おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

誕生の実演――谷崎潤一郎の『過酸化マンガン水の夢』

夢は永遠に類似物に帰着する類似物である。 モーリス・ブランショ

今朝、谷崎潤一郎の短篇『過酸化マンガン水の夢』(1955年)をはじめて読む。夢の生成過程を身辺雑記的リアリズムの文体でたどることが、そのまま、小説がいかに生成されるかの実演となってゆく驚くべきドキュメント。(2014年3月25日)


『過酸化マンガン水の夢』は、 谷崎と明らかに同一視される主人公が「予」の一人称で語る、「家人」以下、親族の女三人とともに上京した八月八日、九日の出来事と、熱海の自宅へ帰って見たその夜の夢の話である。「予」は、初日は女たちともども「日劇小劇場ミュウジックホール」の「ストリップショウ」を見たあと、田村町の中華料理店で夕食、翌日は、「アンリ・ジョルジュ・クルウゾオ」の『悪魔のやうな女』を日比谷映画劇場で見て、「大丸地下辻留」で鱧料理という、眼と口腹の慾をともに満たしたあげく、帰宅する。ところが、「御馳走の食ひ過ぎ」で腹が張っている上に、心臓に異状を覚える事態になり、不安を紛らわすため睡眠薬を飲んで「半醒半睡の境に入る」

「予」の身体的状況は、それまでに詳細に記述された「食べたもの」の結果だが、彼がその状態で見るものもまた、そこに至るまでに積み重ねられた言葉の結果である。二日に渡る美食は改行の無い文章でページをびっしり埋めていたが、不注意な読者にも分るように、ここでもう一度おさらいがされる。「鱧の真つ白な肉とその肉を包んでゐた透明な半流動体」という記述は、「白い肉」つながりで、日劇の舞台の「実演」で入浴シーンを演じた春川ますみ(「予」が一番魅せられた娘)を呼び起こし、さらに、「葛の餡かけ………ぬるぬるした半流動体に包まれていたのは鱧ではなくて春川ますみ」とあからさまな重ね合せがなされる。この、類似による横滑りが、言葉の、そして夢の技法であるのは言うまでもない。彼が見た映画の記憶もまた、「昼の残滓」としてこの生成に奉仕する。

「校長ミシェルが浴槽にゐる。シモーン・シニョレの情婦がミシェルを水中に押し込んでゐる。(…)濡れた髪の毛がぺつたりと額から眼の上に蔽ひかぶさり、その毛の間から吊り上つた大きな死人の眼球が見える」――『悪魔のやうな女』の冒頭には、見ていない人に結末を言うなという断り書が出たという。そう記しながら、平気で「予」は、食べたもの同様、懇切丁寧に、誰が犯人かは勿論、映画の細部に至るまで、微に入り細をうがって描写し尽しているのだが、これは、それらが鱧や中華料理と同列の夢の素材として、徹底的に利用されるからこそである。

 夢と言うよりは「半醒半睡の」入眠時幻覚として(といっても、そう思っている時すでにそれは夢なのだが)現れてくるものは、回想であるとと同時にその場で生成される幻覚、スクリーンに見る物質的な投影と主観的には変ることのない現実性を持つイメージだ。それを実況的に語りつつ、「その時もう一つ奇怪な幻想が這入つて来た」と「予」は告げる。「もう一つ奇怪な幻想が」――それは「予の書斎」の、「予の専用の水洗式の洋式便所」の便器の中の情景だ。ここで、今食事中の方はと断った方がいいのかもしれないが、しかし「予」自身も、「日本式水洗ではあまり露骨で見るに堪えないが、洋式のものは水中に沈んでゐるのでアルコール漬の摘出物を見るやうに冷静に観察し得る」と言っているし、私自身、パン屋兼カフェのカウンターでパンを食べ終り、珈琲の残りを飲んでいる時、このくだりにさしかかったが問題はなく、後述するように、夢の中の物はつねにそれとは別の何かなのだから、諒とせられたい。表題の「過酸化マンガン水」の名がここではじめて出てくるのだが、それがたとえば足穂風の理科趣味として受け取られることこそあれ、便器に注ぎ入れる赤い消毒薬だなどと誰が想像するであろうか。

 しかし、それはあくまで現代から見てのことであって、当時の人々には消毒薬として知られた名前だったらしい。つまりこの名前だけで、それが赤い液体の夢であることは当然理解されたものであるようだ。
 
