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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

もう口ぶえは吹かない 7 【見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(4-7)】

悲しみの安良
 善峯寺で床を並べて寝た夜に、渥美が、死ぬことのたやすさについて唐突に語り出しはしても、なぜ死にたいのかについては何も言わなかった理由はいまや明らかだろう。「わては死ぬくらゐなことはなんでもないこつちや思ひます」と渥美が言うのは当然だ。渥美はもう死んでいるのだから。しかし安良には、渥美の死んだ理由がわからないので、それについては何も言わせることができないのだ。つまり、本当は安良は、この愛の対象を理解などしていない。ただ、渥美が「けがらはしい」つながりなど求めず、ナルシスティックに閉じたまま、「清らかに」死んでしまった者だと見えている。

 安良が自身の外見に無頓着なのは、渥美にかえりみられなかった自分には価値がないから、どうでもいいと思っているからだろう(意識しているかは別にして)。上級生に言い寄られても応えないのは、失った渥美と似た者になるよう、彼をなぞっているからだろう(これもほとんど無意識に)。
 
 こうしたことがわかってはじめて、岡沢への安良の態度も理解できるというものだ。「悲し」という語は、安良に手紙を渡した岡沢に対して使われるのが初出である。逃げ出した安良が振り返り、「此方を凝視めて、あがつた肩も淋しげに、自分を見おくつてゐる男を、悲しむ心が湧いて来た」というくだりだ。

 これは恋を知らない天使が、そんなものにかかずりあって苦しんでいる、自分とは無縁の地上の人間に、憐れみをかける心が湧いたということではない。手紙の返事の期限が今日だったと気づき、それまで「返事を書かうとは思ひもよらなかつた」けれど、「今、あざやかに、返事を待つといつた時の、あの男らしい顔に漲つてゐた、憐みを請ふやうな、悲しい表情が思ひかへされたのである」という時も、その「悲しい」表情に同情が湧いたわけではあるまい。安良が見ているのは一年前の自分であり、その悲しみなのだ。岡沢と違って安良は手紙を送る機会も逸してしまった。

「悲し」はあと七箇所あるが、うち五箇所までが渥美に関係のある文である。いや、渥美に直接関係がないと見えても、そう読んだ時にはじめて意味がはっきりする、そこで渥美のことが思い出されている(たとえ安良の意識には上らずとも)という指標が、「悲し」なのである。

 先に引用した、湯上りの安良が「肩ごしに後姿を見ようとして、さまざまにしなを」作り、「その度毎に、色々な筋肉の、皮膚のなかを透いて見えて、いひしらぬ快い感覚に、ほれぼれとなつてゐた」直後にも悲しみはある――

すと彼の心を過ぎつた悲しいとも、楽しいとも名状の出来ぬ心もちがある。

 これは、鏡を見ることがたんなる自己陶酔ではないからだろう。岡沢に欲望される、しかし渥美には振り向いてもらえなかった自分を見ているからだろう。また、せっかく一泊旅行を許されながら、彼は同級生の斉藤と一緒に行くと叔母に余計な嘘をついてしまい、「どうして嘘などをいふ気になつたのだらう、と悲しくなつて来る」。

 これは普通の意味でも一見通るが、しかし安良の罪の意識は、渥美をめぐる「悲しさ」と密接に結びついている。

彼には渥美が近づきがたい人のやうに見えた。自身には「倍旧の御愛顧を」と書いてよこした岡沢が似合はしく思はれて、悲しくなる。

 これは例の「倉の影」で、渥美の手紙を読むくだりの中の一節だ。

 渥美が自分にそのような手紙を書くとは安良には信じられず(実は安良自身の思いが書かれているわけだから)、自分の渥美への心もちが、実は岡沢に対するのと同じ「むさい処に根ざし」ていると思うと、清らかな渥美を汚すようで、渥美にはとても近づけないと思うのだ。そのことと、大和から帰ったばかりで、また出かけるとはとても言い出せないという思いとが、ここには隣接して置かれている。結局安良は、父のさとへ行くと家には言い、それを嘘にしないために姉の家に泊り、三日後、大阪の家へ帰ると言って(これは嘘になる)京都の西山へ駆けつけたわけだが、それについてはこう語られる。

こんなにしてだんだん悪事に馴れて、とゞのつまりは救はれぬ淵へおちて行くのだと思ひかけると、堕落の日をまざまざと目の前に見てゐるやうで胸がせまつて来る。かういふ心でのめのめと、仏のやうな人の前にゐる自身が鞭うつても慊らなくつらにくゝ感じられて、悲しくなつて来る。

 ここでも再び、旅行に関して叔母や母に嘘をつくことと、「仏のやうな」渥美の「前にゐる」(実際には隣に寝ているのだが)ことの「悲しさ」が隣接している。浄瑠璃を聴きながら、安良は「あどけない長吉の画策の、しだいに崩されて行くのを悲しんだ」が、安良のつく嘘は明らかにこの「画策」にあたる。「こんなにしてだんだん悪事に馴れて、とゞのつまりは救はれぬ淵へおちて行く」だの、「堕落の日」だの、いかにも大袈裟に聞えるが、結局のところこの罪悪感は、隣りあっている性的なものの方が正体で、安良が進んで犯したり言い立てたりしている嘘つきの罪は、軽い罪を言い立てて本当の罪を覆い隠そうとするものだろう。

