おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

もう口ぶえは吹かない 5 【見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(4-5)】

どくだみと黒すぐり
 安良の部屋に鏡台があることが紹介されるくだりからは、もう一つ分ることがある。

安良は本を読みながら、鏡のおもてにうつる自身の顔に、うつとりと見入つてゐるやうなこともある。とんとんと梯子を上つて来る音を聞くと、どぎまぎしながら本のうへに目を落として、あらぬ行を辿つてゐることも、度々であつた。

 これは決して具体的に書かれることのない安良の顔についての、数少ない言及だが、同時に、そこは母や叔母や祖母が鏡を覗きに上がってくることがある、決して安心して独りになれる場所ではないということでもある。 岡沢から手紙を渡された時は、倉の二階へ上がって読んでいた。

 倉の窓の前には青桐の木が立ち、安良の部屋の窓にも、その葉が揺れている。風呂場からは倉と母屋の間の青空が見える。座敷からは物干台へ出られて、母らが鏡を見に上がってくると「ふけの散るのを厭うて、さういふ時は、きまつて物干台へ出てしまふ」し、かつての乳母に「小ぼんちやん、いつまでも、をなごなんて欲しおもひなはんなや」と言われた時は、「知らん」と言って「顔赤めて起つて」しまい、「そつと二階へあがつて行つ」て、「夜露の、しつとりおりてゐる物干台に出て、穴にでも消え入りたい、心地にひたつてゐた」場所である。しかし「梧桐の葉が物干台とすれすれに枝を延ば」すそこも、夏の宵に寝ござを抱えて上がれば、隣の鰻屋の旦那が晩酌しながら話しかけてくるのだから、一人きりでいられる場所ではない。

 渥美からの手紙を、だから「倉の影」の「不浄口へかよふ空地」で読む。岡沢の時は倉の二階へ行ったのだからそうしてもよさそうなのに、なぜかそこへ降りてゆく。すでにこのくだりは引いたがhttp://kaorusz.exblog.jp/24974752/ もう一度見てみたい。 戸外でありながら、そこは屋内で得られなかった「人目にない処」で、己が姿が安良には「岩窟にせなをまるくしてゐる獣のやうに」思われる。

裏通の粉屋で踏む碓[イシウス]の音が、とんとんと聞え出して、 地響がびりびりと身うちに伝はる。 

 これば大和の旅から帰った安良が眠れずに「露原にわだかまる淡紅色の蛇が、まのあたりにとけたりほぐれたりして、ゆらゆらと輝」くのを見たあと、「蚊帳を這ひ出して、縁端の椅子に腰をおろして見た。夜なべに豆をひく隣の豆腐屋の臼の音が聞える」のを思い出させる。なぜなら、このあと蒲団にもぐって固く目を閉じ、「自身の二の腕を強く吸うて、このまゝ凝つて行く人のやうにぢつとしてゐた」という、まるで安良自信が豆腐になって凝って行くのを擬態するかのような描写が、ここでは碓の「地響がびりびりと身うちに伝はる」と、やはり隣の家業の物音がそのまま、安良の身体へ通じる形になっているからだ。

 これは二つの場面で同じ性質のことが起きているか、あるいはは片方では省略したことがもう一方で書かれているので、重ね合わせたり補って読んだりすべきということだろう。

倉の裾まはりには、どくだみの青じろい花が二つばかりかたまつて咲いてゐた。「安良は手をのべて花を摘んだ。黴の生えた腐肉のやうな異臭が鼻をつきぬいた。彼は花を地に叩きつけた。さうして心ゆくまで蹂躪[フミニヂ]つた。五つの指には、その花のにほひは、いつまでもいつまでもまつはつてゐた。

『口ぶえ』 には色々と花が出てくるが、このどくだみの扱いようは群を抜いている。というか、こんなふうに扱われる花はない。渥美は月見草にも山藤にも喩えられているが、さすがにそれには似つかわしくないにしても、そもそもどくだみの放つのはそこまでの悪臭だろうか。これは安良にとっての、「淡紅色の蛇」と見なされた性の匂いだろう。

