おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

もう口ぶえは吹かない 2 【見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(4-2)】

蛇を呼び出す
 テクストを直接参照しないで小説について書くというのは、たとえツイッターであっても無論誉められた話ではないのだが、論者が引用したり、かいつまんでくれたりするのに甘え、とりあえずそれに頼っていた。ところが、『口ぶえ』を読み返してみて驚いた。こんな変な話だったか? 憧れの渥美、大和旅行からの帰阪後に手紙が来る以前には、全く登場していないではないか。

 つまり、声をかけてきた若者に学校名を言って、「あの学校に、渥美といふのがありませう、知つてますか」と問われるのが『口ぶえ』での渥美(という名)の初出であり、それ以前には一度も言及がないのだ。

渥美々々、彼は深いねむりのどんぞこよりひき起されたやうな気がした。「渥美、えゝ、ゐます」 

 いったい何だろう、これは。「えゝ、ゐます」って、その記憶、渥美の名を聞いた途端に作られたものじゃないか? 夢の中なら普通にあることだが。

 渥美は従弟にあたるが「久しく逢ひません」という相手は、「まだ時間はありますよ、外へ出ちやどうです。こゝは暑くてたまらんですよ」と、畑の中を横切って堤の方へ彼をいざなうが、そこは「月がゆらゆらと上つて来た。夏涸れに痩せた水は、一尺ほどの幅で彼の足もとを流れた。月見草が、ほのぼのと咲いて、そゞろはしい匂が二人を包んだ」と、何とも雰囲気たっぷりなのだ。

「…知つてますか馬追といふのです。それ、あちらに鳴いてるでせう。あれが松虫。おや鈴虫もだ、ねえいゝ声でせう」


 そう話しかけられても、「胸がせまつて一言もいひ出せない」安良。「渥美の名を聞いた時に、彼の心は不思議なほど動揺を感じた。その渥美の従兄といふ人と、かういふ処で出逢つたといふことが、いひしらずなつかしい心地に彼を導いた」。柳田に「渥美も大きくなつたでせうね。どうです。成績の方は」と訊かれ、ようやく「えゝようでけます。いつでも特待生の候補になつてます」とすらすらと答えるが、そんな記憶どこにあったんだ。極め付けは「やはらかな光にほのめく月見草は、夜目にたよたよと、渥美のおもかげをおもはせてゆれてゐる」って、何なんだこれは。

 彼らの会話を意味のないもののように言ったが、間違いだった。

 多分これ以前に「涼しい目をあげて安良をぢつと見た」雑魚取りの少年を「どうも、あの顔には見おぼえがある。いつ見た人だらう、と記憶に遠のいてゐさうな顔を、あれこれと、胸にうかべて見た。しかしものごゝろがついてから、逢うた顔ではない、といふ心もちがする。もつともつと、古い昔に見たのだ。或は、目をあいて夢を見たねんねいの瞳におちた、その影ではなかつたらうか、とも疑つた」というのが伏線だったのだろう。「記憶に遠のいてゐさうな顔」と言うのは、これが祖父の実家の古い社を訪ねる旅だったからで、しかし彼の生れる前に行き来は絶えているので、実際に知った顔ではありえなかったろう。

「従兄という名で渥美の分身が現れたようでもあるのだが、富岡氏の言うとおりであれば、そもそも若者の方がオリジナルで、渥美はそこから派生したのか?」と、私は渥美のモデルとしての現実の藤無染の意味で書いたが、小説では、オリジナルとしての渥美よりその代理である「従兄」の方が先行し、そこから贋の記憶として渥美が誕生したという事なのか。

 それにしても、渥美がたよたよと風にゆれる月見草のおもかげなのに対し、「その若者は骨々しい菱形の顔をした男であつた」という(一見)写実風の断言――。

汽車が来た。若者は窓によつて、「失敬」といつて、すてっきをぷらっとほうむにひいて出て行つた。
その若者は骨々しい菱形の顔をした男であつた。


 堪らなくなってtatarskiyさんに電話した。若者との出会い以前に、渥美の名が一度も現れぬことを、私の見落しでないのを確認してから、「骨々しい菱形の顔」とは何と思うかと問うた。彼女は口ごもっていたが、「口笛を吹くと蛇が出ると言うけど」と言った。

 思いがけないものまで出てしまった。確かに『口ぶえ』と題された小説に、一度も口笛が出てこないのは謎であったのだ。末尾に「前篇終」とあるので後篇でわかるはずだったと一応は納得していた。だが、その理由で「口ぶえ」というのならぴったりだ。今回読むまで忘れていたが、実は蛇は、小屋の中に安良が幻視(というかレトリックというべきか)するより前にも姿を見せてはいた。

