れ、本当にそこにいるか確かめて笑われているが、これは見かけほどに笑いごとでもワトスンの単純さを示すものでもない。これに先立って自宅にホームズが現われた時、ワトスンは二度も彼の腕を摑んで「亡霊ではないようだ」と言っているが、実際、この場面は、鏡の向う側の世界が本物だとすれば、こちらを存在しない贋物‐亡霊にしてしまいかねない構造のうちにあるのだから。そして事実、「こちら側」は存在しないのだから。

『空家の冒険』の「空家」“empty house”は文字通り「空」“empty”であり、そこで起こったとして語られる「冒険」は、ベイカー街の彼らの旧居で何が起こっているかを読者の目から隠す(アドラーの家の上げられたブラインドと正反対だ)ブラインドと同様、本当にあったことの代りに読者に与えられた囮であり、ブラインドに浮ぶホームズの像とは、モラン大佐を狩り出すための囮であるのと同じくらい、読者のための囮である。「見張り番が見張られ、追跡者が追跡されている」とはそういうことだ。ホームズの虚しい影を追い求めるモラン大佐、誘蛾灯に寄る蛾のように彼が引き寄せられるのを「こちら側」で待ち受けるホームズとワトスン、そのすべてに立ち会っているかに見えて実は囮しか見せてもらえていない読者。それにしてもワトスンを驚かせたあの蝋細工、名人の手になるというふれ込みの半身像が、ベイカー街の室内に置かれていて、ハドスン夫人が膝をついてそれを動かしていたなどという話を誰が信じようか。『最後の事件』の時には名前さえ出てこなかったセバスチャン・モラン大佐の存在を、モリアーティの片腕としても、あるいはロナルド・アデアのような素人の若造にいかさまを見抜かれる賭博師としてさえ、誰に信じられようか。しかし彼は現われるのだ。待ち受けていた者たちが期待していたのとは逆の方向、ありえない「こちら側」の家の裏手から。

 モラン大佐、『空家の冒険』の発端で、殺されたロナルド・アデアのカード仲間として現われる名前、まだらの紐や魔犬同様ありえない兇器である、なにがしの手になる特製消音銃を手に空家の窓に歩み寄り、黄色く輝く窓の中央の黒い影を狙撃して窓ガラスと蝋人形の頭を砕いたと言われる男。手前の闇に潜むホームズとワトスンの(そして読者の)目前で繰り広げられるこのスペクタクルは、しかし重ねて言うが全く無かったものであり、それは直後にホームズの呼び子に応えて飛び込んでくるレストレードと部下達(his merry men)にしても同様だ。この言い回しは普通に従者を指すが、河出書房版全集(オクスフォード版の邦訳)の注釈は「ここでホームズがレストレイドと彼の部下の警察官達を、ロビン・フッドの物語に登場するならず者達になぞらえている」のはまず疑いないと言っており、こういうところは本当に役に立つ。残念ながら、直後にモランをノッティンガムの代官になぞらえているところで台無しだけれど。

 なぜ彼らがロビン・フッドと楽しい仲間たちなのか。この全ては作り話であり、ホームズ物語でおなじみのレストレード警部と部下たちを名乗ってはいるが、彼らは『ボヘミアの醜聞』でホームズが束の間のショーのために雇った俳優たちのようなもの、あるいは(同じことだが)『テンペスト』の精霊たちのようなものなのだろう。河出版の注釈は、これに先立って、すでに引用したホームズの言葉――「そこからぼくたちのささやかな冒険(our little adventures)へ出発したなつかしい部屋」についても、ヒントになる素晴しい情報を提供してくれている。原稿では"our little adventures”が”your little fairy tales”(君のささやかなおとぎ話)となっている」というのだ。これはホームズがワトスンによる現実の加工――「冒険」からおとぎ話への書き換え‐虚構化――を揶揄してのものではないだろう。むしろ本当にあったことに大仕掛けな虚構を加えて現実の再会の十年後にこれを書いているワトスンの、自らの仕事への言及と見るべきだろう。