 このどくだみの匂う倉の影からは、時代も場所も違う少年が、一人になるために入り込んだ場所が連想される。プルーストの語り手が少年時代に、コンブレーで閉じこもる、家の最上階の小部屋である。アイリスの芳香剤の匂う卑俗な用途のための小部屋と言われているのは、要するにトイレなのだが、そこには野生の黒すぐりの花が窓から頭をさし入れており、その「身をかがめた葉」に、少年は「カタツムリの這ったような自然の痕」を残す。

 彼の場合、家で唯一鍵のかかる部屋であるそこへ、孤独を必要とする用事のために上っていったのだが、『口ぶえ』では上へ行ってもだめなので安良は梯子段を降りる。そして人目につかぬとはいえ、屋外という誰にも疑いを抱かせぬ変更と、「倉の影」の「不浄口へ続く空地」という大胆な謎かけ。コンブレーの小部屋に香るのはアイリスに黒すぐり、初稿ではリラであり、『口ぶえ』では窓に届く青桐がさわさわと葉を揺らす。

 コンブレーの少年は、最上階の窓から見える自然の中に、小説中では少女とされている性的対象が現れてくれないかと願って果さないが、より幸運な安良は、以前藤井寺へ行った時、道端で休んでいて次のような出会いを遂げている――

野らしごとから昼寝にかへる男であらう、真白な菅笠をかづいて、
すたすたやつて来たが、ふと停まつて彼を一瞥したまゝ、また静かに行きすぎた。それはせつないけれども、しかし快い気もちを惹き起すやうなものであつた。
安良はのび上つた。もうその時は、はるばるとつゞく穂麦の末に、それかと見る菅笠がかすんでゐた。浅黒い顔の、けれども鮮やかな目鼻だちをもつた、中肉の男である。まくりあげてゐた二の腕は不思議に白く、ふくよかであつた。勦[イタ]はる様に見つめてゐた、柔らかなまなざしが胸に印せられた。


 あるいは、祖父の地の大和で、十六七の少年を見るくだり――

三分ばかりに延びた髪の生えぎはが、白いまる顔にうつゝて、くつきりと青く見える。涼しい目をあげて安良をぢつと見た。
彼は、咎められたやうな気がして、顔がほてつて来た。すたすたと歩く自身の後姿を見送つてゐる、子どもの目を感じながら急いだ。
道は、横山を断ちきつてゐる流れについて、山の裾を廻[メグ]る。
どうも、あの顔には見おぼえがある。いつ見た人だらう、と記憶に遠のいてゐさうな顔を、あれこれと、胸にうかべて見た。しかしものごゝろがついてから、逢うた顔ではない、といふ心もちがする。もつともつと、古い昔に見たのだ。


 ちなみにtatarskiyさんは、少年は安良の親戚で、一度も会ったことはないが自分によく似た顔を安良はここで見ているのだろうと言う。つまり、読者には決して説明されることのない、彼自身にはそれと認め得ない安良自身の顔なのだと。

 たしか渋澤龍彦は、『失われた時を求めて』のこの挿話を、『仮面の告白』の主人公が海で射精するのと並べて、孤独な少年の欲望が自然に向かうのが共通するといった趣旨のことを書いていたと記憶する。もしも彼に『口ぶえ』が理解できていれば、三島などではなく折口のこの小説を挙げたことだろう。

 なお、「五つの指には、その花のにほひは、いつまでもいつまでもまつはつてゐた」という引用箇所結びの一文から私が連想したのは、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』に現れる、男のてのひらを真黒に覆い尽くす蟻の群れというイメージと、かの映画を何度目かに見た際に、講演を聴く機会のあった種村季弘が、あの黒い蟻は本当は白い精液なのだという意味のことを言っていたことであった。わざわざ五つの指とことわってあることに引っかかって、ここに書いたようなことに気がついたのだ。種村のブニュエル論は多分映画論集に入っていよう。

夢中遊行
 安良の家族構成が同年齢時の折口とほぼ同じであることは、これまでにも触れてきたが、違う部分をあらためてまとめるなら、折口の父は存命だが安良の父は三年前に亡くなっており、実際には二人いた、同居の未婚の叔母(母の妹)が一人にされている。つまり、折口の父との間に双子の弟を産んだ叔母が消されており、折口の場合と違って、弟たちも同じ母が産んだということだ。