彼は一歩塚の方へ踏み入つて、ぎよつとして立ちすくんだ。毛孔が一時に立つて、冷汗がさつと滲んだ。蛇だ。むらむらと恐怖がこみあげて来る。しかし、静かな心もちがすぐ彼に帰つて来た。安良は、ぢつと目をさだめて見た。淡紅(トキ)色の細紐が草のうへになびいてゐたのである。胸はまだどきどきしてゐる。

 それ自体が隠喩の絵解きである文章だが、蛇が塚(墓)にいたのも見逃せない。その直後、小屋の中に安良が見る蛇は比喩のみだ(無論正体は絡みつくトキ色の手足だろう)。そして停車場で会った「若者」の形容は、蛇という言葉抜きで行われた。プラットホームに引いて去ったのは本当にステッキだろうか。そもそも安良はこの男と現実に出会ったのだろうか(現実の折口が桜井駅で藤無染と出会っていたとしても何の保証にもならない)。渥美からの手紙は本当に来たのだろうか。これ以前、長谷寺で、彼は「太い円柱が処々に立つ」舞台の上で白い幻に出会っている。

ふとふりむくと、堂の立蔀に身をよせてすうつと白い姿がうごく。安良は瞳を凝して、身じろぎもせなかつた。白い姿もぢつと立ち止まつて動かない。安良は恐る恐る近よつて行つた。白い姿はだんだん輪廓が溶けて行つて、夢のやうに消えてしまつた。

 明らかに安良は幻を見る人なのだ。後篇でこの白い分身に合理的解決がなされたとも思えない。

 tatarskiyさんから電話あり、口笛とは伝統的に「魂呼ばひ」でもあるのだと教えられる。『死者の書』の二上山の上で、月光の中、南家の郎女を探して行われていたものもそれであり、あの時はそれに応えて大津皇子が甦った(と捜索隊は信じて逃げ去った)。『口ぶえ』の月射す河原も言ってみれば死後の景で、二人は渥美のことをすでに死者のように話している。死者の思い出にように話題にしている。だから「月見草のおもかげ」なのだと。 

 そういえば長谷寺で幻に遭うのも月夜の出来事で、『死者の書』の、大津の墓の中の語りから一転して俯瞰図になる二章冒頭では、月照る下に「白い砂の光る河原」が見えていた。

 九月二十九日朝と夕、tatarskiyさんと電話で話し、『口ぶえ』最後まで解ってしまった。最後というのは、後篇の結末までの折口の構想すべて、後篇で何が明らかにされるのかのすべてである。どうしてそんなことが分るかと言えば、折口が前篇で手がかりを全部出しているからだ。後篇ではそれに答えが与えられることになるだろう。こんなものが出てくるとは夢にも思わなかったが、ために折口の現実の恋人の話もかすむ。

「後篇でこの白い分身に合理的解決がなされたとも思えない」と先に書いたが、勿論「合理的解決」はなされるのだ。そしてその解決は、「あの時から安良は オカシかった」というものでしかありえない。あまりにもさりげなく書かれているので、読み過してしまうのだろうか。持田論文では、メレジェコフスキーの小説でユリアヌスが古代神殿で白い女神の幻に出会うくだりが引き合いに出されていたが、そんな牧歌的なことを言っている場合ではなかった! 怪異譚でも幻想小説でもなくて(これは『死者の書』も同じ)、それなのにリアリズムに反することが出てくるとしたら、語り手がおかしくなっているのだ。

 しかし安良は狂人ではなく詩人である。少なくともこの小説が終る時にはそうなっているはずだ。これは作者と同様、芸術家になるべき少年のイニシエーションの話で、それを折口は、自分の伝記的事実を全面的に貸し与えつつ、自分とは異なる一典型として書こうとしたのだ(なお、狂人と詩人とはナボコフが『青白い焔』で使っている分類だが、 狂人でなく詩人とはっきり書いてあるのに、キンボートを狂人と思い込んでいる人が多いのには驚く)。

 月光の下で現れ消えた、白い幻が当然のように語られた時、すでに安良の“狂気”ははじまっていたと言える。ちなみに私がこのくだりで連想したのはフロイトによる『グラディーヴァ』の分析で、あれは真昼だが、古代の廃墟で主人公が見た幻は、そのあと現実の女として彼の前に現れて、最後には《本当に》彼の幼なじみ(忘れ難い歩き方をその記憶に残した)であることを明かす。こうして、古代の浮彫として見出したグラディーヴァ像にしか興味を持てなくなっていた考古学者の青年の理想の女が現実の女と一致するという、ある意味非常におめでたい(男たちが誤読して感動する際の『未来のイヴ』のようにおめでたい)小説だが、同じように渥美とは、安良とは子供の頃に会っているのではないかとも考えた。だがこれは、目元涼しい雑魚とりの少年を見るくだりにまんまと引っかかったのである。

