おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(24)「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」補遺

関連エントリ
「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」http://kaorusz.exblog.jp/19972391/

上記エントリへの言いがかりに対する反論は以下に。
http://kaorusz.exblog.jp/19972406/
http://kaorusz.exblog.jp/19973107/
http://kaorusz.exblog.jp/20073529/

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柄谷
...あることを断定すれば、それは現状では一種の権力の行使にもなってしまいますけどね。しかし、何かぼくはそこのところを楽天的に考えてますね。
蓮實
でも権力の行使を恥じたらば、なぜものを言うのかということになってしまう。あらゆる言説は権力の行使だとは当然のことですが、ただし問題なのは、好きでもないものを好きだと思いこんでしまうことが、大衆的なレベルでもあるわけですね。その人の関係の絶対性を外れたところで好きだと思いこむ物語性は、依然として支配的であるわけです。
 強靭な人やある確信をもった人というのは、その関係の絶対性をいつでも再現しうるんですけども、そうでない人たちは、どうしてあんなもの好きだったんだろうと思ったり、あるいは、そのことにも気づかずに、好きでないものを好きになる目利きでない人は、たくさんいるわけでしょう。
 
『柄谷行人 蓮實重彦 全対話』より




【書き下ろしまえがき】
下の文章は、今年の6月頃までに裏アカで断続的に書きついでいた「Sherlock」についての補足的なツイートのまとめである。本当は本文に当たる表アカでツイートした文章も含めて、シリーズ通しての完全な批評をまとめて書こうと思っていたのだが、正直あまりにも憂鬱で気乗りのしない仕事で、各エピソードについてのメモだけは大量に取ったのだが、未だにまとめて人に見せられる文章にはなっていない。だが、暫定的な調査結果としても間違いなく言えることは、このドラマの世界観そのものになっているミソジニーとホモフォビアのトーン自体が、ある種の露悪的なパロディであり、それはおそらくゲイティス氏ただ一人の確信犯的な作為によるものであろうということだ。そして彼は原作がいったいどういう話なのかを完全に理解した上でしらばっくれており、モファット氏を始めとした周囲と調子を合わせつつ、彼らが理解せず、認めるはずもない、「自分だけが知っている本当のホームズの特質」をちゃっかり自分が演じるマイクロフトの役に割り付けることで、密かにナルシシズムを満たしつつ世間を欺いているのだろう。おそらく、他のスタッフも出演者も一般の視聴者以上のことなど本質的には何も知らないのだ。そのシニカルさと、その原因であろう彼のある種のルサンチマンを思うと正直ぞっとさせられるが、つくづく「彼はゲイなんだからSherlockがホモフォビックなはずなんかない」と私を攻撃してきた人たちの鈍感なおめでたさには溜め息しか出ない。

また、私はその後グラナダ版のいくつかのエピソードをあらためて見たのだが、その結果、グラナダ版におけるホームズがマイクロフトともども自らのセクシュアリティを抑圧した同性愛者として設定されていること、幾つかのエピソードの登場人物にも同性愛者が存在していることがわかった。(私が見た範囲では「ギリシア語通訳」「プライオリ・スクール」の二つのエピソードに顕著なので、興味がある方は確認してみてほしい)ちなみにワトスンは、ホームズに心底懐いてはいるが彼を決して対等に理解することは出来ず、社会人としての実態もはなはだ曖昧な“ペットの犬”状態であり、彼らの関係性そのものが、ちょうどペットとその主人のような、無時間かつ無根拠な親密さだけで成り立っている。(おそらく製作者たちもそれには意識的だったのだろう。グラナダ版「バスカヴィル家の犬」に登場するモーティマー医師とそのペットである忠実な猟犬は、二人の鏡像として設定されていた)

時代も含めた種々の限界は如実に窺えるものの、グラナダ版は明示できないものを「隠しつつ表わす」ための工夫を凝らしながら、ホームズやその他の登場人物たちを同性愛者として描きえていた。それは製作者たちがホームズの世界観を忠実に描き出すためには「避けては通れない」核心的な要素であることを十分に理解していたからだろう。逆に言えば、グラナダ版ですら達成していた地点から「Sherlock」は遥かに後退しているのであり、それ以上に不必要な悪意に満ちている。