 十五歳の時に父が死んだ後、折口の成績は著しく下がり、落第まで経験するが、富岡氏はこれを、父の死を契機に弟たちの母が誰か知ったせいだろうと言う。また、折口自身も、父が別の女に産ませた子だろうと「推量」している。十代の頃、折口は一度ならず自殺を図っているが、その原因にはこうした家族の秘密が関わっているのは疑い得ない。折口は安良にそうした事情を一切与えなかった。だから三年前父が死んでも、安良は折口のような悩みを一切知らずに、今日を迎えているのである。

 それなら安良はなぜ渥美の下へ走り、心中までしようとするのか。恋のため? 渥美の従兄と名乗る柳田が現れ、渥美の名を言うより以前、渥美は一度も登場せず、話題になるどころか、思い出されることもなかったのに、そして彼らがなぜ死を選ばねばならないのか、何も説明されていないのに? いったい折口の研究者は不思議に思わないのだろうか。一度も登場しなかった人間が犯人と名指される推理小説があるだろうか。

 こうしたことは構成上の不備と解されているのだろうか。 学者の余技で未完の若書きだから、この程度のものと見なされているのだろうか。同性愛者の作品だから、同性心中くらいあるだろうと思われているのだろうか。あるいは、持田氏のように官能的、感覚的に細部を読み取れば、それで済むと思っているのか。折口が自伝的材料を構成もなくだらだらと垂れ流したと思っているのか。

 折口が小説から自らの父の否定的な面を取り除いたのは、周到な計算の上でのことだ。その空白に、彼は年上の先達であり導き手である、文学的な素養のある知的な男への憧れという要素を入れた。そしてこれは折口の実際の体験であり、(富岡氏の調査によれば)折口は十三歳の時、旅先で出会った男によってその憧れを満たされた。のちに相手は結婚し、そしてあまりにも早く亡くなった。

 自分の(そして自分よりも幸福な)代理人として、折口は安良という少年を創造し、そのような男を(無意識に)求めて父祖の地への旅をさせた。そして旅の終りに彼は「渥美の従兄の柳田」と名乗る年上の「若者」に出会った。

 だから富岡氏が柳田が藤無染だと考えたのは無論正しいのだ。折口が彼を柳田としてそこに置いたのだから。柳田がそれほど重要人物だと、普通に『口ぶえ』を読んで見抜くことはまずあるまい。だが、富岡氏が、渥美の存在はおとりで、渥美と柳田は同一人物であり、安良を西山へ呼び出したのは渥美ではなく、柳田からの手紙ではないかと考えたのは全く正しくない。

 確かに折口には無染の思い出があり、無染から手紙をもらって善峯寺に馳せ参じたことが多分あり、無染のいた場所に柳田と名乗る「若者」を配したが、そんなことは安良の知ったことではなく、実際彼は無染など知らないからである。

 富岡氏が柳田に注目し、柳田が重要だと思っているのは、ただただ彼の正体が無染であり、折口が十三の時に出会った最初の恋人だと知っているからに過ぎない。

 だが、私たち(tatarskiyさんと私)の読み取ったところでは、『口ぶえ』という小説における柳田という人物の重要性は、一見してそう思われるより遥かに大きい。そしてそれが誰の目にもはっきりするのは、前篇しか現存しない『口ぶえ』の後篇に入ってからの筈である。

 西山の寺では渥美ではなく、「若者」即ち柳田が待っていたのではないかと富岡氏は考えた。そうではない、小説では、あくまで待っていたのは(安良がそう思っていたのは)渥美である。無染が善峰寺で折口を待っていたというのは、それとは全く別の話だ。しかし、柳田と安良は後篇でもう一度出会うことになり、その場所は間違いなく西山の善峰寺である。どうしてわかるかって? 後半の展開がどうなるかは前篇に、すべててそのつもりになれば読み取れるように書かれているからだ。

