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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

もう口ぶえは吹かない 6 【見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(4-6)】

水鏡
 偶然声をかけて来た男・柳田が、渥美(しかもそれはその時はじめて出てくる名前だ)の従兄だったり、そのあと家に帰ると渥美から手紙が届いたりするのを、富岡氏のように「不自然」と言い、渥美はおとりで、渥美と柳田は同一人物だと言ったり、「事実は、三和の山もとで何らかの性的関係を受けいれた折口そのひとが、いずれかの寺に滞在し、おそらく得度している男性に会いにゆくという流れは、一連であり、おなじ人物ではないかという推定にふくらむ」となけなしの下司な想像力をふくらませ、「小説のうえで二人の人物に分けたことには運びとして無理があると、富岡氏も認めるところ」(いづれも『釋迢空ノート』解説)と、訳知り顔したりするのは、この不自然さが作家の意図してしたことであり、彼の天才の発現であることにまるで気づかず、作家折口への敬意を最大限に欠く振舞いである。

 渥美に「心をよみつくされ」、「胸のうちを直感され」ているように安良が感じるという記述こそ、不可解で不自然であるが、もともと、停車場でいきなり渥美という名が出てきたところからすでにおかしかったのだ。渥美こそはじめから隠されていたものであり、テクストがはじまる前にあった事件の核心であり、のどかに進んでゆく五月、六月、七月を経て夏の終りに、去年の同じ時期にあった事件の一年後の再会のために用意されていたものである。

 寺に泊った翌日、安良は「起きるとすぐ帰るといひ出した。しかし、渥美のとり縋るやうな目つきに惹かれては、たつてともいひはれなくなつた。どうなりとなれ、といふ気で、まう一日をることにした」。そして渥美に連れられ渓川へ行く。

 遠い昔のことになってしまったが、『死者の書』に関連して、『口ぶえ』原文は読み返さぬまま持田氏の論文から幾つかの文を引いた。
「安良は二人の上級生に心惹かれるが、二人は対極のタイプである」
「かたや肉欲、かたや精神性を強調される岡沢と渥美」
「岡沢と安良の水中シーンをなそるかのように、西山の谷川で二人が泳ぐ場面がある」
(「見よ眠れる船を(2)

 まず、渥美は上級生ではなかった。それから、谷川で安良は泳いではいなかった。もともと泳げないのだが、西山では「ひたくだりの坂道を」おりた先の川で、水面から首だけ出している渥美を見ながら、「泳ぐことを知らぬ彼は浅瀬に膝をついて、青く流るゝ水の光を悲しんだ」だけであった。

渥美はと見ると、すこし川上の岩に這ひ上[アガ]らうとしてゐる。岩は水から三四尺つき出てゐて、そのまはりには深い潭[フチ]がとろりと澱んで見える。

 今となっては、どうして持田氏がこの場面全体を現実の出来事と信じることができたのか不思議である。

友はあちむきに岩の上にすつくと立つて、うつゝなく水の面[オモ]に見入つてゐる。安良の胸には、弱ゝと地に這ふ山藤の花がふとおもかげに浮んだ。

 このレトリックの意味は明らかだろう。渥美は水面に見入るナルシスなのだ(しかもすっくと立つ花でなく、「弱ゝと地に這ふ」脆さで、うつゝなく夢想に沈む)。自分に見入って儚く死んでゆく若者であり、その意味で、岡沢の思いに応えず、己が姿を鏡に映していた安良の分身なのだ。

 岡沢と渥美が対比的に配されているのは確かである。安良が学校で手がけていた花畑は、夏休みに入って彼が岡沢にかかずりあっている間に萎れてしまうが、思えばあれも枯死する植物神に擬した、渥美を表していたのだろう。

 水から出て「着物をつけた渥美は、安良と並んで青淵[アヲブチ]に臨んで腰をおろ」す。「なぜか今朝からものかずもいはないでゐた友は、項垂れたまゝ青ざめた頬を手にさゝへて、吸ひつけられたやうな目つきをして、淵の色に見入つてゐる」。

 先にジュリアン・グリーンの名前を出した。『地上の旅人』では孤独な青年が友人を得るが最後は彼に導かれ崖から落ちて死ぬ。しかし残された手記と周囲の人間の証言から、自殺ではないと判断される。人々は彼がいつも一人きりで、そんな連れといるのは見たことがないと言い、友人に渡されたメモと思い込んでいたのは自分で書いたものだった等々の事実が判明するのだ。

