もう口ぶえは吹かない 3 【見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(4-3)】
2015年 10月 08日渥美の手紙を受け取った後の安良の行動は、いささかならず異常である。「どの道をどう来て山にかゝつたのか、どう考へても思ひ出されない。叔母や母の許しをうけたといふ記憶もなかった」という状態で、渥美の滞在する西山の寺へ辿りつく。そのあとで経緯がもう一度語り直され、以前は休暇の度に訪れていた父のさとの北河内へ行くと、もう休みが十日もないのにという叔母の反対もきかず家を出て、同地へ嫁いでいる姉の家に滞在、三日後、今度は大阪へ帰ると言って、引き止めるのを振り切り、「京街道を北へ北へ行つて、大きな河を三つも越えて、わき道へそれてからは、唯むにむさんに山をめあてに進んで来た」という。 どうもまるで大蛇にでも変身したような。
富岡氏は、「安良が、このひとり旅から帰ってすぐ、手紙の呼び出しに応じ、アリバイを作りに父の実家へいくことさえして、『むにむさんに山をめあてに』善峯寺へ向ったのは、旅での忘れられぬ思い出をのこした『若者』が寺に待っているからではなかったのか」と書くが、これは完全に折口と安良を混同している。
折口は確かに桜井駅で、「若者」藤無染と知り合ったのだろう(富岡氏が想像するように、汽車を待っていた十三歳の少年相手の行為があった訳ではなく、実際にはもっとゆっくり進んだと思うが)。帰阪後手紙を受け取り、飛び立つ思いで善峯寺へ向ったかもしれない。だが、安良を突き動かしているのは、「若者」ではない。一年前別れた渥美である。
渥美のモデルを折口の中学での片思いの相手だとする人々に対抗して、富岡氏は、彼らは「小説」に騙されており、藤無染こそがモデルで、「若者」は渥美と同一人物だとしている。中学での同級生は「おとり」で、藤無染がそこに隠されているというのだ。そうだろうか。「小説」が隠しているのはその程度のものだろうか。
折口には確かに少年の日に停車場で声をかけてきた年上の男が、『死者の書』に至る生涯のミューズとなったのだろう。だがそれは安良の与り知るところではない。五年前無染を亡くした二十六歳の折口が、その経験を『口ぶえ』にとどめようとしたことは疑いない。彼はしかし安良には自身とは違う運命を与えたのだ。
先程引いた富岡氏の、「安良が、このひとり旅から帰ってすぐ、手紙の呼び出しに応じ、(…)『むにむさんに山をめあてに』善峯寺へ向ったのは、旅での忘れられぬ思い出をのこした『若者』が寺に待っているからではなかったのか」については、「“夢の仕事”が辿られるのを見るような鮮やかな分析」と評したし、作品の中に現実の反映を突き止め、藤無染を発見した功績に対しては今もそう思っている。だが、そこで分析されたものは安良の夢ではない。書かれたものから現実へ至ることはできても、書かれたものを現実によって説明することはできない。それはすでに別の連関の中に入り込んでしまっているからだ。
安良が寺に駆けつけるくだりについても、氏は、「『どの道をどう来て山にかゝつたのか、どう考へても思ひ出されない』ほど心せいて」と言うが、折口は初めての恋人との逢引に心せいていたかも知れないけれど、安良はそうなのではあるまい。小説の中の安良は、別の理由でオカシクなっているのである。
「姫は、何處をどう歩いたか、覺えがない。唯家を出て、西へ西へと辿つて來た」(『死者の書』)。郎女の場合も、いきなり到着があって、事情があとからついて来たが、安良もまず寺に、こちらは夕刻に着く。郎女は朝日の照らす壮麗な寺院を見るが、安良は、「渥美は早朝から和尚さまに連れられて峰づたひに花の寺まで行つた」と知る。女人結界を破った郎女よりも待遇は上と言うべきだろう、勧められて湯に入り、「渥美君はこんな処にゐて、しまひには坊さんにせられるのではないだらうか。花の寺とやらから帰つたあの人のあたまが、最前の番僧のやうに剃りまろめられてゐたらどうしよう」と思ったりしながら食事をすませ、ランプを据えた机にひとり凭って渥美を待つ。
