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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(26) “無垢な少女”へのミソジニー ――小野不由美『悪霊シリーズ』のジレンマと欺瞞 

※2017年5月追記
3年しか経ってないですが、今からすればまだまだ権威を疑いきれてない甘ちゃん小娘だったようで、小野不由美との対比で山岸凉子を持ち上げるような格好になってしまっているのがまことに遺憾なので、その後に書いた山岸凉子へのちょっとした批判のつぶやきをリンクしておきます。日々是精進。

わかりにくくなってしまいましたが、元になった文章の初出は2012年9月にツイッターの裏アカで連続ツイートしたもので、それを元に大幅に加筆修正したものを2014年5月にアップしたのが下の本文になります。

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色々他にやることは多いけれど、ずっと書こうと思っていたネタを好きに書いておこう(そもそも裏アカ作った目的が表より人を選ぶ話がしたかったからなのだが)。今回のネタは私が小野不由美を(よしながふみを嫌いなのとは別の意味で)人として好きになれない理由。

端的に言えば自分のミソジニーの強さを倫理性と取り違えている女嫌いぶりと、それゆえの本質的な同性への見下しの強さが鼻持ちならないわけだが。「恋愛は苦手だから書けない」とかインタビューで言ってたのも「女が嫌いだから書けない」だけで、「“男同士”の愛なら好き」というのが本当のところだよね。

男同士の愛の話が好きな女性が必ず女嫌いだというのは中傷だが、本人の中でそれが結びついている場合というのはままあって、それは「男同士の愛の話が好きな女の自分」を嫌悪している場合。なぜかといえば本人がそれを自分のずるさだとか逃げだとか思っているから。

本当は受動性のファンタジー=愛される/犯されるという夢想は万人に共通したもので、制度的なヘテロセクシズムの中では、それが男のものとしては否定され“女の本質”とされているに過ぎない。だから女性にとっての受動性のイメージは“女らしさ”という外部からの押し付けになってしまうわけだ。

でもそれに気づけない女性が“男同士の愛”に惹かれても、「自分の女らしさから逃げている」と思うことになってしまう。そして彼女の中では「受動性=女らしさ=自己の主体性を否定されるネガティブなもの」のままなので、“それ自体”を純粋に価値や魅力のあるものとして肯定して享受できないのだ。

その結果として彼女の内面には「“男並みに”主体的で知的な存在でありたい自分」と「“女として”は受け入れられないものなのに、“男同士として”描かれた受動的なエロティシズムのイメージには魅力を感じてしまう自分」という分裂とそれに対するジレンマが生まれるわけだ。

だが馬鹿馬鹿しい必然として、この“性的なもの”と“知的なもの”との分裂はヘテロ男性のメンタリティの模倣に過ぎない。彼らの場合“性的なもの”は女の本質として丸投げすることで“知的なもの”だけを自らのものとして誇ることが当然であり、それゆえに安定した自我を保てるというだけの話だが。(こうした問題については以前に詳述しているhttp://kaorusz.exblog.jp/18345164/

だいぶ話が遠回りになったが、つまるところ小野不由美の書くものというのはこの見え透いた女嫌いゆえのジレンマの周りをグルグル回っているだけなので、そこに気づいてしまうと非常に気持ちが悪いし、“読者=自分以外の少女”に対する見下しまで仄見えてしまうのがまた嫌な気分にさせられるのだ。

『悪霊シリーズ』から『十二国記』も『屍鬼』も『東亰異聞』もみんな“女嫌い”と“男同士の愛”の間での分裂と自己欺瞞の外には実のところ一歩も出ていない話で、彼女はその間を埋める言葉を持たないまま、「女である前に人間として考えているだけです」という欺瞞的なポーズを取っているだけなのである。