「このあとどういう展開になるのか、無論、原稿がない以上、確実には何もわからない」(『釋迢空ノート』解説)って? お笑いぐさだ。前篇で張られた伏線が後篇ですべて回収されるよう、さりげなく書き込まれた細部が、後篇を読んだあとでは全く別な意味に見えてくるよう、信じられない緻密さで仕組まれたのが私たちの発見した『口ぶえ』である。二十六でこれを書いた青年の才には感嘆するばかりだが、当時、彼を励まして後篇を書かせ、小説をこそ専門にするよう勧める目利きはいなかったのか。いまだに先程の解説のようなことを言う人間ばかりなのだから、どうしようもないのはわかっているが。

 第一行よりとっくに前から、物語ははじまっている。といっても、便利な依頼人のたぐいがやって来て、それまでのいきさつを手際よく述べてくれる訳ではない。書かれていない過去の結果‐効果として在る「今」の安良の意識、感情、感覚、それらに寄り添うかに見えながら、肝心なことは黙っている不実な語り手の語りから、読者は、何が事件であるのかさえ教えられていない探偵として、何が起っているのかを見極めなければならない。『口ぶえ』とはそういう小説である。これは決して少年の思春期を描いた小説などではない。少なくとも安良についてさもそうした徴であるかに見えるものを、そう信じてはならない。

このごろ、時をり、非常に疲労を感じることがあるのを、安良は不思議に思うてゐる。かひだるいからだを地べたにこすりつけて居る犬になつて見たい心もちがする。

 これが、『口ぶえ』冒頭の第二パラグラフである。なぜそんな心もちがするのか。そういう気持ちになっても当然の原因が安良にはあるのだが、今の状態を「不思議に思う」のは、彼がそれを忘れているからだ。

この気持ちを、なんといひ表してよいか知らぬ彼は、叔母にさへ、聴いて貰ふわけにはいかなかつた。

 これは当然、思春期の心身の不安定さと受け取られようし、そうなることを期待して書かれてさえていよう。この叔母は母の下の妹で、折口の最初の本『古代研究』の序文に「この書物は(…)折口えい子刀自にまづまゐらせたく候」と献辞を書かれた「ゑゐ」がモデルだろうと思い(こういう読み方をすることは完全に正しい)、当時の女としては高学歴で母よりもものわかりのいい、叔母にさえ話せないのは、男として成長してゆくからだと考えるだろう。

 勿論そういう面も含まれようし、読者にそう読まれることを予想して書かれてもいる。しかし彼には、そんな一般的な話ではなしに秘密があるのだ。しかも「不思議に思う」ても、それを「なんといひ表してよいか」わからず、「かひだるいからだを地べたにこすりつけて居る犬になつて見たい」としか感じられず、それが意識の表面に完全に上るしてことは決してないが、しかしその断片は木の葉か雲母が日を受けてのきらめきのように彼の注意をひいて、確実に彼の言動に影響を与えている秘密である。

 しかし、こうしたことは一度目では見て取れず、少なくとも二度目に読んではじめてわかることである(わからない人もいる)。

「学校の後園に、あかしやの花が咲いて、生徒らの、めりやすのしやつを脱ぐ、爽やかな五月は来た」と、無邪気を装った語り手は高らかに宣言する(これが小説の書き出しだ)。「身なりをかまはないといふよりは、寧ろ無頓着なのを誇る風の傾きのある彼である」とは、バンカラに通じる男の子らしさと受け取られよう。だが、この無頓着さ、自分の外見に対する無関心も、理由のあることなのだ。

けふは、起きるから、いつもの変な心もちが、襲ひかゝつてゐた。彼は、目をおほきく大く睜[ミヒラ]いて、気持ちをはつきりさせようと努めた。けれども、其もその時ぎりで、後はやつぱりうつとりと沈んで来る。
けれども行かねばならぬ学校があると思ふと、そのまゝ歩き出した。


 真実がわかってみれば、すでにここで安良は夢遊病者のように歩き出したのだと、見ひらいてもなお曇った目の、意識したくない事があるため真実が見えないデイドリーマーとして生きているのだと気づくべきだったのである。

 この「深いねむりのどんぞこ」から、渥美の名を聞いた途端に彼が「ひき起されたやうな気がした」のは、そしてそれが夢の核心への入口だったことはすでに見た。夢の中でさらにうたたねした彼が人の気配で目覚めた時、渥美はそこにいた。


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by kaoruSZ | 2015-10-14 18:36 | 批評 | Comments(0)