そのうち、つひ昼の疲れが出てうとうとすると、ものゝけはひを感じてふと目があいた。ふりむくと、音を立てぬやうに襖をしめてゐる渥美の細やかな後姿が目につく。
富岡氏は「渥美少年の登場の仕方に不自然な感じがある」と言うが、不自然どころではあるまい。うたたねは夢の指標だが、この場合はここから夢というよりも、これ以前からすでに異次元に入っていたことの駄目押し的な強調だろう。折角何かに気づいても富岡氏は、「不自然といえば、先の渥美の恋文も中学生の手紙にしては小説ゆえの「つくりごと」の不自然さというより、事実を「つくりごと」にしそこねたような不自然さがある」と、すぐに見当外れにそれてしまう。
別に幽霊が出ている訳ではないので霊視能力は必要ないが、小説を読む能力がないと“恋文”も読めない。渥美と言葉を交し、「やすらかにこだはりのない口ぶりが、彼の予期とは非常にちがつてゐた」「これがあゝした手紙を書いた人だらうか、何やらだまされたやうな気もちになつて来る」と安良は思うので、先に手紙を読んでみよう。
渥美の手紙は、安良に思いを寄せる上級生岡沢からの絵はがきと一緒に届く。これは偶然ではない(小説は現実ではないので、偶然はありえない)。富士山の写真に、「これより富士へのぼるべく候。詳細は帰阪の上申しあぐべく候。尚倍旧の御愛顧を請ふ」とある葉書に彼は噴き出す
「倍旧の御愛顧を請ふ、と書いた彼の男のさもしい心もちを、せゝらわらわずにはゐられなかつたのである。(…)しかし、その下から、自身の浅はかさをあざける心もちが湧いて来るのを、ぢつとおさへて、状袋の裏をかへすと、京・西山にて渥美泰造とあるのが、ちらと目にうつゝた。咄嗟に、穴にでもむぐりこみたいやうな気がして、顔が赤くなるのを感じた。彼の胸には大きな期待がこみ上げて来た。
岡沢への嘲笑と自らへのあざけりは表裏一体、岡沢の妄執は「裏をかへす」なら渥美に寄せる自身の思い、渥美の「愛顧」を願うさもしさに赤面しながらも、岡沢同様便りをくれた渥美へのふくれ上がる期待が抑えられないのだ。 「もつとおちついた静かな心、さういふ心地で渥美の手紙を読みたい。いつも渥美とはなす時の、さはやかな気分で見なければならぬやうに思はれ」て、階下へ降り庭に出て「倉の影」の「不浄口へかよふ空地」に立った安良は、「穢れはてた心には、清らかな人の手紙を手に触れることさへ憚られ」つつ封を切る。
……山の上の静かな書院の月光の中でひろびろと臥[ネ]てゐると淋しくもありますが、世の中から隔つたといふ心もちがしみじみと味はれます」(と、手紙ははじまる。)「わたしは心からあなたに来ていたゞきたいと思うてますが、また、気にしてくださいますな、来ていたゞいて自身の思うてゐることの万分の一もいへないだらうといふ心がゝりがあります。やはり手紙で書きませう。どうしたといふのでせう。わたしはあなたとおはなしをしてゐるとなんだかかうわくわくしておちついた気になれないのです。かう書いて見ると手紙がまた非常にもどかしく感ぜられて来ました。どうすれば、いゝのでせう。来てくださいとはえまうしませぬ。かういつたしだいですから。けれども来て頂かなければまた怨むかも知れませぬ。わたしには判断が出来なくなつてしまひました。お心に任せるほかはありませぬ。あなたの御判断をわたし自身の判断として仰ぎます。訣のわからぬへんなことを書くやつと御おもひになりませうが……
長いがあえて全文を引いた。確かにへんな手紙である。「安良は、とび立ちさうになるのをおさへることはむつかしかつた。けれども、その時、ほのかに渥美を怨む心が、ふつと胸を掠めてとほつた」。とび立ちそうになるのは分る。だが、なんで渥美を「怨む」のか。