また「Sherlock」に登場したディオゲネス・クラブのインテリアや従業員のスリッパが、グラナダ版のそれのほぼそのままの引き写しであることもわかったのだが、つまり「21世紀のシャーロック・ホームズ」として喧伝され、ホームズとワトスンを始めとした主要人物たちの容姿もキャラクター性も、原作やグラナダ版のそれとは似ても似つかない“今風”の設定であるにも関わらず、マイクロフトと彼自身を象徴する空間だけは、グラナダ版=19世紀のそれそのままのアナクロニックな引き写しであるわけであり、このこと自体、マイクロフトこそが“本当のホームズである”ことを意味する記号として機能している。言うまでもないが、「Sherlock」の製作者の中で、グラナダ版のホームズ兄弟の抑圧されたセクシュアリティを始めとした同性愛表象を読み取ることができたのも、そうした技巧を前例として意識的に取り入れることが可能だったのもゲイティス氏のみであろう。

グラナダ版からのそれに限らず、「Sherlock」の作中に“引用”されていたものの持つ意味は、ミソジニーとホモフォビアを“当然の前提”として見過ごす視聴者の目には映らず、理解されることも無い。コメンタリー等でのゲイティス氏の公式な発言を鵜呑みにすることは、実は「彼が本当に見ていたものを見ない」に等しいのだ。(流石に「Sherlock」は極端な例であろうが、そもそも表象を読み解く際に“作者の発言”など当てにするものではない)まして「本人がゲイだから」彼の発言を絶対視するというのは愚の骨頂だし、一般論として言うなら、そうした作者の一個人としての属性を無前提に作品の内容と結びつけて疑わないのは差別的ですらある。まずは作品の内部で表現されたものだけを十全に読み解いてこそ礼儀というものだし、賞賛と批判のどちらであろうと、その結果としての評価でなければ真に価値があるとはいえないだろう。私は「Sherlock」の製作者たちに対して、これまでに公にした文章の中でも、十全に礼を尽くしてきたつもりである。全体のまとめになる文章もいずれ発表するつもりでいるが、その前に私自身のスタンスを確認しておいてもらいたいと考えた。

P.S
ヒント:S2E1「ボンド・エアー」と「007」→「ゴールドフィンガー」及び「プッシー・ガロア」で検索されたし。


2013年2月27日

表アカの続き書く前にやっぱり見ておいた方がいいだろうと「シャーロック」のシーズン2第一話をレンタルDVDで視聴、アドラーの扱いがどうなっているのか確かめた。結論から言えば案の定というか予想を上回る酷さと悪質さだったのだが。シーズン1最終話がホモフォビア編ならこっちはミソジニー編。

アドラー、どう見ても男向けレズものAVにも出演してる安い娼婦程度にしか見えない。女王様と呼ばれてはいてもちっとも女王様じゃない。もちろん原作のようなジェンダーを超越した魅力などまったくなく、異性装の要素も削られていた。当然これはホームズ自身にジェンダーを超越した魅力など無いから。

つまるところは「ただの下らない男」にお似合いの「ただの下らない女」に成り下がっていた訳だが。まあ原作の「女優であり元プリマドンナであり一国の王の元愛人」みたいな華々しく誇り高い美女と、あんな単なる女嫌いでホモフォビックなオタク男でしかないホームズが釣り合う訳が無いのだが。

そして結末も、彼女がホームズを見事に出し抜いて愛する人と舞台を去り、ホームズが彼女に素直な敬意を表する原作の爽やかな読後感とは全く相容れない、どこまでも女を馬鹿にして優位に立たなければ気が済まない男の狭量さそのものの胸糞の悪い代物だった。

要は「いくら頭がよくても女は所詮女、遊びのつもりでも男に本気になって結局は道を誤る。男は一時は女に惑わされても理性で感情をコントロールできるので最後は男が勝つ」「女=男の当然の性の対象であり本質的に感情的、男は絶対そんな愚かな存在とは違う」という悪質なセクシズム丸出しの女嫌い。

しかも「敗北を認めしおらしくなった後なら命だけは助けてやってもいい」という男の傲慢な優越感をくすぐってくれるエピローグでオチがつくという徹底ぶりだった。しかも唐突で脈絡も無く合理的な説明は皆無なので非常に妄想臭い。あれはついでに中東の人への無用な偏見を煽りたかったのか?

