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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(3)

※見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(2)


 郎女は死ぬだろう。當麻にしばしとどまった彼女は、再び人知れず立ち去って、ただ一人残りの行程を辿るだろう。「浪に漂ふ身」「水底(ミナゾコ)に水漬(ミヅ) く白玉なる」身とは、水底のエクスタシーに沈むとは、死の予行演習であった。「山越しの阿彌陀像の畫因」で、折口もしきりに畳みかけていたではないか。

四天王寺には、古くは、日想觀往生と謂はれる風習があつて、多くの篤信者の魂が、西方の波にあくがれて海深く沈んで行つたのであつた。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海と言うた。觀音の淨土に往生する意味であつて、淼々たる海波を漕ぎゝつて到り著く、と信じてゐたのがあはれである。(…)日想觀もやはり、其と同じ、必極樂東門に達するものと信じて、謂はゞ法悦からした入水死(ジユスヰシ)である。(…)さう言ふことが出來るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思ひつめ、何かに誘(オビ)かれたやうになつて、大空の日を追うて歩いた人たちがあつたものである。

「思ひつめ、何かに誘(オビ)かれたやうになつて」當麻へやって来た郎女が、このような者たちの一人であるのは誰にでもわかる。しかし、彼女は、それを最後まで歩き切った人とは思われていないのである。

【九月三日】tatarskiyさんから電話あり、『死者の書』序章の大津の独白後、二では語りの視点は俯瞰になり、月光の照らす山、谷、川筋、さらに難波江即ち大阪湾の光る水面にまで語り及ぶ、つまり郎女のやって来た道筋に加え、語られない最後の行先まで、要するに物語の舞台のすべてを、あらかじめ見せているのだという。一見たんなる地形の説明のようだし、二上山に入って郎女の魂を招び返そうとする人々が、塚穴の底から響く甦った大津の声を聞く(明らかに集団催眠である)結びばかりが注目されてしまうが、実はこの部分が重要なのだと。

 その部分を読んでみよう。

月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りにあたるものが少かつた。山を照し、谷を輝かして、剩る光りは、又空に跳ね返つて、殘る隈々までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、澤山の峰があつた。黒ずんで見える峰々が、入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隱れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て來た霞の所爲(セヰ)だ。其が又、此冴えざえとした月夜をほつとりと、暖かく感じさせて居る。
廣い端山(ハヤマ)の群(ムラガ)つた先は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く續いた、輝く大佩帶(オホオビ)は、石川である。その南北に渉つてゐる長い光りの筋が、北の端で急に廣がつて見えるのは、凡河内(オホシカフチ)の邑のあたりであらう。其へ、山間(アヒ)を出たばかりの堅鹽(カタシホ)川―大和川―が落ちあつて居るのだ。そこから、乾(イヌヰ)の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列つて見えるのは、日下江(クサカエ)・永瀬江(ナガセエ)・難波江(ナニハエ)などの水面であらう。


 これはミニアチュアだ。それを俯瞰で撮っているのだ。なんという巧みな、全知の語り手による客観描写(という詐術)。

 ありえないことだが、もしこの小説が郎女の一人称で書かれていたら、読者はこの娘の「異常さ」に気づかずにはいないだろう。彼女が幻を見る人であることを知り、大津皇子の存在を疑ったことだろう。

 序章で語りは、「彼[か]の人」のモノローグにぴったりよりそって来た。ほとんど、「彼」が「我」であるかのように、墓の中の「おれ」は語りつづける。「尊い姉御」つまり大伯皇女[おおくのひめみこ]が墓の外で歌をうたいあげた時にはそれが聞えたというが、これは二で、魂まぎ人たちの声が大津に届き、彼の耳に彼らの声が届くのを自然に見せるための伏線だ。郎女の魂を呼び返そうとする男たちは、大津の非業の死とそれにまつわる物語で頭が一杯で、その話を互いにしあい(読者に聞かせ)、大津の塚の前で「こう こう こう」と呼ばわって塚の中から洩れる唸りを聞いてしまい、飛び上がって四散する。