細かいことを言い出したらキリがないのだが、象徴的な話だと思うので『悪霊シリーズ』の結末を例にとっておこう。(以下ネタバレ)読んだ人ならみんな知っている話だが、ラストでヒロインの麻衣が好きだった相手はナルではなく物語の始まる前に死んでいた彼の双子の兄ジーンだったことがわかり、この「人違い」という処理によって、この結末に至るまで読者に表向きのプロットとして示されていた「ヒロインの恋物語」という筋は唐突に打ち切られ、続編では無かったも同然の扱いになっている。これは物語として非常に不自然であるとしか言いようがない。案の定というか、読者からの抗議でシリーズ自体が頓挫してしまったらしいが。そして作者の言い訳というのは「恋愛を書くのは苦手で、レーベルの方針上盛り込んでいたに過ぎないから」というものだったのだが、本当はそんな問題ではありえないのはご本人が書いたもの自体を検分すればわかることだ。

まず結末そのものの不自然さだが、物語のセオリーとして「相手を好きになったきっかけが人違いも含めた何らかの勘違いである」という設定はありふれたものだし、むしろそれが明かされるまでの関係の進展によって読者を十分に感情移入させておくことで、「勘違い」が明かされた後に「きっかけは勘違いでも、今の気持ちは本物」という着地に対するカタルシスを増す効果を狙うものだ。そして実際そうした着地に相応しいだけの進展は描かれていたし、普通に考えてヒロインの恋愛自体をまったくの反故にする理由が無い。

読者の感情移入を損ねるのは目に見えているのに、作者がそんなことをしたのはどうしてか? 身も蓋もない答えだが、つまり彼女は「ヒロインの恋物語に素直に感情移入できるようなナイーブな読者の少女が嫌い」であり「そうした読者の感情移入の対象になるナイーブな少女であるヒロインが嫌い」なのだ。要はあのヒロインの恋物語という表向きのプロットの裏で進行していたことが最後に明かされる「ナルの正体」についての一連の謎解きそのものが、実は表向きのプロットに象徴されるヘテロセクシャルな恋愛物語や、その中で持て囃される“無垢な少女”に対する作者のルサンチマンの表明なのである。

謎解きとその後の麻衣とナルの対話によって明かされる真相は、ジーンとナルがそれぞれ稀有な超能力を持ち、テレパシーによって精神をも共有する双子であったこと、麻衣の夢の中で彼女にたびたびアドバイスを与えてくれた「優しいナル」こそがジーンであったこと、ジーンが自分の死後、自分に代わってナルを支える存在として麻衣を選び、そのために彼女の潜在的な超能力を引き出す手伝いをしていたことである。そしてナルにとっての麻衣は、かつての自分たちと同様孤児であり、ぶっきらぼうな自分とは正反対に他者に対して同情的であったジーンを思い出させる、偶然だったにせよ初対面で自分を愛称で呼び捨てにしたことも含めて、最初から他人とは思えなかった親しい存在であったことだ。つまり物語の始まりからジーンは残された自分の半身と麻衣とを結びつける存在として動いており、麻衣の能力的な成長やナルとの関係の進展も彼の意図したものであったわけだ。

これらから予測されるあるべき結末とは、麻衣がナルにとってジーンに代わるパートナーとなるに相応しい能力的な成長を遂げ、またそれと同期した恋愛の成就によって伴侶として結ばれる(少なくともそうした未来を予感させる)こと以外には無いだろう。「きっかけ」としては人違いであったことが発覚するのもその布石でしかありえまい。

この「あるべき結末」に至るまでの物語をナルの側から見れば、分身的な絆によって結ばれた同性の喪失を経た異性愛への移行という古典的な物語の一類型であり、読者の側に明示されていた麻衣の側からは、寄る辺のない無力な孤児の少女が自らの隠れた才能を引き出してくれる援助者にめぐり会い、後にその援助者と結ばれて幸福を得るという、これもまた『あしながおじさん』の類型としての古典的な物語であるものだ。そして作者は明らかに意図的かつ巧みにこうした物語の類型を操っており、最後に“ちゃぶ台返し”のようにこの「あるべき結末」を反故にしたことも含めて確信犯でしかありえまい。