『地上の旅人』を折口が読んでいた可能性すらあると思うが、全く別々に発想したのだとしても不思議はない、基本的なモチーフではあろう。自分によく似た分身としての友人が死に、代りに主人公は生き残る、青(少)年期のイニシエーションの物語だ。

『口ぶえ』もそのような話だと私たちは考えた。渥美の死の事実を安良は受け入れられないまま、また夏がめぐってきた。標題の口ぶえとは魂[たま]よばひの謂、安良は知らぬうちに彼を呼び出してしまい(抑圧していた記憶が戻り)、彼から手紙で呼ばれたと思って訪ねてゆき、そして一人戻ってくるのだ。

『口ぶえ』の最後はどう終ると思うかとtatarskiyさんに訊かれ、ちょっと考えて、安良が水の面を見つめるところで終ると思うと私は答えた。先程引いた青淵、渥美が「吸ひつけられたやうな目つきをして、淵の色に見入つてゐ」た水面、安良が「心もちの異常に動揺するのを感じて友の方を見」ると「顔をそむけてゐた渥美の頬には涙が伝うてゐた」場所である。渥美は自分が死んだ淵に見入って涙を流していたのだろう。安良は後追い自殺のように(主観的には一緒に)死のうとしたが、間一髪助かって戻ってきた。そうやって安良は成長し、友の手無しでも一人で生きられるようになる(と、最初私は考えた)。

『地上の旅人』のことを考えれば、渥美からの手紙と思って安良が読んだのがどういうものだったかも了解されよう。あれは安良が自分で書いたのだ。さらにtatarskiyさんが言うには、あの本体はもともと安良が渥美に書いた恋文であり、それを出さないうちに相手は死んでしまった。それで封をしたまま抽斗か何か収めてあったが、岡沢から来た葉書をしまおうとしてそれを見つけた。ただし、真先に目をとめた「京・西山にて 渥美泰造」という封筒はまた別で、安良が本当に渥美から貰ったもの。去年渥美が伯父さんの寺に行くというので、手紙をくれないかと安良は頼んでいたのだ(安良が、旅の道連れがいるという嘘を本当にするために旅に誘うが断られる、同級生の斉藤が、旅先から絵葉書を送ってくれと言うように)。中身は無論どうということもないものだ。ただ、

山の上の静かな書院の月光の中でひろびと臥[ネ]てゐると淋しくもありますが、世の中から隔つたといふ心もちがしみじみと味はれます。

という最初の部分は本当にあったものだろう。無論それに続く「わたしは心からあなたに来ていたゞきたいと思うてます」は、渥美が絶対に書くはずのない文章だ。渥美は多分、封書を投函するよう小僧に託して、そのまま死んでしまったのだろう。だから本当に手紙が来たといって安良が大喜びしたとき、渥美はもう此の世の人ではなかったのだろう。

 背景が分ってみれば、月射すそこは死の世界でもあり、渥美は本当に「世の中から隔つ」てしまつたのだと思えてくる。そこへ「心からあなたに来ていたゞきたい」とは、ぞっとしないお誘いと感じられもするだろう。でもこれはたんなる安良の錯誤であって、怪談でもホラーでもない。

 このとき山上の書院を照らしていた光、それは『死者の書』では、山の上の静かな石室の中にまでどこからかさし入ってくる「月光とも思へる薄あかり」となって、「山を照し、谷を輝かして、剩る光りは、又空に跳ね返つて、殘る隈々までも、鮮やかにうつし出」すことになるだろう。

 こうしたことが分ってみると、安良の外見への無頓着や周囲への無関心、 自分の感覚にのみ没頭しているかの様子は、全く別な風に見えてくる。たとえば小説がはじまってすぐ、上半身裸の安良が体育教師の命令での台の上で号令をかけさせられる場面(一度取り上げている)で、「同年級の生徒のある者は、さすがにいたましい目をして、彼を見た」という一文がある。以前論じたのはここにあるが、 実は少し先で学校帰りの安良が、藤原家隆の歌を刻んだ塚の前に立つところで、「いたまし」という語はもう一度出てきている。

ちぎりあれば なにはのうらにうつりきて、なみのゆふひををがみぬるかな

その消え入るやうなしらべが、彼のあたまの深い底から呼び起された。安良のをさない心にも、新古今集の歌人であつたこの塚のあるじの、晩年が、何となく蕭条たるものに思はれて来た。その時、頬に伝はるものを覚えた。あたまの上の梢から、一枚の葉が、安良の目の前に落ちた。
見あげる彼の目に、柔かくふくらんだ、灰色の鳩の、枝を踏みかへたのが、見えた。
そのいたましく赤い脚。不安な光に、彼を見つめた小鳥の瞳[メ]。