 彼らが自己催眠によって大津の甦りを確信したように、読者も作品内世界での彼の実在を信じてしまうのだ。さても折口の技の巧みなことよ。

 月光の照らす「白い砂の光る河原」は不吉である。かつてそうした水辺のどこか(磐余[イハレ]の池の堤)で、大津は、「鴨みたいに、首を捻ぢちぎられ」たのだから。日下江・永瀬江・難波江の「光りを照り返す」水面は不吉である。郎女は山を越え、海に至って、白玉の身をそこに沈めることになろうから。そして山中の光る川筋には、いかに細くて目にとまらなかろうと、安良たちが身を乗り出した、崖下の谷底を流れるものも含まれていよう[後日の註:これは崖下でなく、その前に渥美が水に入ったり、青い淵に見入ったりする川を挙げるべきであった]。安良は未遂だが、郎女が海まで行くのは必然で、『文金風流』の照姫も観客の前では心中せず、此の世の外へ向う船に乗るのだ。

 安良は死なない。「(前篇終)」と記された先がどう続くはずだったにせよ、安良には未来がある。「女子供」ではなくなる未来が。安良がどうなるかと言えば、折口になるのだ。十年後には彼は、当時の自分と同年齢の教え子たちの“春のめざめ”を見つめつつ、思い出を甦らせて『口ぶえ』を書くだろう。

 そして長い時が経ち、「夢の中の自分の身が、中將姫の上に」なる夢を見て、当時の自分、即ち安良を、女に換えた『死者の書』を書く。郎女の閨を訪なう骨の指もつ死者と、彼女が幻視する白玉の指の俤びとの対立は、二人の上級生の間で、霊と肉、「浄らかなもの」と「けがらわしいもの」との間で引き裂かれ、葛藤する当時の安良の意識の投影に他ならない。しかし、安良のような、予定調和的に止揚すべき霊と肉との単純な二元論は郎女にはあてはまらない。なぜなら、女である郎女は、最初から不浄の側に割りつけられているのであり、そうでなければ、女人結界を破ったとして寺に留めおかれることもなかったからだ。

 郎女とは何者か。郎女の客観的な立場は、大伴家持と郎女の叔父・恵美押勝のパートによく描き出されている。南家の姫君が神隠しに遭い、「當麻の邑まで、をとゝひ夜(ヨ)の中に行つて居た」と聞いて家持が思いにふけるのは、姫の父に代って実権を握りつつある押勝(五十を過ぎているが三十代のように美しく、家持の長女を息子にくれとせがんでいて父同士で歌のやり取りをしているーー「先日も、久須麻呂の名の歌が屆き、自分の方でも、娘に代つて返し歌を作つて遣し た。今朝も今朝、又折り返して、男からの懸想文(ケサウブミ)が、來てゐた」)ーーのことである。「五十になつても、若かつた頃の容色に頼む心が失せずに ゐて、兄の家娘にも執心は持つて居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る」と以前人づてに知った家持は、「其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡(モタ)げて來て困つた。仲麻呂[押勝のこと]は今年、五十を出てゐる。其から見れば、ひとまはりも若いおれなどは、思ひ出にまう一度、此匂(ニホ)やかな貌花(カホバナ)を、垣内(カキツ)の坪苑(ツボ)に移せぬ限りはない。こんな當時の男が、皆持つた心をどりに、はなやいだ、明るい氣がした」というのだ。

「當時の男が、皆持つた」というのは目眩ましで、男同士で恋文の贈答をし、相手の女関係を仄聞しただけで忽ち「若い色好みの心」を刺戟されて浮き浮きしてしまうというのには男色の匂いがぷんぷんするが(「當時の男が、皆持つた」とはそちらのことかもしれない)、それはひとまず措くとして、ここでの郎女は、第一に、誰のものになるのかが男たちに取沙汰される性的対象物である。 たとえそれが、結局は神の嫁にしかなるまいという、諦めに落ち着くとしても。実際、郎女に文を渡そうとする男は大勢いるが(『文金風流』の狂女は世俗化された郎女であろう)、すべて阻止され本人は知らぬ。郎女が語部の婆から聞き、夢に見る大津皇子は、だから彼女が初めて目のあたりにした求婚者とも言えよう。

 現に、「女盛りをまだ婿どりなさらぬげの郎女さまが、其力におびかれて、この當麻(タギマ)までお出でになつたのでなうて、何でおざりませう」と語部の婆は暗示をかける。しかし姫は信じない。彼女の幻視する美しい俤びとと過去の因縁話などには何の関係もないことが直観的にわかっているからだ。

「大津皇子と彼のために機を織る中将姫との直線関係」(持田)など無い。墓の中の死者の、「おれには、子がない。子がなくなつた。(…)子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳へる子どもを――」という独語は、郎女が振り捨ててここまできたものの象徴でこそあれ、彼女の望んでいるものなどではない。