「ものごゝろがついてから、逢うた顔ではない、といふ心もちがする。もつともつと、古い昔に見たのだ」とは、安良が夢みがちな文学少年だからそんなことを考えたわけではない。それはもっと近い過去に逢った顔、思い出すことを抑圧している顔の代りなのだ。ちょうどハノルトが幼なじみの代りに浮彫を見出したように。

「学校の後園に、あかしやの花が咲いて、生徒らの、めりやすのしやつを脱ぐ、爽やかな五月は来た」と『口ぶえ』は書き出される。だがそれ以前に勿論四月があり、三月があったのである。冬があり、前の年の秋があり、夏があったのである。物語はとうの昔にはじまっていたのに、読者はそれを教えられていなかった。

「このごろ、時をり、非常に疲労を感じることがあるのを、安良(ヤスラ)は不思議に思うてゐる。かひだるいからだを地べたにこすりつけて居る犬になつて見たい心もちがする。この気持ちを、なんといひ表してよいか知らぬ彼は、叔母にさへ、聴いて貰ふわけにはいかなかつた」とはじまる、安良によりそってその心理と生理を細やかに語るかに見えるのは、最も信頼できない種類の語り手だ。安良の不安定さや、心ここになさげな様子や、天候や季節や植物と一体となって自分の感受性の中で生きているかの如き動物的な様子(彼自身「犬」と言っている)は、読者がそう思い込まされるような“春のめざめ”のせいではない。

安良の今の状態は、小説のはじまる以前のある出来事の結果なのだ。その事件は、読者からは勿論、彼自身からも隠されている。安良の防衛が破れるのは、疑いもなく、「渥美」の名が彼の従兄・柳田の口から発せられ、「渥美々々、彼は深いねむりのどんぞこよりひき起されたやうな気がした」時である。だがそれは覚醒ではなく、より深い混迷への入口だった。

 先に私は、渥美に関する記憶はこの瞬間生じたものではないかと疑い、代理である柳田との出会いが先にあり、その後にオリジナルが捏造されたのではと疑ったが、そうではなかった。柳田に会って安良に渥美の記憶が甦ったのは確かだが、それは歪んだ記憶であったのだ。

 白い幻との遭遇の際、奇妙なことが起っていると読者が気づかないのは、それ以前に、乳母の家で十年前に空想したことを、安良が現在経験しているかのように思い出すくだりがあるからだろう。感受性の極度に強い、想像力豊かな子だからと見過してしまうのだろう。しかし、鬼婆の幻想の場合、安良はまだ、それが空想や回想だという認識は手放していなかった。

 白い幻影を見た翌日、彼は何に出会うか。まず塚の辺りで、「長く淡紅(トキ)色の紐が、露深い叢に流れてゐる」のを蛇と見間違う。それから、「道が二股にわかれてゐる」手前の野番小屋を覗いて、「淡紅色の蛇が、山番の裸体の肩や太股に絡みついてゐる」のを目撃する。そして道を下って行き、「灯ともし頃になつて」若者に声をかけられるのだが、実はその前にも蛇はいた。目を閉じて男の肩や太股に絡みついた蛇が浮ぶのと、停車場での出会いの間を繫ぐのは次の文章だ。

昼すこし下つて、焼けつくやうな白砂のうへに大杉が影をおとす三輪の社頭に立つてゐた。山颪が今越えた峰のあたりから吹きおろす。
紐手巻塚 [ヲダマキヅカ]杉酒屋の娘の恋物語を、幾度かにれがみかへしながら、遥かな畷を辿つて行く。


 ここで安良が反芻しているのは、「妹背山女庭訓」の、蘇我入鹿を倒すために、愛した男の犠牲となって死んでゆく酒屋の娘お三輪の物語(そういえば入鹿の卵塔も前日安良は見ている)。三輪の大物主神は言うまでもなく蛇身であり、男の着物の裾に糸をつけた針を刺して追跡する三輪山伝説の細部は、「紐手巻塚 [ヲダマキヅカ]杉酒屋の恋物語」にも引用されている。

 そして直後に出会う男は「骨々しい菱形の顔を」しておりステッキを蛇の尾の様に引いて去る。この蛇づくめは、「『淡紅色の蛇』のからみ合い、という幻視はあまりにもわかりやすい性的な象徴だが」(富岡)で済まされるようなものではない。幻視以前に、テクストの上に蛇が繰り返し呼び出されているのだ。

 では何が蛇を呼び出しているのか。口ぶえである。勿論安良が吹いたわけではなく、本文では一度も吹かれず、文字も出ないが、それでも本文の前に置かれたその言葉が、蛇を召喚しているのだろう。後篇でも多分口ぶえは直接には出ない。ただ、夜、口笛を吹くと蛇が出るという伝承がどこかで言及されるのだろう[これはあとで考えを改めた]。