先述したが、ヒロインの恋の行方という表層のプロットの構成は巧みなものであり、有能だが人当たりが悪く他者に無関心な人物として設定されているナルの側が、麻衣に特別な関心を持ち更に関係を発展させる理由づけ(かつての自分たちと同様孤児でありジーンを偲ばせる人柄と能力の持ち主だった)が過不足なく織り込まれている。

言うまでも無いが、これは少女向けフィクションにおける「平凡な少女である主人公が非凡な少年に恋をし、最終的に結ばれる」という定型的なプロットに則ったものだ。この種の物語の肝は当然ながら「非凡な少年の側がなぜ平凡な少女に好意を持つのか?」であり、そこが駄目では単なるご都合主義になってしまうわけである。その「肝心な部分」を巧みに処理していながら、その後にあるべきカタルシスとしての「恋愛の成就」という結果だけは頑なに欠落させているのだから、読者が消化不良を起こすのも当然なのだ。だがそれも結論から言えば、作者が“平凡な少女”が“非凡な少年”と結ばれることを嫌ったからに過ぎない。

“平凡な少女”――ヒロインとそれに自己を投影する読者――を嫌っている作者が自己を投影しているのは誰か? 言うまでもなく、“非凡な少年”である。そしてその少年の“非凡さ”の質こそが、そのネガとしての彼女が少女の“平凡さ”を嫌う理由を解く鍵でもある。

最後の「謎解き」によって明かされる“非凡な少年”――ナルのキャラクター設定そのものは、ある意味古典的過ぎるほどにわかりやすく定型的なものだ。稀有な能力を持った双子として生まれながらそれゆえに周囲に疎まれ、幼くして孤児となり、片割れだけを道連れに生きながらえる日々を送った後、理解ある養親に引き取られて能力をコントロールする術を身につけ、片割れとの協力によって若くして成功を修めたものの、その片割れの突然の失踪と死によってそれも中断を余儀なくされる。という、いずれも「双子、異能、片割れの喪失」といった神話的とも言える要素――要するに“お約束”のみで出来ているようなものだ。麻衣の前に現れた時点での、つまりは物語に登場した際の印象からして、「年の離れた青年(リン)を“従者”として使う謎めいた美少年」というもので、これは後に麻衣がナルに関する事情を知るまどかから「実はナルとリンは駆け落ち中なの」とからかわれるというギャグまで含めて、作者がナルというキャラクターを耽美的な(BLと言った方が通りがいいが)フィクションの定型的な登場人物のある種のパロディとして意識的に造形していたことを窺わせる。

しかも手の込んだことに、これは実は単なる“パロディ”ではないのだ。先述したように真相として明らかになるナルに関する事実そのものはまったく“お約束”の域を出ないものであり、特色(及びある種の作者の悪意)はあくまでその“見せ方”にある。

それまで麻衣という「自身の恋で手一杯であり、それゆえにナルに関する数々の不自然な事実を見落としていたヒロイン」の一人称というヘテロセクシャルなプロットを通して物語を眺めていた読者に対して示される一連の「謎解き」が、ほぼ男同士の協力のみで進められていたこと、それもナルの正体を知る前から、自身の知的好奇心からデイヴィス博士に心酔していたぼーさん主導で行なわれたことは象徴的である。ジャンルとしては少女小説であってもストーリー全体の本質に関わる肝心な局面では女性は蚊帳の外であり、頭脳を駆使した話し合いや秘密の共有、それを通して認め合うことは“男同士の絆”の中にしかないという、本質的にホモソーシャルな構造なのだ。そしてこの男たちの手による「ナルの正体」に関する謎解きから明らかになるもう一つの物語である、ジーンとナルという双子の兄弟の愛と片割れの喪失という悲哀の物語は、表向きのプロットのヘテロセクシュアリティに対するアンチテーゼを形成する“男同士の愛”そのものなのだ。