『春のめざめ』や『飈風』を、確かに折口は読んだのだろう。思春期や性欲を主題とした文学を目のあたりにし、小説でそういうものを書けるのだし書いてよいのだと 知り勇気づけられもしたことだろう。だが影響はそれまでだ。折口は、これは違う、自分が読みたい(書きたい)のはこのようなものではない、そういう作品は 自分で書くしかないと痛切に思ったことでもあろう。それはヴェデキントや谷崎の小説が異性愛を描いているのに対し、折口が同性愛者だったからということではない。『春のめざめ』や『飈風』の同性愛版を作ればいいということではない。同性愛者の性の目覚めを描けばいいというものではない。

 そうではなく、少年少女が何も分らないまま子供を作ってしまうとか、男が女に接して淫蕩の血が目覚め遊女を相手に荒淫の限りを尽し実を滅ぼすとかいったものが、ラディカルな性表現だと信じられている世界にあって、どうしようもなく鈍感で蒙昧な俗情と結託したその前提を崩さなければならなかったのだ。

 湯上りの安良の、「ふりかへると斜に傾いた鏡のおもてに、ゆらゆらとなびいて」「うつつてゐ」た自らの鏡像――「大理石の滑らかな膚を、日が朗らかに透いて 見せた、近頃になつてむっちりと肉づいた肩のあたり、胸のやはらかなふくらみ」――が、夢の中の郎女の「白玉なる身」に通じることはすでに述べた。安良の未分化な身体は自らの受動性を、女という、男にとって当然の性的対象として外在化し、穢れとしての女と自分を峻別し、自分の平穏を乱し、悪しき欲情を搔き立てるそもそもの原因と見なされた女を本質的には憎みながら欲望する、ヘテロセクシュアリティの体制にはまだないのである。

 だから彼の注意は自分自身に、先ほどのように鏡を見ながら「ふと腕をあげて、項のあたりにくみあはせる。ほそやかな二の腕のまはりに、むくむくと雪を束ねる。自身のからだのうちに潜んでゐた、不思議なものを見るやうに、好奇の心が張りつめて來た」と、自分の感覚と自分自身に集中している。

 あらためて『口ぶえ』を――『死者の書』の先行作品と気づいて――読んでみると、最初の方だけでも『死者の書』との類似の多さに驚くのだが、この裸体の描写は、すでに、開巻まもない、安良がシャツなしでじかに上着を着て登校したため、体操教師の上着を取れという命令に従い得ず、手荒に上衣を剝がれた上、号令をかけるべく壇上へ追いやられた際にもあったものである。

彼は壇上に顕れた。彼の状態は、一すぢの糸もかけて居ないのである。彼の顔は、青白く見えた。心もち昂(アガ)つた肩から、領(エリ)へかけて、ほのぼのと 流れる曲線、頤から胸へ、胸にたゆたうて臍のあたりへはしるたわみ、白々として如月の雪は、生徒等の前に――」と、白さを強調した「雪」という隠喩がここにも使われている。「同年級の生徒のある者は、さすがにいたましい目をして、彼を見た。

「一すぢの糸もかけて居ない」いたましさ。『死者の書』の郎女が 入り日の中に幻視したのち夢で見た、「明るい光明の中に、胸・肩・頭・髮、はつきりと形を現(ゲン)じた」「白々と袒(ヌ)いだ美しい肌」の初出はこれ だったのだ。「いたましさ」が、「いとほしさ」に変ったのだ。

あゝ肩・胸・顯はな肌。――
冷え冷えとした白い肌。をゝ おいとほしい。郎女は、自身の聲に、目が覺めた。夢から續いて、口は尚夢のやうに、語を逐うて居た。おいとほしい。お寒からうに――


「神の嫁」という題名で「横佩垣内の大臣家の姫の失踪事件を書かうとした(…)その時の構圖は(…)藕絲[はすいと]曼陀羅には、結びつけようとはしては居なかつたのではないかと思ふ」という折口自身の証言は、本当のことだろう。最初にあったのは、衣服をとられ、「一すぢの糸もかけぬ」雪の膚[ハダエ]を人目に晒すという、空想の方なのだろう。その空想が、無数の蓮糸で織り成した布で「寒くないよう」裸体を覆うという合目的的で合法的な筋書へと逆転した時、それは姫の失踪事件と結びついて、折口に『死者の書』のプロットを可能にさせたのだろう

