おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

マグリットの《女》――それは女ではない

 国立新美術館のマグリット展に行ってきた。今回の展覧会のポスターや図録の表紙にもなっている、無数の正装した山高帽の男が空中に浮いている『ゴルコンダ』――一見、クローンのような、取り替えのきく複製の男たちのようだが、よく見るとそうではなく、一つ一つ違った顔を持つ。マグリット自身、「それぞれ違った男たちです」と言っていた。「しかし、群衆の中の個人については考えないので、男たちは、できるだけ単純な、同じ服装をし、それによって群衆を表すのです」

 これを読んで気づいたのは、彼の作品における男と女の逆説だ。男は「それぞれ違って」いる。だが、「それぞれ違った女」など(たとえ華やかに、個性的に着飾ろうと)、いるわけがない。どれも同じように見える男は、実は見かけの匿名性の下に独自性を保持しているのだ。

 たとえば、会場でこのすぐ前に展示されていた『傑作あるいは地平線の神秘』では、山高帽の三人の紳士の頭上に、それぞれ三日月がかかっている。これについてマグリットは次のように言う。「ひとりの男が月について考えるとき、彼はそれについての彼自身の考えを持ちます。それは、彼の月になります。だから私は、3人の男の頭の上にそれぞれの月がかかっているところを描いた絵を描きました。しかし、私たちは本当は月はひとつしかないことを知っています。」月とは女のことだろう。

「群衆」としての男たちは、それぞれ女について「彼自身の考え」を持つ。しかし彼らは「本当は女はひとりしかいない」ことを知っている。その女とは、たとえばすぐ隣に掲げられた『夜会服』と題された絵の、裸の腰から上に黒い髪をふさふさと垂らした、後ろ姿の女だろう。男三人がてんでの方角を向いているのに対し、女は真直ぐに月に相対しているが、それは彼女が月そのものであり、月が彼女の鏡であるからだろう。男たちが「地味な、同じ服装」であるのに対し、彼女が豊かな髪しか纏わぬ裸なのは、ホモソーシャルな「群衆」の中で、彼女だけが、唯一、エロティシズムの対象として見出されるべき(逆に言えば、それ以外の人間はそのようにまなざされてはならぬ)ものだからだ。

『ゴルコンダ』についての説明(画家へのインタヴュー抜粋)を読んだ時、私には、それが「男たち」について語られたものでありながら、同時に、それまで会場で見てきた、妻の裸体を描いた彼の絵の秘密を明かしていると思われた。“彼の月”は、一目で見分けられる彼の妻の顔をしているか、そうでなければ全く別のものに置き換えられている。妻でない女は、彫像だったり、魚の顔をしていたり(周知の通り、マグリットの顚倒した人魚は、女の下半身と魚の上半身を持つ)、あるいは『凌辱』のように、トルソが鬘をかぶせられて女の顔を形成する。あの、乳首の眼、臍の鼻、性器の口を持つスキャンダラスな顔は、“女”には独自の顔などないことを、猛烈な悪意をもって私たちに突きつけてくるものだ。

“人魚”や『凌辱』の攻撃性は一目瞭然だが、山高帽の男の背中にボッティチェリの『春』のフローラの像を重ねた『レディメイドの花束』もまた、そのスキャンダラス性においてはひけを取らないと私には思われた。『春』は、西風に触れられたニンフが花の女神に変身した瞬間を描いたもので、原画でフローラの右にいる、いきなり西風に抱えられて怯えるニンフは変身前で、美しい花模様の優雅な羅[うすもの]を纏って踏み出した女神フローラと、実は同一人物だと読んだことがある。

 しかし、こうした解釈の己の絵への適用を、マグリットはあらかじめ拒否している。彼は、ただ山高帽の男の「一部を隠す」ものが必要だったのであり、ボッティチェリの人物を選んだのは、たんに気に入ったからだと述べている。ボッティチェリが彼女に与えた寓意的意味について読んだことはないし、読みたいとも思わないというのは韜晦とも考えられるが(自分の絵が『春』と帽子の男との結婚のようなものだと言っているのは、西風とフローラの結婚という、原画の主題を前提にしてのことだろうから)、「私に関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです」という言葉は、額面通り受け取られねばなるまい。「私は《春》のイメージを選びましたが、観念を選んだわけではありません」

 彼の選んだ「イメージ」は、一枚の紙片のように、何の深みもなく山高帽の男の背中に貼りついている。実際、それを複製画から切り抜いて貼ってもよかったはずだ。しかし彼はその「イメージ」を、「この絵の中のボッティチェルリの人物は、どの細部も正確です」と自ら保証する技術をもって、自らの絵の中に再現した。どの細部も同一だが、元のコンテクスト(「観念」「哲学」)から文字通り切り離されたそれは、「女のイメージ」のたんなる引用にまで価値を限定、縮小されることで、初めて彼の作品の中に存在を許されたのだ。

 結婚、と彼は言っている。この絵は《春》と帽子の男との一種の結婚だと。だが、この結合のよそよそしさはどうだろう。彼らは背中合せで、女は宙に浮いている。貼り付けたわけではないから、剝がすこともできない。それとも、これこそが、彼が結婚と呼ぶものなのだろうか。その顔は引用だから、もちろん妻の顔ではない。だが、対象に忠実に細部までゆるがせにせず再現したこの技法は、まさしく彼が妻に対して取っていたものである。ジョルジェットをモデルにした絵を見て分るのは、彼が妻を理想化していなかったことだ。無論彼女は、そのままでも十分美しい。モデルに忠実に描かれたフローラと同様、彼女は彼によってあらかじめ選ばれたものなのだから。