 これまで誰も思わなかったことだが、『口ぶえ』は死者を甦らせる話なのだ。『死者の書』の成立に折口が実際に見た夢と、「故人」への思いがかかわることは折口自身が書いているが、それを大津皇子の「復活」に結びつけて特異な幻想小説だとする、見当違いの批評が長年なされてきた。一方で、『口ぶえ』は、折口の自伝的な事実に添った、自然主義的な作品と信じられてきたのだ。

 今回判ったのは、『死者の書』と『口ぶえ』が、外見も結末も違うが、双子のような作品だということだ。若い女と男がそれぞれ失踪する。少年は助かるが、娘は作品を残し海に消える。郎女はそもそもなぜ出奔したのか。それをきちんと考えた者がいなかったのと同様、誰も本文がはじまるより前に、安良に何があったか考えなかったのである。

『死者の書』の郎女も『文金風流』の照姫も、自らの属する共同体には不必要な(「女の分」を越える)能力を持った女であり、そのため最終的に此の世で生きられなくなる。しかし安良は違う。十五歳になりながら女を追いかけないのは「勉強一まき」だからと周囲も認め、訪ねてきた乳母からは、「小ぼんちやん、いつまでも、をなごなんて欲しいおもひなはんなや」と、隣人からは「なあ、ぼんぼん。わてらな、若い時分には盆いふと、なかなか家にぢつとひてしまへなんだで。湯帷子[ユカタ]がけで外い出て、をなごおひかけまんね。(…)あんたらそれから見るとえらいもんだんな。結構やな。やつぱり学問のりきだつしやろ。なんちうても学問やらんとあかん」とからかい混じりながら言われ、「祖父も、父も、歌や詩を作り、古典にも多少の造詣は持つてゐた」というその父から、幼時に俳句を口うつしで教わり、「家といふものより、もつとしみじみと自身には親しまれる世界のある心地が」する彼は、実際、そういう自身のあり方を認められた身で、将来家を離れて学問に生きることが可能なのだ。

 それなのになんで安良は、突然の渥美の呼び出しに応えた上に、「みんな大人の人が死なれん死なれんいひますけれど、わては死ぬくらゐなことはなんでもないこつちつげや思ひます」と言う渥美に従い、死のうとするのか。「前篇」の終りに突然渥美が現れ、これまでのいきさつの説明もないまま、闇雲に心中へ突き進む、筋の運びを誰もおかしいと思わなかったのか。

 それとも折口はその程度の下手な作家で、自分の体験を粉飾した若書きの未完の原稿を残したとしか思われていないのか。彼が男を好きだったからあのような情熱が描かれている、くらいに解されているのか。とんでもない。これは計算され尽した巧緻な作で、伏線は残らず張られ、すべての答えは用意され前篇だけでその謎解きの後篇が推し量れるようになっている。「このあとどういう展開になるのか、無論、原稿がない以上、確実には何もわからない」(『釋迢空ノート』解説)とは怠惰なだけだ、後篇が書かれれば間違いなく傑作となり、バッドエンドでない同性愛小説の先駆けにもなったものを。

 先に、自分の外に理想の男を設定していないところが三島と違うと書いたけれど、これは勇み足だった。テクストのはじまる前の出来事がその時はまだ見えていなかった。三島との違いを言うなら、いくら自伝的要素を貸し与えても『仮面の告白』には芸術家としての彼自身が書かれていないが(三島自身そのことは、ものを書く人間でない以上この主人公は自分と違うと、一種の逃げ的に言っていたと思うが)『口ぶえ』は感受性の鋭い少年が芸術家になる、まさにそれ自体が主題の芸術家小説なのである。

 かつて天沢退二郎はつげ義春の『ねじ式』を論じて、切断された腕の血管をねじで接合され、ねじを締めると片腕が痺れるようになった主人公について、つまりこの少年は芸術家になったのだと書いていたが、安良もまた、ただ一度の死を死ぬのではなく、渥美との道行を生き延びてひとりで帰ってくることで、生と死を自在に行き来する者としての芸術家になったのである(三島は向う側へ自ら越えてしまったが)。

 それに先立ち、彼は渥美を失わなければならなかった。だが実は、小説のはじまるより以前に渥美は見失われていたのであり、そのことが安良を、一種の麻痺に陥らせていた。それが、従兄と名乗る柳田に出会って、彼が渥美の名を口にすることによって動揺させられ、家に帰った安良のもとには渥美からの手紙が届き、彼はもう一度渥美に会いに行くことになったのだ。

 これはオルフェウスの地獄下りに比すべき話であり、時期がお盆に設定されているのも偶然ではないのだが(これは偶然かもしれないが『文金風流』もお盆の話だ)、書かれてから一世紀の間、その真実は誰にも気づかれぬままだったとおぼしい。


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by kaoruSZ | 2015-10-07 04:47 | 文学 | Comments(0)