 その日、安良がシャツを着てこなかったのは、汗かきなので「寝間を出るから、ねつとりと膚がたるんでゐる様に感ぜられた」ためと説明される。雨の朝、教室の「窓ぎはにゐる安良は、吹きこむ細かな霧に湿うた上衣の、しつとりと肌を圧する感覚を、よろこんでゐた」と、ひたすら自分の感覚に忠実な安良である。

 体操に先立つ国語の時間、教師が読本[とくほん]を読む声が安良の耳に入ってくる。「教師は今、おもしろ相に『こゝにおいて、ふりっつは、その狼を戸にむかつて、力まかせにうちつけるよりほかには、しかたがなかつた』と大きな声でいつた」。しかし狼と戦い勇ましく制圧するその話は、安良には「おもしろ」くない。「安良は、はじめから、この教科書の内容に、興味はなかつた。岩見重太郎や、ぺるそいすの物語に、胸をどらしたのも、二三年あとに過ぎ去つてゐた」。

 岩見重太郎やペルセウスという選択も意味ありげだが、まずは、ふりっつの話を、自分の欲望に合わせて、彼がどう変えたか見てみよう。

それでも、ふはふはした雪のうへに、ふりっつの白い胸から、新しい血の迸るありさまをおもひ浮かべてゐた。その夢のやうな予期が、人間の力を思はせる、やすらかな結局になりさうなのを、つまらなく感じた。


 またしても白い胸、そして雪が、この受苦の少年が安良自身であることを容易に指し示す。

「ふりっつ」の話は、直ちに『仮面の告白』の、少年時代の「私」が殺された王子が甦るのが気に入らなかった、同巧の挿話を思い出させる。それを男性同性愛者に特有などと言うつもりはないし、折口と三島が似ているとさえ思わないが、少なくとも彼らは「狼を戸にむかつて、力まかせにうちつける」ことに快感を覚える攻 撃的な大人の男ではなく、成長した男にはあるまじき受動的なファンタジーに浸っているのである。続く体操の時間の出来事について、持田氏は「そのひそかな 愉悦感を罰せられたかのように、今は安良自身が白い胸を露わに皆の前に立たされているのである」と言うが、これは事態の半分しか明らかにしていまい。確かにそれは罰として起り、安良を易々と従わせるが、しかしその罰自体が安良の幻想を実現させるものなのだ。安良の内面の「ひそかな」願望であったものが、衆人環視の下、彼自身の身に現実化するのだ。彼は欲望を満足させ、しかもそのことを罰せられない。なぜならそれ自体が罰なのだから)。

「同年級の生徒のある者は、さすがにいたましい目をして、彼を見た」というが、この「ある者」とは誰だろう。なぜ、「ある者」であって、複数の生徒ではないのだろう。「一すぢの糸もかけていない」白い胸に注がれる目は安良が鏡の中の自分を見つめる目でもある。「同年級の」「ある者」もまた、スペクタクルとしての 安良を見て楽しみたいのだ。そのうしろめたさを伴う「いたましい目」で相手を見た。「ある者」は安良の分身にして共犯者であり、いたましいのは、目であり安良の姿でもある。

 マゾヒズムはサディズムの単なる逆転ではなく、法に従うことで法を無効にするものだと説いた哲学者の説を援用するまでもあるまいが、「蝦蟇(ガマ)といはれてゐる」「太い声の」「大きな教師」の意図は完全に無効にされており、壇上から生徒らに号令をかける安良の「澄み透つた声は、生徒らの耳に徹した。俘虜 [トリコ]のやうに見えた彼は、きびしいゑみを含んで、壇をおりて来る」。

 体操の時間のこの事件は、この小説で描かれる学校生活のうち二日目にあたる。これに先立つ一日目、彼は、遅刻しかけて教室に駆け込み、汗かきのせいで級友に頭が火事だとからかわれる。この二場面をまとめて持田氏は「受苦のあと甦る神のように、安良も同級生や教師に辱められた後必ず一種の昇華を得ている」と言うのだが、これではベクトルが逆ではないか。ここでは「辱め」自体が、一種の「昇華」としての快楽なのだから。彼は白昼夢として展開される欲望(の俘虜[とりこ]であること)から解放されて壇をおりて来たのだ。その後にあるのはむしろオーガズム後の鎮静であろう。持田氏が一日目の「昇華」として引いている一文、「しばらくして、 安らかな涼しい心地が、彼に帰つて来た」も、そう解釈した方が平仄が合うというものだ。