 ロナルド・アデアもモラン大佐も(彼らには別の物語があるのが分っているが省略する)、アデア殺しをホームズの助けなしに解決してモランを逮捕したのであろうレストレードも彼のmerry menも、皆おとぎ話の妖精として、現実からワトスンの小説に引用されて来たに過ぎないので、fairy taleが終ると同時に、すなわち手柄はみなレストレードのもので、ホームズ殺害未遂など存在しなかったのだとホームズが宣言すると同時に、残らず消滅してしまう。「部屋にはいると、実際あの部屋だろうか、と思うほどきちんと整頓されていたが、主要なものはすべて当時と同じ場所に置かれていた」とワトスンは言う。そう、そこはけっして偽物などではない彼らの部屋、同じ構造を持ち、あまりに似すぎているために“本物と見紛うばかりの本物の部屋”なのだろう。そこ以外に彼らの部屋がある訳ではない――実際の221Bやパブに“再現”された類の部屋を除くなら。二人きりではなくハドスン夫人と胸像がいたと語られるのなら、それは掛値なしに本当なのだろう。どの道ハドスン夫人なしでは直前までの“上演”は不可能であった。ホームズの感謝の言葉を合図に、ハドスン夫人も消え失せる。「いくつか君と話し合いたいことがあるんだ」と会話を中断させることさえなしにホームズは続けて、蝋人形から脱がせたガウンをまとうが、“本当に”その時ホームズがしたことの中でここに残っているのは、多分話があると言ったこととガウンを着たことだけであろう。

 私たちは事件に決定的に遅れてしまったのだ。それは空っぽの部屋で起こりはしなかった。そうではなく、昔と変わらぬ物で満たされた室内で起こったのだ。黄色い窓もブラインドに浮ぶ影もその奥にあるものの実在を何ら保証しないのに、私たちが囮に目を奪われていた間に、肝心なことは向うの部屋で起こってしまった。それはアドラーの開いた窓の内側の舞台のように、明るい光に照らされて起りはしなかった。むしろこちら側の闇の中で――ホームズが微かな声を洩らし、ワトスンの唇を片手でふさいで引っ張り込んだ部屋の一番暗い隅のように、暗く沈んだ闇の中でそれは起こった。「私を摑んだ指は震えていた」。だが、モランは、至近距離まで来ても闇に沈んだ彼らに気づかずそばを通り抜ける。なぜなら彼らがいたのはけっしてそこではないからだ。

 モランが向かいの部屋の窓を押し上げ、窓枠に銃身を乗せて黄色い光を背景にした黒いフィギュア、「あの驚くべき標的」を打ち抜くなどというおとぎ話を、私たちが息を詰めて見守っている時、彼らはすでに私たちの視線の先の、しかしあらかじめ禁じられた場所にいた。彼らはこちら側の室内のいっそう暗い隅にはいなかったが、記述された激しい情動だけは本物だった――「私を摑んだ指は震えていた。ホームズは今まで見たこともないほど昂奮していた」

 そもそもその空家とはどこだったのか。ベイカー街を見下ろす、彼らの懐かしい下宿の向かいの建物? 壁紙がリボンのように垂れ下がるという、オクスフォード版の注釈も『緋色の研究』との類似を指摘する(しかし彼らはその意味を知らない)描写のあるそこは、ワトスンにとってホームズとのはじめての“冒険”の思い出の場所(勿論記憶の中の)であり、あとから小説のために作り込まれた情景だ。「ホームズの冷たく細い指が私の手首を摑んで長い廊下を先へと導いてゆく」というのも、記憶の中か夢の中にこそふさわしいさまよいだ。そしてワトスンは実際にはけっしてこのようにホームズに連れられて空家を歩くことはなかった。

 なぜなら、向かいのカムデン・ハウスの空き部屋へ彼らが行くなどということはけっしてなかったからだ。四月の夕刻にホームズがワトスンの前に現われて驚かせた時、ホームズがワトスンの書斎でこれまでの出来事を長々と聞かせたなどということがありえなかったであろうと同じくらいそれはありえない。“生きていたのか。今までどうしていたの?”そう訊ねたあとはろくに説明のないまま、“僕たちの部屋はそのままにしてある。一緒に来てくれるね”と有無を言わさず「冷たく細い指」に摑まれてベイカー街のホームズの部屋(彼のものでもあった、そしてその日から再び彼らのものになる)へ連れて行かれてしまったのだ。悠長な長話があったわけがない。ついて行けばどうなるか知りながらワトスンはついて行くしかなかった。「どうやら彼は私に不幸があったことを知っていたらしく、言葉というより態度で同情を示してくれた」というのは大嘘だ。ホームズが一瞬の眼差しですらそんなものを示したはずがない。同情を示したことにしないと変に見えるという以上に、ワトスンが妻を亡くしたという情報を最低限読者に与える必要から、このような書き方が選ばれたのだろう。そして名は勿論妻とさえ記すことなしに、ホームズが寡黙だが思いやり深い人物であるかのような印象を読者に与えることに成功している。

 実際にはホームズは絶対にメアリのことなどおくびにも出したはずがないしワトスンも出せない。何も言わずともメアリを亡くしたことをホームズが知らないわけがなかった。そうやって彼が帰ってきたこと自体、彼女がいなくなったからだし、本当にあった『最後の事件』も彼女がいたから――ワトスンが彼女と結婚したから――起こったことなのだ。モリアーティも例の格闘もなかったのであれば「あの恐しい深淵からどうやって生還したか話してくれたまえ」もチベットもへちまもありはしない。