 斉藤と一緒だと嘘をついた自分を悲しむ安良は、「こんなしらじらしい嘘に、誠らしい顔をつくつて叔母をだました、あさましい心は、罵つても罵つても慊らなかつた」が、「あさましい」という語がこの小説で他に出てくる箇所はただ一つ、蜜柑畠の野番小屋の中を見た時である――

つきあげ戸から覗きこんだ彼は、そこにあさましいものを見て、思はず二足三足後じさりした。

道行
 残る二つの「悲し」は、渥美と渓川へ行ってから崖縁に至る道行の際、まさに渥美を目の前にしてのものである。

裸形をはぢらふやうに、二人はわかれわかれに着物を脱いだ。さうして、四五間もはなれて水の上に首だけを出してゐる渥美の姿を見まい見まいとした。泳ぐことを知らぬ彼は浅瀬に膝をついて、青く流るゝ水の光を悲しんだ

 何を悲しむのだろう? 安良が泳げぬことは、すでに夏休みに入った当初の「大川」での水泳の時間に明らかにされている。「彼は一年の時、二年の時、毎日欠かさず夏中通ひとほした。けれども今におきにからだは浮かうともせなかつた」。

 何でそんなに上達しないのかいぶかしまれるくらいだが、それでも彼は大川では水に入って、「炎天の下に、とろりと澱んでゐる水の、ひたひたと皮膚を撫でゝ行く快さに、目を細めてぢつとしてゐることなどもある」というのに、なぜこの渓川では浅瀬より先へは入らないのか。

 渥美はと見ると、すこし川上の岩に這ひ上[アガ]らうとしてゐる。岩は水から三四尺つき出てゐて、そのまはりには深い潭[フチ]がとろりと澱んで見える」と全く同じ言葉で描かれているのに。大川の「とろりと澱んでゐる水」の中では、安良は岡沢に抱きすくめられ頬にキスされている。それと対照的にここでは距離を保つのか。

「水の光を悲し」みながら「鳥膚のやうに粟だつた腕を摩[コ]すると、赤らみの潮[サ]して来るのをぢつと見つめてゐると、わけもなくよすがない心地が湧いて来る」。「わけ」がないわけはあるまい。渥美は安良の方も見ずに、「あちむきに岩の上にすつくと立つて、うつゝなく水の面[オモ]に見入つてゐる」のだから。

 本当は安良はひとりぼっちなのだ。渥美のいるところへ行くには「とろりと澱んで見える」「深い潭」を越えなければならないが、もしもそこに踏み込むなら ば、泳ぐことを知らぬ安良は必ず死ぬ。だから彼は浅瀬に膝をつきながら、「青く流るゝ水の光を悲しむ」以外にないのだろう。

 二人並んで淵に臨んで腰をおろしても、友は「項垂れたまゝ青ざめた頬を手にさゝへて、吸ひつけられたやうな目つきをして、淵の色に見入つてゐる」というナルシスのポーズを崩さない。その時の安良の様子はこう記される。

彼は悲しくわなゝいた。青い月光の光を夢みるやうな目をあげて時々空を仰いだ。

「青い月光の光」が何を指すか、それを夢みるとはどういうことか、最早明らかだろう。そして「悲しくわななく」安良の隣に本当は誰もいないことも。

 川から上がるより先に、もう帰ろうかと安良は渥美に声をかけられている。「『もうお寺いいにまへうか』彼は夢心地からよび醒まされた」。だが、うたたねからさめて渥美が現れるのと同じで、夢心地から醒めたところもまた夢なのだ。彼らは別に一緒に死のうと計らって出てきたわけではないし、この時もそんなことはまるきり言っていない。並んで淵を見つめたあと、「さあいにまへう」と渥美がまた言って二人は帰路につく。

 ところが渥美が 「釈迦ヶ嶽。あれが」と指をさすのに「こつから、よつぽどありまつしやろか」と安良が尋ね、そうでもないと相手が答える。そして「人ずくなゝ寺のうちにゐても、唯二人でないといふことが、彼には不満であつたのだ」という安良の内心を語る声は、即座に、「そんならのぼりまへう」という渥美の言葉で受けられる。「恐ろしいまでに自身の胸のうちを直感した渥美のことばに」「ぎくりと」する安良ほどにも、研究者は驚かないのだろうか。これを現実の出来事、現実の会話だと信じてしまうのだろうか。