あらためてこれを読んでわかったことがある。「中学生のころ、友人だった男が夢の中に現れて、自分に対する恋を打ちあけた」という折口の夢、『死者の書』執筆 の契機となった夢の原型はこれだったのだ。自分のフィクションをなぞる形で折口は夢を見た。本当は渥美がこんな手紙をくれる筈はないのである。
富岡氏は口ぶえの「主人公の相手のモデルを、加藤守雄は、中学校の同級生で、友人に頼んで写真までもらった辰馬桂二だとしているが、そのように決めてかかっていいものかどうか」と言い、辰馬は折口の一方的な「アコガレ」で心中するような仲ではなかったと言うが、モデルというものは何もかも一致せねばならぬといつ決まったのか。富岡氏が何のためらいもなく「恋人」と呼ぶ渥美は、実際には安良の片思いの相手としてしか読めないから(富岡氏にも加藤守雄にも分らなかったろうが)、その意味では、辰馬桂二はまさしく、渥美のモデルと呼ぶに相応しい。
安良が渥美を追ってゆく善峯寺は、十代の折口が無染を追って行った場所だから渥美=無染と富岡氏は主張したい訳だが、折口は折口、安良は安良で何の差し障りもなく、却って折口が現実の出来事をどう使ったか分るというものだ。二十六歳の折口には無染の思い出なしでは『口ぶえ』は書けなかった。だが、彼の小説中の人物はそんなことは知らない。無染どころか折口のことも覚えていない。
安良が覚えているのはただ渥美のことだけだ。 それも、停車場で見知らぬ「若者」から渥美の名を言われ、「渥美々々、彼は深いねむりのどんぞこよりひき起されたやうな気がした」時以前には、五月六月七月とゆっくり叙述が進んで来ながら、一度も意識に上らず誰にも言及された事のなかった渥美である。
しかし、来てほしいとかき口説きつつ行きまどう手紙から感じられるものは、どうも安良の記憶にある渥美とは微妙に食い違うようだ。渥美らしくないと思うような文面なのだ。
安良はいく度も幾度も読みかへした。しかし、どうも彼の胸にしつくりと納得の行かぬ処があるやうに思はれる。(…)あの朗らかな、木海月を噛む歯ざはりを思はせるしなやかなことばで、はればれとした瞳をしてもの言ふ人に、どうしてこんな手紙が書けるのだらう。
渥美に書けない手紙なら、それは渥美が書いたものではないからではないか?
書かれているのがそのまま自分の気持ちであるのを安良はいぶかしんでいる。「『わたしはあなたとおはなしをしてゐるとなんだかかうわくわくしておちついた気になれないのです』実際、安良自身がいつも感じてゐることなのだ」。
「安良自身がいつも感じてゐること」を、どうして渥美が書けるのだ。
「あなたの御判断をわたし自身の判断として仰ぎます」とは、自他の境がゆらいでいるのか、それともはじめから「わたし」ひとりしかいないのだろうか。もしかしたらこれはジュリアン・グリーンの『地上の旅人』のような小説ではあるまいか。
しかし安良はそんなことは考えず、思いは「けがれた/浄らか」の二元論へ収斂してゆく。
一年生の頃から、渥美の名を聞くと、軟らかなけばで撫でられた楽しい気もちになるのがくせだつた。自身でも、なぜさうなるのだかわからなかつた。きのふかへりの汽車のなかでとつくりと考へて見たが、どうもそれが岡沢に対する心地と、さのみちがつたものでないと思ひあたつて、不愉快な念に閉された。かふいふむさい処に根ざした心で、浄らかな人を見るといふことが、なんだか渥美を汚すやうな気がした。その渥美が、自身らとおなじ心もちでゐようとは信ぜられない。
「どうしてこんな手紙が書けるのだらう」と思いながらも、安良には」渥美がなお「近づきがたい人のやうに見え」、「自身には「倍旧の御愛顧を」と書いてよこした岡沢が似合はしく思はれて、悲しくなる」。岡沢には付け文され、つきまとわれ、後ろから抱きつかれたり、頬にキスされたりしているのだ。
