tatarskiyの部屋(27)
2014年 05月 23日【私信より引用】以前私が書いた記事
http://kaorusz.exblog.jp/20773748/
http://kaorusz.exblog.jp/21287837/
を読み返して欲しいと思ったのですが、そもそもはっきり言えば「男同士」と「女同士」が「同じ非へテロ」という前提が反動的なまやかしです。
ヘテロ規範の本質は「男女」ではなく「エロ=女」という決め付けで、性的対象であることを女の本質とする一方で、男がエロティックであることを否認/否定するというホモフォビアです。
だから百合豚の男というのは往々にして究極の処女厨で、当たり前ですがミソジニストなわけです。そして腐女子がその“女版”なわけがありません。
そして、男にとってのヘテロセクシャルな男女関係というのはそれが「当然」である一方、「当然のように汚らわしい」ものでもあるわけです。それは彼らにとっての女の本質が「男に対して受身であること」という「もっとも恥ずべき行為」の外在だからで、ここでも性嫌悪=ミソジニー=ホモフォビアなのがわかります。だから、彼らにとって女同士というのは「男に愛され犯されるなんていう“穢れ”とは無縁の清らかな処女同士」という夢想を投影できる対象なわけです。
だから、不用意に「男女」だとか「ヘテロ」だとかを叩くのは、「男に対して受身になる女は汚らわしい」という反動的な思想への加担になってしまう。
批判されるべきなのはあくまで「性の対象=エロいのは女だ」という決めつけと、それと表裏一体の男のホモフォビアであって、「男同士も女同士もいい。ヘテロじゃなければいい」というのはどうしたって反動的な誤魔化しへの加担になってしまうわけです。
あなたにそんな悪意があったとはもちろん考えていませんし、上のようなことを状況に応じてきちんと書くのは実は難しいのですが、なるべくなら「クィアぶったヘテロ叩き」みたいな安易な方向へは行かないでほしいと思ったので。
上のエントリーにも書いたことですが、特に今の日本的世間の風土では「百合も好き」なのが正しいという雰囲気は、そのまま「百合も好きと言えない限りBLを好きである“正統な”資格はない」という抑圧に直結してしまいます。
もし「百合も好き」と言いたい時には、それが必然的に“有利”な発言であることを踏まえた上で、抑圧に加担しないような留保を付けてほしいと思ったのです。【了】
↑こちらの文は数日前に私が
https://twitter.com/amezaiku/status/433577619087298562 を始めとした発言に対する指摘です。安易なヘテロ叩きはそのまま男に対して受け身である女性への蔑視へ繋がるものになります。あくまで問題なのは女性=エロ=汚れているという図式に乗っ取った権力であるということを踏まえてなければ権力への荷担になってしまいます。今後は気をつけたいです。
tatarskiyさんから転載の許可をいただいたので、メールからの引用を載せます。
正確に言えば「ヘテロ規範=男女」ではなく「ヘテロ規範=エロいのは女」だという非対称の問題で、つまり男にとっては百合も「エロいのは女=ヘテロ規範の内=俺にとって都合の良いもの」だということです。
だから男女とかヘテロを叩くのが悪いというより、「男に対して受身であること(愛される/犯されること)」を叩くのが悪いということですね。ヘテロ規範とは「男が男に対して受身であること」を“恥”と規定し、「そんな恥ずべきことをするのは女だけだ(=ホモフォビア)」とした上、「そんな恥ずべきことを喜んでする女は汚らわしい(=ミソジニー)」として、更に「男に犯されていない清らかな処女はなんて素晴らしいんだ(=性嫌悪・処女崇拝)」というマッチポンプです。つまりヘテロ規範を否定するためには、そもそもの出発点である「男が男に対して受身になること(ホモエロティシズム)」を否定する男のホモフォビアへの批判が絶対的に必要なわけで、それをしないまま「男同士」と「女同士」を「反男女=反へテロ」として並列してしまうことは、「男女の非対称と男のホモフォビアの隠蔽」にしかならないというわけです。
以上はtatarskiyさん(@tatarskiy1)からのメールより引用しました。