 だが、すでに述べた、ワトスンが二度もホームズの腕を摑んで肉身のホームズを確かめていることには意味がある。当初からワトスンの目はしばしばホームズの手に注がれている。二作目である『四つの署名』は、ホームズがその「長く、白い、強靭な」指で注射器を操り「筋肉質の前腕」にコカイン溶液を打つ描写で始まり、事件が終って「長く白い手」をコカインの瓶にのばすところで終る。あの頃は「長く白い」だった形容詞が「冷たく細い」になっている。つまり以前は見るだけだったのが今では触れ合っている。ホームズと知って腕を摑み、「もう一度彼の袖をつかみ、その下のやせて筋張った腕の感じを確かめ」ることができたのは、その下の身体をワトスンがすでに知っているからだ。『四つの署名』でモースタン嬢が結婚を承知してくれたと告げた時のホームズの反応をワトスンが誤解し続けた結果はついに、『最後の事件』まで行きついた。そして生還以後のホームズはコカインをやらなくなるのだが、その理由も『四つの署名』の最後から明らかだろう。たんに必要がなくなったのである。

「悲しみには仕事が一番の薬だよ」と再会時にホームズは言うが、これもワトスンの“悲しみ”を気づかってのものというより、自分がワトスンのいない悲しみをいかに仕事に紛らしていたかという、むしろ嫌味であろう(仕事はマイクロフトから回してもらった諜報の仕事と思われ、ちなみに以降の短篇を見れば、診療所を取り上げられた(!)ワトスンは空いた時間をもっぱら執筆にあて――自分のことを語らないので見過ごされてきたが――作家として名を挙げつつ、ホームズのパートナーとして二人組のエージェントであったと推測される。市井の人の持ち込む奇妙な謎を追うというのは期間限定のイメージなのである)。

『空家の冒険』に嵌め込まれたアデア殺しもホームズ(像)狙撃も、その意味を理解できれば本題と密接な関連があることが判り、それは古書店主に身をやつしたホームズが関わる二冊の本の題名についても同様である★。しかし今は人目に触れさせても差しさわりのない形に整えられる以前の出来事の見極めに話を限ろう。するとアデア殺しも愛書家老人も消滅して、たんに四月の夕にホームズがワトスンの前に現れたという事実だけが残る。ホームズはこの時何を話したか。ライヘンバッハがモリアーティがという「驚くべき話」はすべて作り事だからバッサリ切ってしまおう。あの時何があったかはワトスン自身が一番よく知っている★★。一緒に死んでもいいという言葉をワトスンから引き出したホームズは、最後の最後になって彼を死なせないため偽手紙で旅館に帰らせ、自分は姿を消した。医者を待つ肺結核で瀕死の英国婦人の幻は、その後発病して死に至ったメアリに重なり、ワトスンにあのような形で『最後の事件』を書かせることになった。脱け殻のようになって帰国したワトスンは妻の療養中もホームズとの思い出を懸命に書き継ぐことで生きていたのだ。

 そのメアリ(実はワトスンは以後彼女の名前を出さなくなる。後に『四つの署名』での船による水上の追跡を回想する時でさえ、彼女のことには触れない)が死んだとは最大の障壁がなくなったということだ(とホームズは判断した)。ホームズがお悔みなど言うわけがないし、仕事で悲しみを癒せと勧めたはずもない(仕事=自分なら別だが)。空家もモラン大佐も彼らを待ってはいないが、今夜二人でする仕事とはダブル・ミーニングかも知れない。さらに詳しい説明を求めるワトスンに、「朝までにはたっぷり見たり聞いたりすることになる」とホームズは応えている(確かにその通りになる)。だが、二輪馬車のホームズの隣に腰をおろして胸をわくわくさせていると昔に戻ったようだったというのは、作られた情景でなければワトスンの錯覚だ。行く手に待つのは『ボヘミアの醜聞』のあの魔術師ホームズに召還された光りかがやく舞台ではなく、ロマン主義的な美しい悪魔としての彼の暗い半面なのだから。