 急な山道を登るうち「ざはざは薄原を踏みわけて来る物音がする。恐しい野獣の姿を思うておびえあがつた。けれども瞬間に、二人だ、喰ひ殺されたつて心残りがない、と思ふた、その恐しい時の来るのを一刻も待つ様な心が湧いた」という安良の盛り上がりようを異常だと思わないのだろうか。しつこいようだが。停車場での出会いで名前が出るまで、渥美はこの小説に全く登場していなかったのだ。富岡氏は、折口の弟子たちが渥美のモデルとする中学の同級生を、折口の片思いで心中するような仲ではなかったと書くが、それを言うなら渥美と安良も同様だ。

 勿論野獣は現れない。

目の前の草をわけて出たのは、白衣姿の巡礼で、
「良峰[ヨシミネ]さまへ行くのはこれかな」
と問ひかけた。
「大[オホ]きに大きに」
渥美のをしへた道をどんどん下つて行つた。


 この巡礼を出すのも実に旨い。現実効果について言うのではない。あとでこの中年男は貴重な証言者になるはずだから。一年前に自殺した住職の甥の同級生で、現場へ参りたいと一人で渓川へ降りた少年が戻ってこないと騒ぎになった時、この巡礼は、釈迦ヶ嶽の頂へ向う少年に会ったと話すだろう。ここへの道を教えてもらった、連れはなく、一人きりで登って行ったと。

 これまでの間に、渥美と安良は一緒に死のうと言いかわしたわけでも何でもない。「わては死ぬくらゐなことはなんでもないこつちや思ひます」と渥美が言い、「私も死ぬ」という言葉を発するのを安良がぐっと抑えただけである。渥美がその気でないのではないかという疑念があったからだ。自分の申し出を喜んで受けてくれるかどうか、確信がなかったからだ。去年渥美が安良のことなど眼中になしに一人で死んでいるからだ(それなのに、今になって来てくれという手紙をもらった。手紙を読んで「ほのかに渥美を怨む心が、ふつと安良の胸を掠めてとほつた」という文句の意味は、そう考えなければ通らない)。

 しかし今、渥美の意図には何の疑いもなく、安良は相手が自分の思うとおりに動いてくれることに驚きながら、苦しい胸を撫でてもらい、「渥美が先に立つて、時々仆れさうになる安良の手をとつてのぼつて行く」。

二人がかうした処をあるいてゐることを、叔母や母は知つてゐさうに思はれた。家人の冷やかな眼の光が胸を貫いた。今にも世界を始に戻す威力の、天地を覆へす一大事が降りかゝつて来さうに思はれた。(…)しかし、二人には目に見えぬ力が迫つて来て、抗ふことを許さなかつた。

 これが現実の出来事であるとどうして思えよう。「渥美の胸にあたまを埋めてひしと相擁いた」あと、「細い踵を吹き飛ばしさうな風の中を翔るやうに、草原をわたつて行く」渥美に導かれて安良は崖の縁[ヘリ]に立つ。

「漆間君」
「渥美君」


とかたみに名を呼び、

「死ぬのだ」といふ観念が、二人の胸に高いどよみをつくつて流れこんだ.。(…)二人の掌[タナゾコ]は、ふり放すことの出来ぬ力が加はつたやうにきびしく結びあはされてゐる。ぶるぶると総身のをののきが二人のからだにこもごも伝はつた。氷の如き渦巻火[ウヅマキヒ]のやうな流が、二人の身うちを唸をあげてどよめ きはしつた。今、二人は、一歩岩角をのり出した。

 二人、二人、二人、語り手はたたみかける。本当に二人なのかは訊くまでもあるまい。

 驚くのは、安良がここで死んだと思う(或は死んだかどうかは分らないが、と言う)人たちがいることだ。ほとんどトランス状態に見える語りだが、一方で安良の帰路はちゃんと確保されている。捜索隊のために証言してくれるはずの巡礼の小父さんもそうだが、安良が金づちで水に入らないのもすでにそうである。 泳ぐことを知らぬという“口実”なしでは、彼は岩の上に這い上がって「あちむき」で水の面に見入るセイレーンの誘いを受けたと信じ、とろりと澱む深い潭[フチ]に容易に身を投じたであろうから。そして渥美の死んだのと同じ淵にはまって死に、同時に岩の上に立つ幻影も消えて、物語は終了していたであろうから。

 潭を越える代りに彼は、「青く流るゝ水の光を悲し」み、そして幻覚のうちに渥美と擁き合い、手を取りあっての死を選ぶのだが、そこはさも恐しげに書かれてはいるが、「黒ずんだ杉林が、遥かに遥かに谷の底までなだれ下つてゐ」るので、「白い岩」にぶちあたりでもしなければ十分安良を受け止めてくれそうだ。

「『死ぬのだ』といふ観念が、二人の胸に高いどよみをつくつて流れこんだ」り、「氷の如き渦巻火」というオクシモロンが流れとなって「二人の身うちを唸をあげてどよめきはしつた」りと、まるで実行されなかった入水の代りを修辞が務めるようなクライマックスは、こうして、渥美が消滅し、安良が真実を思い出すことを予感させて終る。

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別セリー

『釋迢空ノート』メモ 
by kaoruSZ | 2015-10-18 12:00 | 批評 | Comments(0)