 今回の展覧会では、マグリットの撮影したホーム・ムーヴィーの上映があって、動く夫人の映像によって、彼女がどんなに夫によって忠実に再現されているかを確かめることもできる。マグリット夫人とともに詩人のマルセル・ルコントが登場するフィルムもあるが、この人は、あらゆるものが石と化している室内を描いた『旅の思い出』に姿をとどめている。石の蝋燭の石の焔が石の果物の置かれた円卓に光を投げ、石のライオンが蹲り、石の壁に、マグリット自身の絵画が額ごと石化して掛かる部屋で、 石の山高帽と石の本を手に立つ石の男がルコントなのだ。この“モデル”問題についてマグリットの言っていることが、『春』の場合と全く同じなのが興味深い。

「人物像は詩人のマルセル・ルコントを表していますが、肖像画を描くときに普通用いられる設定はとっていません。この絵に描かれた人物は説明のつく意味を持つことをやめており、ひとりの人物が自らの肖像画のためにポーズをとるという意味において、マルセル・ルコントがモデルを務めているというふうには考えないほうが妥当です」。彼はそう言っているのだ。彼はルコントを描いた。しかし“それはルコントではない”。ルコントは『春』の人物のようにただ引用されただけであり、ある人格の再現を目指したもわけではない、再現されたものはただのイメージだと、マグリットは言っているのだろう。

 マグリットの絵を次々見ながら、傍に添えられた彼自身のこうしたテクストを読んでいると、これらの断言は、ジョルジェットについても適用されるのに違いないと思われてきた。いや、彼女にこそ、マグリットの見出した“彼の月”にこそ、それはあてはまるのではないか。要するに、次のように彼は言い得たのではないか。「絵の中の人物像は 妻のジョルジェットを表していますが、肖像画を描くときに普通用いられる設定はとっていません。この絵に描かれた人物は説明のつく意味を持つことをやめており、ひとりの人物が自らの肖像画のためにポーズをとるという意味において、妻がモデルを務めているというふうには考えないほうが妥当です」

 つまりこういうことだ。『春』は、そもそもがイメージであるので、その一部を切り取って二次的に自らの絵の中に再現したものは、コンテクストを切断されたイメージの引用に過ぎないと主張することはむしろ容易だった(若い頃に手がけたコラージュによってではなく、絵筆をとってそれを行なったのは、自らの画業が現実の複製ではなくイメージの複製なのだという、メタメッセージに見える)。『旅の思い出』ではルコントが、マグリットがどこかの図版から丹念に(『春』の“人物”を写し取るのと同様の忠実さで)写し取ったのかもしれないライオンと同列のイメージに、あまっさえ石にされているが、これがスキャンダルでないのは、彼の変哲もない服装と帽子が、むしろあの浮遊する「それぞれ違った男たち」の一人にいつでも加わる資格のあることを示し、抱えた書物もまた、彼が「月について考えるとき、それについての彼自身の考えを持つ」主体であることを表すから、要するにそれが「男のイメージ」であるからだ。

 絵の女がどれも妻であること、さもなければ顔がなかったり怪物だったりすること、妻は美しいがリアルに描かれ、理想化がないことなどを、同行のtatarskiyさんに言うと、(マグリットの場合)「夢から覚めると奥さんしかいないのよ」、だから奥さんを描くのだという応えが返ってきた。なるほど、同じように女は裸で男は着込んでいても、ポール・デルヴォーの世界は、存在しない同じ顔の“夢の女”で埋め尽くされている。フェルナン・クノップフの場合は、モデルとして最愛の妹がいたが、構図通りにポーズする彼女の写真を見ると絵の方が数段美しい。マグリットにはそういうこともない。ジョルジェットには美化、理想化の跡がない。マグリットが十四の時、母は入水自殺した。十四歳で見失った女が二度と見つからなかったのよ、この人は美人画を描けないね、とtatarskiyさんが言う。

『レディメイドの花束』は、男にとっての女とは、文字通りレディメイドでしかないことを明かしていよう。背中に貼り付けた「イメージ」は“夢の女”のものではない。帽子の男の「一部を隠す」必要があり、たんに気に入ったから選んだとマグリットが言う「イメージ」は、引用元がボッティチェリだから意味ありげに見えるが(そうしておいて彼はその意味を否定する)、たとえばヘンリー・ダーガーが気に入って、切り取ってコピーした“アニメ絵”だったとしても同じことだ。ジョルジェットのことも無論マグリットは気に入ったのだ――少なくとも、『春』の“人物”と同じくらい。彼は繰り返し彼女を画布に再現することになるが、それもまた引用なのだろう。

 女(la femme)は見つからず、代りに彼は、彼の妻(sa femme)に出会う。妻のイメージに邪魔されて、夢の女が見えなくなっているのだろうか。妻とは、女と彼のあいだにつねに割って入ってくる、“月”を目指す彼の探求を、常に挫折に終らせる邪魔者ではないだろうか。圧倒的な妻のイメージが、それ以外の女のイメージを、排除し、見えなくしているのではないか。いや、彼女が隠すのは夢の女の不在だろう。彼女がポーズしてくれるから、彼は「本当は一つだけ」の月が上るのを信じていられる。

“女”は存在しない。なぜなら、その別名は男であって、男たちが自分の中には存在しないと信じて、外部に空しく投影する“月”であるからだ。だが、妻が存在する時、彼女は、男がそのことを忘れ、目の前にいる女が自分の幻想には全く同調しない知的な生き物であるのを忘れることを、優しく許してくれる(少なくとも、男はそう信じることができる)。彼女が存在しないとはそのまま彼自身が存在しないことであり、彼がその恐しい事実に直面しないでいられるのは彼女のおかげなのだ。
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by kaoruSZ | 2016-01-01 11:26 | 批評 | Comments(0)