おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

彼らの悪、彼らの秘密――エドワード・ハイドからアイリーン・アドラーへ(下)

 the womanとは現実の女(a woman)ではない。「あの界隈の男たちはみんな、あの女に心酔しきってるようだ」「女として、この地球上にあれほどの上玉はいないと、界隈の連中は口をそろえて言っている」と、聞き込みをしてきたホームズの言う女が“地女”であるはずがない。本来雲の上でなければ舞台の上にいるべき、実際俳優兼歌手である彼女は、その演技性、音楽性においてホームズの同類なのだ。彼女の変装の才は、ベイカー街までホームズとワトスンを尾行してくる時、遺憾なく発揮される。

 ホームズはといえば、歌こそ歌わないが代りにヴァイオリン(人間の声に最も近い楽器)を嗜み、しかもその音色は「肘かけ椅子にぐったりもたれて、目をとじ、膝の上に無造作に横たえた楽器をでたらめにかきならす。ときにその和音は豊かに、哀調を帯びて響きわたるし、またときによっては、陽気な協奏曲のようにかるがるととびはねる。それは明らかに彼をとらえる思いを反映しているのだが(…)」とワトスンが言う通り、彼の感情そのものだ。

『ボヘミアの醜聞』の始めでワトスンは、精神の集中を妨げる強い感情はホームズにはおぞましいものでしかなかったと言い、その彼の心を例外的にとらえたthe womanで彼女があったことを強調するが、理性と感情の通俗的なこの二分法は表面的なものでしかあるまい。なぜなら、ヘテロセクシストを容易に納得させるこうした説明にもかかわらず、ホームズは最初から彼らの側にはいないからだ。そもそも彼が感情と理性を分離して、一般のヘテロ男性のように前者を女性に割りつけていたとしたら、感じるように考え、考えるように感じる、彼の能力はけっして発揮されなかったろう。

『四つの署名』の結末のあの残酷なすれ違い。ワトスンの結婚報告を聞いて、心からおめでとうを言うわけにはいかないというホームズに、自分の選択に不満があるのかと検討はずれに鼻白むワトスン。彼女にではなく結婚そのものに不満なのだと答えるホームズ。だがそれを“ワトスンの”結婚に反対なのだと言えないばかりに、恋愛と理性は相反するから、判断力を狂わせないために生涯結婚しないつもりだなどと、自身の話にすり替えてしまう。だから、自分の判断力はその試練にも堪えられると思うとワトスンに言われ、話は終る。ホームズが理性の人だなどというのがとんでもない誤解だということは、『最後の事件』でワトスンは思い知っただろうし、ホームズが帰ってきて、まるでメアリとの結婚生活など初めからなかったかのように診療所兼自宅を手離させられての “二周目”の同居生活ではなおさらだ。

 しかし、『ボヘミアの醜聞』当時、ワトスンはまだそれを知らない。いや、実際には最後の事件後に発表して(悲しみを癒す方法として)いたのだとしても、「当時、私は、ほとんどホームズと会わなくなっていた。結婚したことで、独身のホームズとはなんとなく疎遠になっていたのだ。妻を持って、幸福そのものだったし」と語る“当時の”彼は、「ボヘミアン気質」のホームズの完全な対立物となっていたのだ。

「ボヘミアン」とは何か。『ボヘミアの醜聞』という小説の中でホームズの性質を指すものとして用いられたこの言葉こそ、実は表題の意味を、ボヘミア国王が「一般には身元不詳のいかがわしい女として記憶されている」俳優兼歌手とのツーショット写真を取り戻してくれるようホームズに依頼するため、ベイカー街の陋屋(ハドスン夫人、ごめんなさい!)に二頭立て馬車で乗りつけて、「ホームズがそう言っているあいだにも、高らかな馬の蹄の音、そして車輪が歩道の縁石にこすれる音が響き、それにつづいて、呼び鈴が鋭く鳴りわたった」という“お伽噺”のフレームに隠された真の意味を教えるものだ。さしあたってはフレーム部分が反シンデレラ譚(身分卑しい女が王子と結婚しない)であることと、アイリーン・アドラーが話の途中で結婚して夫がいることを確認しておこう(後者の重要性は、ボヘミアの意味とアドラーと探偵の分身関係についてもそうだが、例によってtatarskiyに教えられた)。

 彼らが鏡像関係にあるなら向うの弁護士(夫)はワトスンだし、男装して(物語的には全く必然性がない)あとをつけてきて家の前で「シャーロック・ホームズさん、今晩は」と声をかけたのに対応するイメージは、その時彼が扮していた温厚な牧師などではなく、アドラーを逆転させたもの、すなわち女になった彼自身だろう。そのイメージは実在する。周知の通り、ホームズがワトスンと王様とともにアドラーの住いを急襲した時、そこはもぬけの殻で、写真の隠し場所にはただ手紙と別の写真一葉が残されていた訳だが、アドラーと探偵が互いの分身ならその女装した写真こそホームズの姿だろう。