そしてある意味例のシーズン1最終話より酷かったのが、このドラマにおいてワトスンがホームズにとって必要な理由など本質的には無く、彼の本質は“母”と“女”さえいれば用は足りる「性的に抑圧された本来はヘテロセクシュアルな男」に過ぎないことを露呈していたこと。

彼らの「絆」の描写が基本的に「女なんかより重要」という、ミソジニー的な描写によって女を下げることによる「相対的な優先順位の高低」でしか示されない空疎なものであることを露呈していたことだ。別にワトスンが居なくたって“母親”のハドスンさんと仕事とコネを提供してくれるレストレード、 自分に気があってどんなに邪険にしても言いなりになってくれるモリー、ついでにこっちも勝手にアプローチしてきてくれるあからさまにセクシーな女のアドラーがいれば事足りる安上がりなオタク男でしかないのがこのドラマのホームズなのだ。

彼らが一緒に暮らしている理由も探偵をしている理由も、ワトスンがホームズを優先的に気にかける理由も、ホームズがワトスンに(なぜか)最初から心を許した理由も、「彼らがホームズとワトスンと名づけられたから」でしかなく、このドラマの中でのオリジナルな動機付けは実は全く欠けているのである。

だから原作やグラナダ版やガイ・リッチー版のような「二人きりの親密でゆったりした間」など描けず、とにかく外部の事象や第三者である他の人物に対してひっきりなしにリアクションさせる以外に手がなく、二人の関係性もそうした第三者に「台詞で言わせる」ことで内実の空疎さを糊塗しているのだ。

つまりは「二人きりになるのが怖い」のであり、製作者が「二人を二人きりにさせることができない」のだ。説明するまでもなくこの恐怖感こそ、文字通りのホモフォビアそのものである。そしてこうしたホモフォビアとミソジニーを除けば驚くほど何も残らないと言っていい程にこのドラマの細部は貧しい。

そんな中で唯一の収穫だったと言えそうなのは、マイクロフトがこの女嫌い狂想曲に満ち満ちたどうしようもなく下品なドラマの中でほぼ唯一の、「女に下劣な性的関心を示さず嫌いもしない」ニュートラルな存在であるのがはっきりわかったこと。彼がメインの場面だけは明らかに不快指数が下がっていた。

結論を少しばかり明かすと、つまりマイクロフトこそが、(中の人の話ではなく)少なくとも裏設定として、おそらくこのドラマの中で唯一の「レギュラーメンバーに入れられており、否定的に扱われることもないゲイ男性」なのであろうということなのだが。

そして彼の服装や紳士然とした物腰から察するに、彼は意図的に「原作におけるホームズ自身の写し」として設定されているのだろう。つまり原作におけるホームズを「ホームズ」として描くことが今時のアクチュアルなタブーに触れ、その“検閲”された部分がマイクロフトのものとして移されているのである。


2013年6月21日

Sherlockのセカンドシーズン2話「バスカヴィルの犬」と3話「ライヘンバッハ・ヒーロー」を視聴完了。まだファーストシーズン2話が未視聴になっているがさして重要な話ではないようなので(手元にあるから後でこれも見るが)一応作業の第一段階は終了と思ってよさそう。

で、見終わってから初めてウィキで各話の脚本家を確認してみたら、私が思いっきり引っかかったホモフォビア話であるS1E3「大いなるゲーム」もS2E2「バスカヴィルの犬」も見事にゲイティス氏の担当だった。ただし脚本の構成自体のレベルが高いと思ったのもこの2つの話で、実はそれは必然。

この作品の「意味のある細部」は、実はホモフォビアとミソジニーに関する部分に集中している。逆に言えば、それ以外の意味性はスカスカで、だからホームズとモリアーティの能力の性質やライバル関係にも、それ自体としての物語性が欠落している。要は「本筋」自体が在って無いようなものなのだ。

つまるところこのドラマには「あの二人のホモ疑惑」→「その拒否/否定としてのホモフォビア+ミソジニー描写」の繰り返しの他に見るべきものは何もないし、だからこそその構図が最初から最後まで枠組みとして一貫している「ゲーム」と「犬」の出来栄えは抜きん出てよかったわけだ。

しかしながら「バスカヴィルの犬」のエピソードは非常に悪趣味かつ秀逸だった(半分は厭味ではない)。原作を非常によく読みこんであるのだが、それによって核心的な裏のモチーフとしての同性愛の扱いを肯定から否定へと180度変えている。あの爆死していた犯人の真の罪は実は同性愛である。