 語り手は、過去に、「便通の度毎に水が真紅に染まるのに気づき」不安な数日を過したことがある。しかし、「それは朝食にレッドビーツ(サラダ用火焔菜)を好んで食べるのが原因であることが分り、安心した」。胃潰瘍の下血と違い、「レッドビーツの場合は実に美しい紅色の線が排泄物からにじみ出て、周辺の水を淡い過酸化マンガン水のやうに染める。予はその色が異様に綺麗なので暫時見惚れてゐることがある。その紅い溶液の中に浮遊してゐる糞便も決して醜悪な感じがしない」

「過酸化マンガン水」とは、ネット検索したところでは、「過マンガン酸カリウム水溶液」が誤ってそう呼ばれていたとのことである。 「分析試薬としてお馴染みの過マンガン酸カリウム水溶液も,その昔チフスやコレラなど消化器系伝染病の患者の排泄物の殺菌処理に使われました.谷崎潤一郎の「過酸化マンガン水の夢」という作品はまさにこの強い紅紫色がテーマになっています」http://www.kagakudojin.co.jp/special/qanda/index07.htmlと、恰好の解説があった。「過酸化マンガン水」とは、そもそもそういう用途に使われるもので、ここでも、その結果、水を赤く染めていたというわけだ。また、谷崎は「奇怪な幻想」と呼んでいるが、「予」は食べ過ぎでお腹が張っているのだから、ここで排泄物が登場するのは実はなんら不思議ではない。

「予」が「決して醜悪な感じがしない」と言うそれは、「他の物体の形状を思ひ起させ、人間の顔に見えたりもする」。そういうが早いか、たちまちそれは思ったものそのものになる。すなわち、「シモーン・シニョレの悪魔的な風貌に」変り、紅い溶液の中から「予」を睨むのである。「予は水を流し去ることを躊躇してぢっと視つめる」。すると顔は、「粘土が崩れ出したやうに歪み、曲りくねつて又一つに固まり、ギリシア彫刻のトルソーのやうになる」。シニョレの顔変じて、「高祖の崩後呂后に妬まれて手足を断たれ、眼を抜かれて 厠の中に置かれた」戚夫人、すなわち「人豚」になっているのを「予」は見る。

「予が過酸化マンガン水の美しい紅い溶液の中に四肢を失つた人間の胴体、牝豕(めすぶた)の肉のかたまりに似たものが浮かんでゐるのを見てゐると、『御覧、その水の中にゐるのは人豚だよ』と云ふ者がある。振り返ると予の 傍に漢の皇太后の服装をした婦人が立つてゐる。『あッ、この人豚は戚夫人ですね』と云つて予は思はず眼を蔽ふ。予は予の傍にゐる貴婦人が呂太后であり、予自身は考恵帝であることを知る」

「透明な半流動体」に包まれた「鱧の真つ白い肉」―「葛の餡かけ」―「ぬるぬるした半流動体に包まれていたのは鱧ではなくて春川ますみ」と、故意に混同され、ひとつながりにされた食欲と性欲の対象は、「予」によって消化され、というか、ほとんどどそのままの形で肛門から出てきて、過酸化マンガン水の紅い溶液の中に浮ぶ。これは男の出産の夢、昼のものとして重ねた言葉が変形されて作品をかたちづくるのと同様に、腹に食べ物を詰め込んだ結果、排泄物として形成された作品を、水中の異形のものとして見出す夢なのだ。血かと思われた水に混じる紅い液体は、レッドビーツであり、過酸化マンガン水であり、しかもなお分娩に際して排出される血液を含んだ体液でもある。その中に浮んでいるのは、彼の作品であると同時に、四肢を失い眼をえぐられた人間、すなわち去勢された彼自身に他なるまい。

 彼をそのような目にあわせたのは『悪魔のやうな女』のシモーヌ・シニョレのような女なのだろう。彼女は睡眠剤を飲ませた愛人を浴槽で溺れさせる(「予」が帰宅した夜、睡眠剤を飲むのと重なる。また、一日目の午後、旅館で昼寝をしようとして、暑さと建築工事の騒音のため、「已むを得ず」「久しく用ひたことのなかつた睡眠剤を少量服」したのもすでに伏線であった)。