 最後に見出されるイメージ――『ジキル博士とハイド氏』のアタスンの場合、それは火かき棒と斧で書斎のドアを破って侵入した際に発見した、姿見であった。友人の姿はなく、醜いハイドの死体と姿見が残されていたのである。ショウォールターによれば「鏡はジキルのスキャンダラスにも男にあるまじきナルシシズムばかりでなく、同性愛を扱った文学において鏡を強迫的な象徴としてきた、仮面と「他者」の意味をも明らかに」する。残された鏡の中に、アタスンは「彼自身の、鏡に映った顏、火かき棒と斧によっても粉砕できない、酷く抑圧された欲望の姿を見る」。

 ジキル博士以外の独身者‐ボヘミアンにとっても、ハイドに代表される醜悪な分身は、彼らが共通して持つもう一つの顔であり、ドリアン・グレイが最後に見出した己も同様であった。しかし、同じようにボヘミアンであるホームズが鏡ならぬキャビネ版の写真に見出したのは、美しい女としての自分自身だったのである。

 それでも男装と女装が対称関係にあるとは思えないという方もおられよう。それはその通りである。「両性具有」が男の“特権”であり“贅沢”であることは、すでに名前を出した谷崎の『秘密』を対象の一つとして、以前論じたことがある(『男といふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島』http://indexofnames.web.fc2.com/etc/himitu1.htm
初出 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-10.html)。表題は女装者の“男であるといふ秘密”にかけたのだが、アドラーの最後の秘密も実はそれであろう。ワトスンが見た、外套を着た後ろ姿の「華奢な青年」とは、実は女装を解いた「彼」に他ならなかったのだろう。

 アドラーが男であるとすればいろいろなことが納得がゆく。ボヘミアの醜聞とは、ホームズがしばしばそう呼ばれている「ボヘミアン」(規範から外れた自由人;同性愛者)のスキャンダルなのだ。「一般には身元不詳のいかがわしい女として記憶されている」アイリーン・アドラー? では、本当はどういう人物だった? ホームズの唯一の想い人? とんでもない。彼/女は「身元不詳のいかがわしい男」だったのだ! ルートヴィッヒ二世のお祖父さんはアドラーのモデルとも言われるローラ・モンテスの存在を隠す必要などなかったが、ロールス・モンテスなら話は別だ。界隈の男たちが彼女にメロメロだったのも無理はない。彼女はreal womanではなく、彼らの夢そのものだったのだから。米国生まれなのは『ドイル傑作集』にある「時計だらけの男」のヒロイン(?)と合わせてあるのだろうか。

 毎日アドラーの家に通ってくる弁護士についてホームズは、「はたしてふたりはどういう関係なのか。彼がたびたび訪ねてくる目的はなんなのか。彼女はノートンの依頼人か、ただの友人なのか、それとも恋人なのか」としつこく問うが、普通そこまでしげしげ通っているなら、もっとすんなり恋人と考えるのが自然ではないか。実はこれは、やがて世間からホームズとワトスンとがどういう目で見られることになるかを示す言葉に他なるまい。

 ボヘミアンとはそもそも(と言ったのではアナクロニックになるが)、ベンヤミンがポーとボードレールを論じながら都市の遊歩者の別名として挙げた言葉であった。マルクスを介してそれは「職業的陰謀家」になる。ポーの語り手は群衆の中に見つけたいかがわしい人物を尾行するが、ボードレールに言わせれば、「群衆に沐浴するというのは、誰にでもできる業ではな」く、それが可能とされるのはまだ揺り籠の中にいた頃に妖精から「仮装や仮面への好みや、己が棲処への憎悪や、旅への情熱を吹き込まれた者のみだ」。

 定住する良き市民としてのアイデンティティを確立した者とは相反する、このような存在こそが、ボードレールにとっての詩人であった。「詩人は、思いのままに自分自身であり他者であることができるという、この比類のない特権を享けている。(…)孤独にして思索を好む散歩者は、この普遍的な融合から一種独特な陶酔を引き出す」(ジキル博士はこのような柔軟さを持たず、硬直した表向きの仮面を外すことは破滅しか意味しなかった)。アドラーやホームズがこのような他者になりうる演技者であるとすれば、結婚したワトスンはそれまでのモラトリアム状態から彼らの反対物へと移行したのであり、それでもなおホームズはワトスンを繰り返し「冒険」へと誘惑しつづけていたのである。

彼らの罪、彼らの秘密(上)
彼らの罪、彼らの秘密(中)
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by kaoruSZ | 2013-12-14 04:57 | 批評 | Comments(0)