「穢れはてた心」と「清らかな人」の対立は、「すべての浄らかなものと、あらゆるけがらはしいもの」とも言われたし、手紙の届く直前には「西行や芭蕉のあゆんだ道、さういふ道が白じろと彼の前につゞいてゐる。安良がその道へ行かうとすると、どこからともなく淡紅色の蛇がちよろちよろと這ひ出して来て、ゆくてを遮つた」と前段の蛇が殆どパロディ的に出てきていた。性に対する「けがらはしさ」の意識は、安良がこのように思い悩む、「もつとおちついた静かな心」「いつも渥美とはなす時の、さはやかな気分で」渥美の手紙を読みたいと願って来た筈の、「倉の影」の「不浄口へかよふ空地」での最後の描写に見事に形象化されている。
ひそやかな昼ざかりに、かういふ人目にない処に踞んで、油汗を流しながら、もの思ひに耽つてゐる自身の姿が、なんだか岩窟にせなをまるくしてゐる獣のやうに目にうつる。裏通の粉屋で踏む碓[イシウス]の音が、とんとんと聞え出して、地響がびりびりと身うちに伝はる。倉の裾まはりには、どくだみの青じろい花が二つばかりかたまつて咲いてゐた。安良は手をのべて花を摘んだ。黴の生えた腐肉のやうな異臭が鼻をつきぬいた。彼は花を地に叩きつけた。さうして心ゆくまで蹂躪[フミニヂ]つた。五つの指には、その花のにほひは、いつまでもいつまでもまつはつてゐた。
ちょっと先走るが、『口ぶえ』は、ロマン主義的な死を超えた愛の物語のパロディでもあるだろう。ポーは既にパロディだが、『ヴェラ』とか『死女の恋』とか。そして折口の場合、『死者の書』もそうだが、超自然は全く関わらない。そこが「絶対的に現代的」な作家のゆえんで、一時的に超自然が侵入したなどということもない。
渥美の手紙が変なのは、そこまで思いつめた手紙をよこすのがいかにも唐突で、いつの間に向うが安良を好きになったのか、読者にも彼自身にも分らないからだ。こんな場合でなければ、安良はもっと驚いていたことだろう。片思いのはずの相手が、自分が望んでいることを、自分と同じ強さで、自分に望んできたのだから。
会って話したい。しかし会ったところで思うことの万分の一も言えぬだろうから、やはり手紙で書く。でも書いて見ると、今度は手紙がもどかしい。これは少しも変な文面ではない。普通に恋しているものの心情で、ただそう名づけられていないだけである。だが、安良には渥美にそう言われる覚えはないのだ。
こういう事情だから、来てくれとは言えないと渥美は言い、すぐにつけ加える。
けれども来て頂かなければまた怨むかも知れませぬ。
これは引っかかる。「また」とは、まるで、以前、渥美が安良を怨むような事件があったかのようではないか。けれども、これが安良の心の反転したものであり、 安良が思っていることを渥美の言葉として読んでいるのだとしたら、過去のどこかで、渥美に怨みを持ったのは安良の方なのだ。これを読んで、安良は飛び立つ思いで渥美を訪ねようと思う。
けれども、その時、ほのかに渥美を怨む心が、ふつと胸を掠めてとほつた。
まるで、先に言われてはじめて応えを返せる木霊のようではないか。
、
相手からの手紙に自分の内心が書かれているのを見出すという現象は、実際に渥美にじかに相対すると、今度は、自分の考えを見抜かれるという事態に取って代られる。夜、隣の布団の渥美が眠ったのかと思って名前を呼ぶと、眠れないのかと言われ、「彼はすつかり渥美に心をよみつくされたやうに感じて消え入りたくなつた」。
また、翌日、山の頂上まで登ろうかどうしようかという時、「人ずくなゝ寺のうちにゐても、唯二人でないといふことが、彼には不満であつたのだ」と語られるや、「『そんならのぼりまへう』恐ろしいまでに自身の胸のうちを直感した渥美のことばに、彼はぎくりとした」となる。急な山道で、途中で彼は息苦しくなる。「静かに胸のあたりに手をやつて、心のうちに、せつない胸をなでゝくれる友の手を思うた」。すると渥美が即座に言うのだ。動悸がしますか、撫でたげまへう。
彼はまた驚かされた。汗にづゝくりぬれた胸を露はして、抗ふこともなく渥美のするまゝにまかせてゐる。
こうなるともう、内心を見抜かれるとは、心に思うだけで即座に叶えられる世界に等しい。