 さらに、すでに引用した「その毛の間から吊り上つた大きな死人の眼球が見える」とはまるでバタイユの眼球譚のようだが、本当は、死人ではなく生きていた男 (ポール・ムーリス演じる校長ミシェル)が、殺された時と同じ恰好で浴槽に漬かっているのを、シニョレが、共犯として抱き込んだ校長の妻(夫は死んだと信じている)に見せ、するとミシェルが「満身にびつしより水をしたゝらしつゝ浴槽から立ち上」るので、心臓の悪い妻は白目を剝いてその場でショック死するが、この時ムーリスが「死に顔を一層怖く見せるために嵌めていた義眼を「両手を眼の中にさし込んで」取り出す」のは、観客の方が目を蔽いたくなる去勢の実演だったのである。

「予」が浴槽ならぬ便器の中に見出すのは、最初シニョレの顔であるが、これはもちろん、本当は自分であるのが偽装されているのだ。これに先立ち、東京から戻っていったん就寝した「予」は、傍の「家人」が夢にうなされ呻き声を上げたので揺り起こす。その後、彼自身が睡眠剤を飲んで夢の実況語りとなるのだが、在京二日目の午後、女達は「予」とは別行動をしながら、やはり日比谷映画へ行って同時刻に同じ映画を見ていた。しかし「予と約束した時間に遅れることを懸念し、中途で退場」したと聞いた語り手は、「いつたい家人は彼女自身が心臓が悪いと医者に云はれてゐ、平素ショックを受けることを恐れてゐた」ので、「中途で退場したところを見ると、矢張幾分ショックを恐れる気持があつたのかと察せられる」と言っていた。その時には他人事[ひとごと]だったものが全て、ここでは「予」にもかかわってくることになる。

 即ち、妻の心臓の弱さが彼にも伝染したかのように、「久しく起らなかつた脈拍の結滞」――「何か心臓に異状のあることが察せられあまり気持のよいものではない」が「起りつゝあ」ると感ぜられるのである。「過食する時に起り易い」と医師に忠告されていたそれは、「此の二日間の鮎や牡丹鱧や八宝飯や芙蓉魚翅の祟りであること云ふまでもなし」なのだから、作品の素材をぎっしりと詰め込んで腹を脹らせたあげくに〈女〉になって出産しなければならなくなるのは当然だろう。夢に先立っては、「家人」の心臓の不調に倣うかに、「胃の真上の鳩尾の辺」がピクリピクリとしたし、夢の終りで、「御覧、その水の中にゐるのは人豚だよ」と言われた時は「目を蔽ふ」しぐさをしているが、これは前日、映画館でミシェルが「両手を眼の中にさし込んでその義眼を取り出した時」、「予の隣席にありし婦人が微かに『あッ』と言つて顔を」蔽った身振りを正確になぞっているのだ。

 勿論それは、婦人に倣うしぐさによって自らを女性化すると同時に、「目を蔽ふ」身振りによって、逆に、蔽わねばならぬ眼が失われていないことを証明しているのであり、「予自身は孝恵帝であることを知る」とある通り、水中の女の顔(女である彼自身の顔)も、眼球損傷と去勢の不安を伴うミシェル‐人豚のイメージも己からは切り離し、最終的には帝である男としての自身を確認しているのだと言えよう。

 水中の顔は、これより三十七年前に発表された『人面疽』を思い出させる。若い谷崎の映画への強い関心を窺わせるこの短篇では、女優の膝に醜い男の顔が取り憑く。正確には、小説内映画としてそういうフィルムがあり、主演女優は身に覚えのないうちにそのような作品を撮られてしまったと主張する。女が「膝の腫物」にガーゼをあて、固い靴下をぴったり穿いていたにもかかわらず、人面疽が歯で靴下を食い破り「鼻から口から血を流しながら、げらげらと笑つて居る」というグロテスクな場面をクライマックスとするこの短篇について、野崎歓は次のように書いている。「美しい女の脚に隠された秘密の暴露とは、すなわち女の恥部の暴露であり、結局のところは性器の露出そのものではないか」

「ここで成就されているのは、自らが女性性器にとって代わり、恥部そのものと化すことによって、女性におけるファロスの不在をなおも隠蔽しようとする、究極のフェティシストの欲望なのである。しかもそのそのとき、彼はすでに四肢も胴体も失い、ただ醜い顔だけの存在となりはてて女の脚に張りついている。それはいわば度を越して去勢されてしまっ たものの姿なのだし、捨て去られたファロスが浮遊していって女の脚に取り憑いたという奇怪な図でもある」(『谷崎潤一郎と異国の言語』)