そして麻衣は結局のところ、このナルとジーンという兄弟の愛と別離の物語を見届けるべき傍観者だったのであり、彼らの“特別な絆”の証人であったに過ぎない存在として処理されてしまう。ジーンがすでに死んでいることを知っても、ナルではなく彼を想い続けることを麻衣が自分で選んだように描かれているのは口実なのだ。

つまるところが少女向けフィクションのお約束としては、“無垢で平凡な少女”である麻衣はその“無垢な平凡さ”ゆえにこそ報われるべきなのであるが、作者はある種の悪意をこめて、ヒロインがその無垢な平凡さという名の“鈍感さ”ゆえにこそ状況から疎外され想いも報われないという結末にしたわけだ。また、このシリーズに対する賛辞として「主人公の少女の一人称であり、恋愛要素がなければならないというレーベルの制約を逆に利用した傑作」だと言われるが、ここまでに述べたように、そうした“恋する少女”に自己投影できる素直な読者に対する作者のメタレベルの悪意の反映まで読み取るべきだろう。

“真相”を突き止めた後に物語全体の構造を見回してみれば、麻衣の本質的な立場は少女小説のヒロインというより、少年漫画的な物語における女性のサブキャラクターに近い印象すらあるし、実際続篇における彼女は三人称への変更に伴って絶対的な視点人物の座から明示的に降りてしまっているのだが。

続篇ではまた、ナルが鏡に映った自分の影を通してジーンと交信する様子を見ていたメンバーが、その絵に描いたような“ナルシスト”ぶりにドン引きする描写があるが、今更言うまでも無く双子や分身、鏡像といったモチーフは同性愛と切っても切れない関係にあり、彼は最初から“そういう”キャラクターである。また超能力やそれを用いた分身とのテレパシーといったモチーフの方も言うまでも無く、官能の延長としての交感のメタファーであり、そうした排他的でエロティックな絆で結ばれていた同性の分身の喪失を契機とした異性愛への移行というのも、そこから派生するお約束のドラマである。

このシリーズも本来であればそうした異性愛によるハッピーエンドによって幕を閉じたはずであるし、またそうなっていればナルに関する“耽美的”な設定も正しく“パロディ”で済んだであろう。もっと言えば物語の約束事として異性愛というゴールを本質的に必要としていたのは、麻衣ではなくナルの方だ。

だが作者にとって、そうした成長の象徴としての異性愛へのシナリオは、たとえそれを拒否することと引き換えに物語の落とし所を見失ったとしても受け入れがたい代物であったようだ。続篇は読者からの不評が原因で頓挫したようだが、たとえそうでなくても問題なく話が続いたとは考えにくい。

そして実は、この表のプロットと裏のプロットの重なり合いから生じている、麻衣とジーンとナルとの相互分身関係ともいえる錯綜の図式の真の意味――物語の結末そのものが明かすと同時に隠蔽していることは、実はこの物語の裏のテーマがかの山岸凉子の『日出処の天子』と本質的に同じものであり、そのラストにおける残酷な真実の暴露とそれによるヒロインの絶望とを、欺瞞的に和らげたヴァリエーションに他ならないことだ。割り振られている表面的な属性にはズレがあるが、おおむね刀自古が麻衣、厩戸がナル、毛人がジーンにあたり、また超能力による問題の解決と平行して主人公の“秘密”に関わる物語の進展を見守るナビゲーターとしては、麻衣は毛人の役割をも兼ねているといえる。

『日出処の天子』のラスト、自身の半身ともいえる毛人に拒まれ、彼を失った厩戸は、その悲痛さからの苛立ちをたまたま彼の秘密に近づいてしまった毛人の妹刀自古にぶつけ、真実を知らされた彼女は絶望の淵に沈むのであるが、皮肉にもその衝撃は、彼女がいつの間にか実の兄である毛人から厩戸に心を移していたことを自覚させる。言うまでもなく、刀自古が知ってしまった秘密とは、厩戸が彼女と同じく毛人を愛していたこと、そして彼女に対してのみならず、彼が決して女を女として愛することができない者であることだ。残酷にも刀自古は自分が決して厩戸から愛されることはないことを、自分が彼を愛していたことと同時に悟るのだ。