 なぜ鳩の足の赤さがいたましく、小鳥の目が不安な光を放つのか。これだけ読めば思春期の少年の、不安定な心の投影としか思えないだろう。いたましいのは彼自身であり、家隆の歌を読んで涙するのは「をさない心」の感傷なのだと。

 だが、第一ページがはじまる以前に何が起っていたのかを知ってみれば、この一節は全く別な光に照らされる。彼の思い起したのは、家隆の晩年ではあるまい。「彼のあたまの深い底から呼び起された」のは、もっと身近な、もっと最近の、死者の記憶の影であろう。

 彼は涙する。何に涙しているかさえ思い出せないから(あるいは読者には知らせられないから)、頬に伝わったことだけを意識する。それに呼応するかに、一枚の葉が目の前に落ちる(自身夭逝した藤原義孝の、「夕暮の木繁き庭を眺めつつ木の葉とともに落つる涙か」が思い出される。これも哀傷の歌である)。それは渥美からの手紙であり、枝を踏みかえて木の葉を落した、「柔かくふくらんだ、灰色の鳩」、「いたましく赤い脚」をした生き物は、渥美の化身なのだ。

「いたまし」という語は、『口ぶえ』前篇でもう一度だけ使われている。手紙をもらって会いに行った時の渥美の印象――

安良はそつと上目づかひに渥美の顔をぬすみ見た。青白く殺[ソ]がれた頬を淋しみながら、夏瘦する渥美のくせを知つてゐる安良は、さまで驚きはしなかつたが、目をおとすと、きちんと揃へた膝がほつそりといたましくうつゝて来て、それが心もちわなゝいて見える。

「不安な光に、彼を見つめた小鳥の瞳」は、「いたゞきに着いた二人は、衰へた顔を互にまじまじと見つめてゐた」の崖から飛び降りようとする寸前の、安良がのぞき込んだ渥美の目として再現されよう(勿論、安良の見つめる渥美の目には彼自身が映っていたであろうから、これはナルシスの目でもある)。それにしても「いたましい」という語は、自他未分化な、対象の属性と話者の感情をともに指しうるから、どちらの場合でもこれほど適切な形容はなかったと言えよう。

 そもそも「をさない」安良の心が、なぜこれほどまでに「死」に傾斜するのか。新古今集歌人の蕭条たる晩年などに、なぜ少年がたやすく涙するのか、その「不自然」さをこそ疑うべきであった。あるいはとある夕暮、叔母に誘われ、安良は近所へ素人浄瑠璃を聴きに行く。安良の、物語の主人公長吉への異様な共感を、それこそ「不自然」と思うべきであった。

安良は、この浄瑠璃は始めてゞあつた。けれども、長吉が姉にいひ聴かされるあたりで、これは主人のかねを盗み出して来たのだ、と直感して、あどけない長吉の画策の、しだいに崩されて行くのを悲しんだ。
湯を沸かしに立つて行くへんになつて、死場所をさがして、野中の井戸を覗いて来たといふ処に来た時、水をあびせられたやうな感じが、あたまのなかをすうつと行きすぎた。


 なぜ長吉の運命がわがことのように感じられるのか。なぜ、死が「彼自身せねばなら」ぬことと感じられるのか。なぜ、井戸を覗くという言葉に、かくもいたましく反応するのか。

「あらな南のえゝ家[トコ]の若旦那だんね。うまいもんやな。貴鳳はんの後つぎだんな。文楽や堀江のわかてに、あんだけかたれるのはあれへん」などゝ、わあわあさわいでゐるなかに、安良は淋しく野中の井戸の底にうつる、わが影を見つめてゐた。

 渥美は水で死んだ。安良にとっては、そのあとを追うことが、「彼自身せねばなら」ぬことなのである。

 安良は井戸の底を覗くが、そこには「わが影」が映っているばかりだった。しかし同時に、それは渥美の似姿でもある。なぜなら、安良の知っている渥美とは、自分の思いに応えずに、己が影だけを見つめて死んだ者なのだから。

「あどけない長吉の画策の、しだいに崩されて行くのを悲しんだ」とあるが、実はこの「悲し」というのも、読んでいて気になるキーワードである。語検索して眺めていると、この浄瑠璃は『口ぶえ』にとって、『ハムレット』の中に埋め込まれた「ゴンザゴ殺し」のような、己の似姿なのだと分る。しかもその中心には鏡が用意されているのだから、折口の冴えた手腕には舌を巻く。


by kaoruSZ | 2015-10-16 05:06 | 批評 | Comments(0)