 一見して、『人面疽』のヘテロ‐男根中心主義[ファロサントリスム]は紛れもない。野崎は、女の顔の美と性器の醜の「不整合」こそがエロティシズムの源だという有名な言説も援用しているが、ここで抑圧されているのが《美しい男の顔》であるのは言うまでもなく、あらためて見るなら、ジョルジュ・バタイユは何とミソジナスでホモフォビックであることか。

 野崎は、バタイユについて、「女性性器の『おぞましさ』に拘泥するそうしたエロティシズム論には、いかにも古典的フロイト主義の分析をまぬがれないような、去勢コンプレックスや女性恐怖の影が色濃く落ちている」とコメントし、「ただし、おぞましさを『恐ろしい醜男』の顔で置き換える 「人面疽」の映画のシナリオには、さすがに谷崎的な「Masochisten」ぶりが横溢しているではないか」と谷崎ならではの特質を抽出し、さらにそれを映画技法そのものへと繋げる――「焼き込み」すなわち一度撮影した上にさらに別の絵を撮影する「二重焼き[ダブル・エクスポジャー]」が映画の驚異を可能にするというのだ。「そもそもここで語られている人面疽とは、まさに女の脚と男の頭の『ダブル・エクスポジャー』そのものではないか」

 間然するところのない論のはこびであるが、今私たちが問題にしている短篇を、これとともに読んでみたとするとどういうことになろうか。

 小説内映画「人面疽」は、これまでの引用でも分るように、勝ち誇るファロス(しかもそのクロースアップ)の、けたたましい哄笑で終るフィルムである。ガーゼや靴下で押え込まれていたのを食い破って出現してきたそれは、母の腹を破って出てきた胎児さながらで(のちの『エイリアン』での、口から強姦された男の胸を突き破って出てきた怪物の孵化をも思わせる)、確かに出産の一方法ではあるのだろう。 対する『過酸化マンガン水の夢』の「夢」では、男が水洗便器の中に、赤い液体に浸かった女としての自身を見る。それは女の顔から、胎児の不定形と可塑性のうちに変容し、手足を切断された「人豚」という肉塊になる。最後に、それは「戚夫人」と呼ばれ、見ている彼は「孝恵帝」と呼ばれて夢は終る。

 名づけることによるこの同定は、しかし仮のものでしかないだろう。“それ”は本当は何なのか。『人面疽』の「二重焼き」は、女の脚と男の頭にはっきり分けられるものを、たんに重ねたに過ぎなかった。観客の前に露出することのできない、見せることのできない女性器の代りに、ファロスたる男の顔が大写しになる。 だがこの場合、それと重ねて“エクスポジャー”された女の脚とは、そもそも女にファロスが無い事に耐えられない視線がそれに直面する寸前に見出したファロスの代理なのだから、なんのことはない、それはファロスの二重写しであって、女など存在しないのだ(だからこそ主演女優には、映画を撮られた記憶がないのだろう)。

 先程の引用において女性器は「秘密」「恥部」「おぞましさ」と呼ばれ、隠されるべき何ものかとして扱われていた。一方、男の頭――人面疽――の方は、 membreの切断という点で明らかに去勢を受けたものでありながら、頭部=男根という上下の入れ換えによって「捨て去られたファロス」でもありえ、 女性の「ファロスの不在をなおも隠蔽しようと」してその脚に取りつくが、それが隠すものは、(脚自体がファロスの代理なのだから)ファロスの不在でさえないだろう。『人面疽』において起こっていたのはこうした奇怪な事態であった。「鼻から口から血を流しながら」という「人面疽」の最期の姿は、 それが実は女性器であり、開口部から血を流しているありさまであると見ることが可能である。しかしそれは、通常、女性器とは受け取られまい。人面疽‐男の顔がいかに醜悪であろうと、それはスクリーンに絶対“エクスポジャー”されてはならない女性器のように「おぞましい」ものではついにありえないのだから。

『過酸化マンガン水の夢』においては、『人面疽』ではあからさまに流されていた血が、もはや血と呼ばれることすらない。最初血であることを心配された液体は、レッドビーツの色素へ、過酸化マンガン水へと横滑りして、男性(皇帝)であることを辛うじて保証された谷崎のまなざしの下で静かに“それ”を浸している。『卍(まんじ)』の光子が偽の流産を演じるのに血のりを使ったことを思い出させる、偽の血液に浸された、男根でも女性器でもないものが、その誕生の起源を語る物語を谷崎に綴らせた。『過酸化マンガン水』は、こうして作品の誕生の光景に私たちを立ち会わせるものになったのだ。
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by kaoruSZ | 2016-01-09 09:50 | 文学 | Comments(0)