そして『悪霊シリーズ』のラストでの麻衣とナルの対話の真の意味もまた、この刀自古と厩戸の対話における真実の暴露と同じものなのだ。より正確には、その前段階に設定されている厩戸と毛人の対話での、彼らが超常的な力を分かち持って生まれた対であることの再度の説明と強調(言うまでもなく、こちらではナルとジーンのそれにあたる)という機能が統合されているが、これは先述した通り、麻衣が物語のナビゲーターとなる視点人物としては毛人をも兼ねていることから来る必然でもある。

最愛の半身を喪失した男による、同じくその半身を愛した女への残酷な宣告――自分がどれ程その半身を必要とし愛していたかと、自分が彼女を愛することは決してないこと――麻衣に対しての場合、さらに残酷なのは、毛人に拒まれた厩戸とは違い、ナルが死してなお彼を守ろうとするジーンから愛されていることだ。

ナルは麻衣からたびたび彼女の夢にあらわれたジーンに、彼女が潜在的に持っていた超能力を活用するためのアドバイスを受けていたことを聞くと、「死んだ後までおせっかいな奴だ」と呆れてみせ、麻衣がそれに対して「ナルのことが心配だったから、私が少しでも自分の代わりになるように指導してくれていたんじゃないかな」と微笑ましく思いつつ彼を気遣ってみせているのも、本当のところは「ジーンが麻衣を気にかけ指導してくれたのも、残された自分の半身を思えばこそだった」という身も蓋もない真実を、「麻衣自身の口から」あたかも彼女自身の自主的な思いやりからでた言葉のように語らせているに過ぎないのであり、要は少し見方を変えれば、実はそのやり口自体が彼女に対して極めてシニカルで残酷なものなのだ。

先述したように、ナルとの最初の出会いの時、麻衣は「ナルシストのナル」とからかうつもりで彼を「ナル」と呼び、それが偶然ごく親しい人間しか知らないはずの彼の本名に由来する愛称であったために彼を非常に驚かせたのであるが、実はこれは「麻衣自身の意図を超えたところであらかじめ彼の本質を言い当ててしまっていた」ことの象徴的な表現である。最後に明かされるぼーさんによる表面的な謎解きの中での「ナル(Noll)はオリヴァー(Oliver)の愛称だった」などというこじつけめいた解釈はある種の目眩ましに過ぎないのだ。

表面的な謎解きの中で最後に明かされたナルの目的とは、彼が超能力(サイコメトリ)によって遠い異国でのジーンの死と、殺された彼が山中のダム湖とおぼしき場所に投げ込まれるのを目撃し、その場所とジーンの遺体を捜すために来日したことであり、同時にそれによって、ゴーストハントを請け負うオフィスを開設していたのもそのための手段に過ぎなかったこと、麻衣たちのあずかり知らぬところで彼がリンと共に日本全国を飛び回り、ジーンと彼の眠る場所を捜し続けていたことも明かされるのだが、こうした一連の事実は、表面的な謎の回答としての機能を超えて、まさしくそれ自体が「彼が最初に麻衣が言い当てたとおりの人間である」ことを証し立てているものだ。彼は最初から、文字通り水鏡の向こうに沈んだ“もう一人の自分”を探し求めるナルキッソスであったのであり、麻衣たちとの出会いもなんら彼の本質には影響を及ぼすことのない一つの挿話であったに過ぎない。

自らの半身以外を真に愛することは決してない双子のナルキッソス。それが彼らの正体であり、だからこそ麻衣は彼らに惹かれ、そして拒まれる宿命にあったのだ。「麻衣が最初から彼の“名前”を言い当てていた」ことは、その象徴的な表現であり、彼女の思いの「行き場のなさ」があらかじめ定められた必然であったことを意味するものなのだ。