 これに続く叙述は次の通りである。

その時間は、とうとう先生は、出なかつた。 生徒らは、のびのびした気分で、広い運動場に、ふっとぼうるを追ひまはつた。
 安良は朝の光を、せなか一ぱいに受けて、苜蓿草[ウマゴヤシ」の上に仆れて ゐた。青空にしみ出て来る雲を、いつまでも見入つてゐる。


 現在形で記された、一瞬がそのまま永遠になる少年の時。持田氏の紹介している、中学教師時代の折口作の教え子を題材にした歌三種のうち、「白玉をあやぶみいだ」く一首が『死者の書』に通ずることはすでに述べたが、もう一首、「くづれ仆す若きけものを なよ草の床に見いでゝ かなしかりけり」は、まさしくこの時の安良の姿ではないか。その日ついに出なかった、そこにいない(恐らくは)若い「先生」は仆れてゐる安良を背中の方から眺めているのだし、見られているのに気づきもせず、「青空にしみ出て来る雲」にいつまでも見入る者とは、そのまま不在の「先生」の過去なのである。

 郎女の「俤びと」のオリジンが『口ぶえ』の安良の裸身であり、一すぢの糸もかけていない裸にされる「いたましさ」から無数の糸で織った布地で「いとほしい」裸身を覆うことへと変形されていること。それが當麻寺の曼荼羅の伝説とうまく接続されたのだ(折口は、芸術家が白昼夢をいかに加工して社会的に受け容れられる形にするかについて書かれたフロイトの「詩人と空想すること」も共感を持って読んだに違いない)。あれは全く阿弥陀仏などではない(実は郎女もそれが阿弥陀ほとけではないかと思ってそう呼んでいるだけなのがちゃんと書かれている。肌の白さが強調され金色の髪を垂らしている阿弥陀如来などいない)。

 これをキリストの像だとする研究は以前からあるようだ。俤びとではなく、壇上に立って見上げられる安良について持田氏は、「胸から血を流すふりっつの幻想と重り、磔刑のキリスト像を強く強く連想させる」と言っている。それはその通りなのだが、その際重要なのは、そもそも磔刑のキリスト像自体が、狼に嚙まれて血を流すふりっつや裸にされて衆目に晒される安良と同じく、マゾヒスティックでエロティックなイメージだということではないか。

 持田氏はホモフォビックな男の研究者とは違うので、折口の奇怪な一首「基督の眞はだかにして血の肌[ハダエ] 見つつわらへり 雪の中より」を引いて、「真裸で衆目に晒され、血を流しその後よみがえるキリスト」を「官能的イメージを軸としながら」とまでは言うのだが、そこでスサノオやヤマトタケルを並列し、「彼らと通底する一旦卑しめられる神として折口を強く引きつけた」とまとめることで、台無しにしてしまうのだ。

 まして「一度は処刑されながら、その後水の女である中将姫との交感によって新しい神としてよみがえる『死者の書』の大津皇子の中にも、キリストのイメージが色濃く看取される」に至っては何をか言わんやである。語部の婆のせいで郎女の夢の中に出てくるようになった幻に甦りもへったくれもあるものか。

中将姫の前に示顕する大津皇子は、白い胸と黄金の髪を持ち、憂わしげに姫を俯瞰する若く美しい神である。

だからそれ、大津じゃないって!
(ついでに言えば、中将姫でもない。)

体操教師に 上衣を剝がされ壇上に立たされる少年安良の造型にも、既に磔刑のキリストを具体像とする、傷つき賤しめられる神のモチーフの萌芽が見られる。

 いや、違う。先に安良の身体が「如月の雪」「むくむくと雪を束ねる」と形容され、彼の空想の中で、ふりっつの白い胸から血は白雪の上に迸る(それがキリストと重なるのは、そもそも磔刑像がそうした図像の一つだったからだ)。基督の血の肌[ハダエ]の短歌は、まさに裸体と血と雪の三位一体である。

 俤びとが「冷え冷えとした」「白い」肌を持つのは無論こうしたイメージにつらなるものであるからだが、その時にはエロティックな含意は、変形され、隠されている(郎女はひたすら、寒さから救うためにその裸体を覆いたいという欲望に駆られているかに描かれる)。しかしこれは神のモチーフなどではなく、折口の作品を貫くモチーフなのであり、「傷つき賤しめられる神」は、復活ゆえにではなく、その傷ゆえにエロティックな価値を持つのである。


もう口ぶえは吹かない 1 【見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(4-1)】へ続く
by kaoruSZ | 2015-09-18 19:01 | 文学 | Comments(0)