誰がアウトサイダーなのか(1)
2005年 03月 18日「ヘーゲルや」(2004.12.16)で言及した『アウトサイダー・アート』の著者、服部正は、同書の前書きを、幼いころに経験した絵をめぐるトラウマ的なエピソードではじめている。父親の絵を描くという課題が出たとき、父上は日焼けしている人だったので迷わず顏をこげ茶で塗ったところ、先生にはほめられて高々と掲げて皆に紹介されたが、級友たちからは失笑を買った——その先は容易に想像がつこう。彼以外の全員が、父親の顔を「肌色」のクレヨンで描いていたのだ。
以来、服部さんは、思い通りに色を選べなくなったそうだ。「さりげなく周囲を見回しながら、級友たちと似たような絵を描くことだけに苦心した」。そして、二十歳のときに「アウトサイダー・アート」に出会う。美術に関わる仕事を目指すようになったのは、規範から自由な「アウトサイダー・アート」から受けた強い印象からだとさえ言う。
実は私も子供のときの、絵を描くことをめぐる体験のいくばくかについて触れたいと思っていた。それは、アウトサイダー・アーティストの一人としてこの本に紹介されている、山下清という名にレミニッサンスを刺戟されたからでもある。山下の名は、小学二年のときの担任からはじめて聞いた。山下清という人は、と黒板に棒グラフめいた図を書きながら、彼は私たちに説明した。国語も算数も理科も社会も、1よりもっと下だけど(そう言いながら、横軸のゼロより下にしるしをつけたのだろう)、ただ図工だけは、5よりずーっと上なんだ(そう言って、図工をあらわす棒だけを、はるか上まで延ばしてみせた)。
私はこの教師が嫌いだった。その理由を詳述するのは避けるが……今思えば、彼は教師の中でも、はぐれ者だったに違いない。一種の、それこそアウトサイダーだったのだろう。だが、子供にはそんなことはわからない。型破りな教師であることすらわからずに、いちいちまともに相手をするしかないのだから、考えてみれば迷惑な話だ。何よりも嫌だったのは、自分がそういう彼に、明らかに目をつけられていることだった。いや、目をかけられていたというべきなのだが、それさえ当時はわからなかった。ただ、相手から強い関心を持たれていることはわかる。進級して担任ではなくなっても、母に言われてこの教師に年賀状を書いた(私の母は、元の担任に年賀状を出さないことなど許さなかった)。それで仕方なく出すと、向うは返事のハガキに「兎のように優しい子」などと書いてくるのだ(むろん私のことである。たまたまウサギ年だった)。マジで(当時そういう言葉はなかったが)気持ちわるかった!
この教師が、私が夏休みに描いた絵を、皆の前で批評した。服部さんの場合のように、それがトラウマになったわけではない——とはいえ、それは私を途惑わせ、不快にさせた。
その絵は私が、はじめて意識的にリアリズムで描いた自画像だった。リアリズムという言葉を知っていたわけではもちろんない。しかし、そういう描き方は知っていた。なぜなら、二年生になると、図工の時間は専任の教師が担当するようになって、そのはじめての授業の日、図工の教師は金魚の入った水槽を持ってきて教卓に置き、それを見えたとおりに描かせようとしたからだ。
彼は——白髪の老先生だった——まず、他のクラスの子がすでに描いた絵を私たちに掲げて見せた。どれも、金魚鉢の中は「みずいろ」で塗られていた。金魚鉢は本当に水色だろうか、と彼は私たちに問いかけた。
私たちは——少なくとも私は——驚いた。直前まで、金魚鉢の中の水は当然「みずいろ」で塗るつもりでいたのであり、金魚の赤、藻の緑、そして水色という配色を、すでに想像の中で楽しんでさえいたのだから。
実際、金魚鉢の水は水色には見えないことを私たちは認めた。
——では、何いろを塗ったらいいと思う?
私は最前列にいた。老先生は私の机にズボンが触れるほどの近さで立ち、私の頭上でそう問うた。私は金魚鉢を注視した。ガラスを通して、その向うにある教室の壁が見えた。二階建ての木造校舎の、その春私たちが二年生になって一階から二階に移ったばかりの、しかし造りは一年生のときと同じなので外を見なければ二階であることを忘れてしまいそうな教室の壁一面を覆っている、見慣れた薄緑のペンキを塗られた羽目板が。
先生を見上げて私は答えた。「金魚鉢のうしろにあるものの色をぬる」
思いがけない方向からの声に、先生は私を見おろすと、私の頭に片手をおいて、「この子はいいことを言う」と呟いた。そしてそのあとはずっと、説明が終って実際に絵にとりかかるまで、大きな温かい掌は私の頭の上にあった。