先述したように、表面的な物語の結末としては、麻衣は思い人が別人であったことと彼の死とを結局は素直に受け入れ、「少女小説のヒロインらしく」「前向きに」立ち直ることで終わっているが、これは“無垢な少女”を、作者が意図している残酷な真実の提示そのものから「それを認知することにも値しない者」として更に疎外するものだろう。山岸凉子は同じ“真実”に直面し絶望する刀自古を通じて、少女/読者の疎外の救いのなさそのものを描き出したのに対し、この『悪霊シリーズ』一作を通じてはっきりと提示された小野不由美の世界観においては、無垢な少女という名の“愚か者”は、「いったい自分が何に拒まれ、何から疎外されたのか」を悟る資格すら持たないのだ。だがそれは同時に、作者自身に“少女に対する世界の真実の残酷さ”を直視し、対峙する勇気が欠如していること、そのルサンチマンを結局はありきたりなミソジニーでしか埋められないのであろうことを、意図せずに自ら暴露してもいるのである。

この『悪霊シリーズ』の裏の物語も含めた構造とそのメタレベルの意味とは、ほぼ明示的に兄弟ものだった『東亰異聞』や、これも実質的にボーイズラブだった(『十二国記』のプロローグでもある)『魔性の子』以前に書かれたものであることも含めて、作者の(正直なところ陰険な)特質を象徴するものだろう。

作者はどうしても平凡な少女の無垢よりも、非凡な少年の明晰さと異能の方が、予定調和な男女の愛よりも、対等な分身として互いに競い合い、認め合い、理解し合う“男同士の絆”の方が魅力的に感じるのだろう。それはそれでいいし、少女の無垢や異性愛という制度化された“女らしい”ナルシシズムの投影先に満足できないのは当然でさえある。

だが彼女の書くものにどうしても不快な印象が拭えないのは、それが一見中性を気取った道徳的抑圧としての“女嫌い”と、明示的に描く勇気を欠いた“男同士の愛”とに分裂したまま、次第に前者への傾斜を深めていくようにしか感じられないからだ。その方がシビアだとかの評価を得られるのか知らないが。

思えば十二国記の世界観そのものが、こうした“誤魔化し”の見事なシステム化であった。登場人物の大半は、中性化されエロティックな要素を捨象された男女であり、“人でなし”として設定された麒麟にだけ“女性性”が一元化されている設定には、なんとも居心地の悪い欺瞞がつきまとう。

最初に述べたジェンダーの構造的な非対称の問題であるが、男とは自身が世界に働きかける能動的な力を持つ主体であると同時に、エロティックな受動性をも兼ね備えた“両性具有”の存在であることが可能である。それに対して女は自身の受動性を制度から本質化されており、能動的な主体であろうとすればそれを丸ごと抑圧し“中性化”する他ない。そうした抑圧によって中性化された女=名誉男性とは、本物の男の持つ両性具有の可能性なぞ最初から持ち得ない、“出来損ないの男”に過ぎないのだ。

あの十二国記の世界観が無批判に踏襲してしまっているのもそうした古典的な欺瞞であり、それを指して「男女が平等に描かれている」と言われているのを見ても苦笑いするしかないのだが。おそらく『悪霊シリーズ』では読者の少女に対する悪意の形を取ったルサンチマンの、別様の帰結ではあろう。

彼女が本当に書くべきは少女に対する抑圧的な説教という他罰ではなく「なぜ自分は“女”が嫌いなのか」に対する内省か、さもなければ自分が本当に魅力的だと思える“男同士の愛”であったと思うのだが。はっきりしているのは、彼女にはそのどちらも描く勇気がなく、その間を埋められなかったことである。
by kaoruSZ | 2014-05-12 11:08 | 批評 | Comments(0)