あと例の巨大な魔の犬が同性愛を意味するものであるのも実は原作のそれの踏襲。また、ドラマの世界観の中で強迫的に繰り返し登場していた「女=男に対する性的誘惑の換喩としての汚物」も、ヘンリーが持っていたコーヒーの染みのついた紙ナプキンに書かれた女の電話番号としてしっかり登場しており、既婚の男に騙されたハドスンさんの相手との修羅場とそれを嘲る二人組という、ダートムーアへ行きがけの駄賃とばかりに感じの悪い描写と合わせて開始早々実に嫌な気分にさせてくれた。ちなみにこうした穢らわしい汚物としての女と一切無縁なのはマイクロフトのみで、彼は“神”=作者というわけだ。

また、マイクロフトと彼の所属するディオゲネス・クラブのインテリアに象徴される、塵一つ無く洗練された威圧=貴顕紳士のホモソーシャリティとは、穢らわしい汚物としての女とそれに誘惑され堕落した卑しい男たちの「みじめな薄汚さ」のイメージの完璧な対立物である。

これが階級とジェンダーを巡る差別的描写の一例であることは言うまでもなく、本当に21世紀のドラマとは思えない反動ぶりである。製作者たちが意識的に導入しようとしていたのはおそらくホモフォビアだけであったろうが、それが必然としてミソジニーや階級差別まで呼び込んでしまうわけだ。

そして原作を徹底して読み込み「自分が何をやっているのか」を完璧に把握して脚本を書いていたのは、三人の脚本家のうちでもおそらくゲイティス氏のみであろう。他の二人の手になるシナリオとは完成度がまるで違っていた。また彼の手によらない回のシナリオにも彼の意向は強く反映されていたであろう。

何が言いたいのかといえば、あの露悪的なまでのホモフォビアとミソジニーの構造は、おそらくゲイティス氏自身の確信犯的な設計によるものなのだろうということなのだが。そして彼はそれを「ゲイであることをオープンにしている」という自身のメタレベルの属性とセットで作品世界に織り込んだわけだ。


2013年12月27日

前にも書いたがBBC版の中でも「バスカヴィルの犬」のエピソードだけは一見の価値がある秀逸な出来だった。逆に言えば、その一話前のいろんな意味で最低の出来だった「ベルグレービアの醜聞」とは何の繋がりも無い代物で、同じ出演者が同じ役で出ていても全くの別人としか言い様がないのだが。

要するにゲイティス氏は、明らかに素でホモフォビックなミソジニストである単純なヘテロ男のモファット氏を、権威付けとカモフラージュのために上手いこと利用しているのだろう。ゲイティス氏は明らかに原作のホモエロティシズムを読めているが、当然そんなことをモファット氏に教えたわけがない。

脚本家によってエピソードごとの完成度にもシャーロックの性格付けにもムラがあり、場合によってはまるで別人になっていたのだが、その中でもマイクロフトの役割にだけは一切ブレがなかった。流石に黒幕としか言いようがないが、裏を返せば彼だけは他の登場人物と同じ平面に存在していないわけである.

彼だけが登場人物であると同時に“神”=作者であり、他の登場人物たちは彼の操り人形に過ぎない。彼は他の操り人形たちにあらかじめ彼らの“運命”を予告した紙=シナリオを渡し、自らは傍観者としてその行方を見届けるのだ…と、実は全くこの通りのシーンがS2E3に存在するのだ。

このわざと稚拙に作られたとしか思えない悪意に満ちた“偽物の世界”において、リアリズムを装った表面的な理由付けはまるで当てにならない。登場人物の挙動や表面上のシナリオに違和感を感じた時は、それが納得できる“自然な”情動を補完してしまいたくなるのが人情だが、実はそれこそが罠なのだ

登場人物に“共感”しようと寄り添うことをやめ、画面に映るもの全てを不自然な作為としてありのままに受け止め目を凝らした時、実は最初からこの世界が、その創造主の意図そのままに、精巧な人造ダイヤのような冷たい輝きを帯びていたことに気づくだろう。私はその技巧には決して賞賛を惜しまない。
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by kaoruSZ | 2013-12-23 14:53 | 批評 | Comments(0)