 この悪魔的な誘惑者の系譜において時代的にも地理的にもドイルに一番近いものとして、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を挙げることができよう。この小説は『四つの署名』が載ったのと同じ雑誌に発表され、彼らは二度会っており、互いの小説への讃辞も送り合っていた。『肖像』に『ウィリアム・ウィルスン』の影響があるとは誰でも言うことだが、ウィルスンの悪徳とは何だったか?(これについては、はっきりした証拠を最近tatarskiyが見つけた。)ポーの他の短篇についても、ホームズの前身としてのデュパンというよく知られた事実以上の、ドイルへの影響が見られる。そもそも、語り手である友人と二人暮しのデュパンとは何者だったのか。ポー、スティーヴンスン、ワイルド、ドイルを繋げて考察しなければならないだろう。この中で男の美しさを描いたのはただワイルドとドイルだけだ(時空を隔てて乱歩がいる)。演技者としてのホームズという性格づけについても、ドイルはワイルド作品から学ぶところがあったろうし、一方では、ポーの『群集の人』やボードレールの散文詩「群集」の、「詩人は、思いのままに自分自身であり他者であることができるという、この比類のない特権を享けている」と表現された、変幻自在の芸術家=探偵というアイディアにも親しんでいたであろう。

「彼はまた、しばしば変装をして、町から町へとさまよい歩きました。労働者になってみたり、乞食になってみたり、学生になってみたり、いろいろの変装をした中でも、女装をすることが、最も彼の病癖を喜ばせました」とは、二十世紀が四分の一進んだところで書かれた、西洋の遊歩者の模倣者にして正統な後裔の肖像である。シャーロック・ホームズはワトスンからデュパンを引き合いに出されて喜ばない(という自己言及をドイルはやっている)が、「彼」の場合は、「さまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読み耽」り、そこには「いろいろの探偵小説なども混じっていました」と、ブッキッシュな出自を隠さず、浅草へ出かけて尾行だの暗号文を書いた紙切れだのを使った「遊戯」で「独り楽し」み犯罪者になったつもりで歩き回る。そもそも彼、郷田三郎に数々の犯罪物語を、けばけばしい極彩色の絵巻物のように、底知れぬ魅力をもって、三郎の眼前にまざまざと浮かんでくる」ように語りきかせたのは明智小五郎で、郷田三郎あればこそ、明智は“犯罪”を他人事[ひとごと]として語れるのだし、三郎を切り離し、外在化することで、彼の明晰さは保証されているのだから、これは明らかにジキルとハイドの変形である。

 ハイドの“悪徳”と呼ばれていたものは、探偵小説の勃興によって“犯罪”へと呼び名が変ったが、本家のイギリスでは『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』が発表されたのと時を同じくして同性愛が公式に犯罪化されたのだった。乱歩は本格を目指して変格を書いたと言われる人だが、実は“変格”こそが王道であり“本格”とは誤解に基づく通俗(世に行われる“異性愛もの”の大半が通俗であるように)に過ぎなかった。

 夜な夜なさまざまに変装して歩き回るうち、古着屋に下がっていた女物の袷に惹きつけられて、「芝居の辨天小僧のやうに、かう云ふ姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであらう」と思う谷崎潤一郎の『秘密』の語り手は、「探偵小説や、犯罪小説の讀者を始終喜ばせる「秘密」「疑惑」の氣分に髣髴とした心持で、私は次第に人通りの多い、六區の公園の方へ歩み運んだ。さうして、殺人とか、強盗とか、何か非情な残忍な悪事を働いた人間のやうに、自分を思ひ込むことが出來た」というのだから、乱歩に先んじて現れた、郷田三郎の双子の兄のような(少なくとも一篇の前半では)男である。そして望みどおり女の姿で「常磐座の前へ來た時、突き當りの冩眞屋の玄関の大鏡へ、ぞろぞろ雑沓する群集の中に交つて、立派に女と化け終せた私の姿が映つてゐ」るのを見る。しかしこのあと、「私」はそうやって化けた自分よりも遥かに美しい女に出会って「男」に戻り、「彼女」の謎を追及するが、結局、“夢の女とはついに男の夢に過ぎない”ことが発見されて一篇は閉じられる。

 ポーやボードレールやドイルの独身者たちの上に日本人の手によって重ね書きされた彼らに特徴的な、「女装」とは何であろう。シャーロック・ホームズがこのような若い美女に変装した例はない。しかし、その代りとして、『ボヘミアの醜聞』がありアイリーン・アドラーがいるのだ。the womanとはそれ以外の意味でないことがどうしてわからないのだろう。ホームズが彼女に恋愛感情を持っているわけではないとワトスンがあれだけ言っても、ヘテロセクシストは彼女をホームズの相手に仕立て上げることに熱心だ。要するに彼らには芸術がわからず、小説が読めないということか。


★これらの本の意味については拙稿を参照されたい。http://kaorusz.exblog.jp/21618742/
★★『最後の事件』で本当に何があったかは“tatarskiyの部屋(13)「最後の事件」ノート”http://kaorusz.exblog.jp/19549811/及び小説『晝顔―Beau de jour 』http://kaorusz.exblog.jp/d2013-05-22/に詳しい


彼らの罪、彼らの秘密(下)
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by kaoruSZ | 2013-12-14 04:58 | 批評 | Comments(0)