おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(30)

意識的にあまり自分の興味内容・属性については表明しないようにしていたんだけど、正直に言えば私個人の実感としては「(大体20世紀前半以前の)男性同性愛文学・表象の愛好者」で狭義のBLや二次創作は守備範囲外なんだよね。でもまずはそういうポピュラーな裾野の部分とユーザーの女性たちを不当な差別や抑圧から絶対的に守らない事には、いろんな意味で状況が悪化していくのを止められないから微力を尽しているんだけど。そして“悪化”して何が悪くなるかと言うと、結論から言えば「女性が作家や内外の歴史や文学の専門的な研究者になること、優れた作品を書いたり研究成果を挙げることを極めて深刻なレベルで妨害することになる」から。

なぜかと言えば三国志や戦国時代等が典型的だけど、ゲームや漫画からのBL系二次創作を入り口にして、その国・時代や人物に興味を持った女の子がいた場合、彼女がもしその興味を伸ばすことを妨げられなければ作家や研究者として大成しうるだけの才能があったとしても、その“ジャンル”を牛耳っているミソジニー・ホモフォビア的な空気や具体的な権力を持った男たちから“腐女子”だと認定された途端に人間扱いもされないとしたら、彼女はそこで挫折するか、ミソジニー・ホモフォビアの空気に積極的におもねって“腐女子”を蔑視しつつ、“男様”のご機嫌を損ねず名誉男性として扱ってもらえる範囲に矮小化された作品・研究成果を発表するしかなくなるし、実際にそうなっていると思う。以前言及した実際に作家・研究者になっているような女性たちのヒステリックな“腐女子”蔑視も、そうしたミソジニー・ホモフォビアへのおもねりと自己嫌悪・同性蔑視の悪循環から抜け出せなくなった結果なのだと思う。でも皮肉なことに、どんなに“女”を排除しても、彼女が最初にそうしたものに惹かれた真の淵源である過去の国や時代の文化の中の男性同性愛そのものは消えてなくなる訳もないし、結果として何が起きるかと言えば「そうした過去の男性同性愛文化・表象・文脈等についてためらいなく言及する事が“正当に”許される主体が男性に限定される」という典型的な性差別状況。それもヘテロ男性の場合は「自分まで“ホモ”だと思われる危険が及ばない範囲のいわば“小ネタ”として」ゲイ男性の場合は「彼の属性からして当然の興味や“人種”的なアクティビズムの一環(分離主義)」に自ずと限られ、男性同性愛そのものが本質的に持つ“男女”というジェンダーの階級性(=文化的な“意味づけ”への依存性)やセクシュアリティそのものの生得性を問い直す契機は著しく失われるし、何よりもそれと極めて深く本質的に関連する、狭義の男性同性愛表象に限定されないエロティシズム・文化そのものにとっての“男の女性性”の重要性へのタブー視を必然的に継続・延命させることになるだろう。

要するに「ゲイはゲイ、ヘテロはヘテロ、男は男、女は女」という身分差別・アパルトヘイト体制(ホモソーシャリティ)を維持するためには「男の“ホモ”エロティシズムに魅力を感じ、場合によってはそこから更に知的な興味を持つ女」の存在など絶対に認めるわけにはいかない危険分子でしかあり得ず、だからこそ彼女たちは差別体制の既得権者たちから苛烈に蔑視・排除される事になるのだ。そんなくだらないホモフォビアと女性蔑視のために、彼女たち一人ひとりの尊厳と自己実現の可能性が毀損され続けている現実は、断じて是認するわけにはいかない女性への差別そのものであり、“今”状況の是正と改善に努力しない限り、決して自然に改善することはないだろう。どう考えてもそのための具体的な取り組みの方が、“フェミニズムの精神の表現”だの“女性同士の絆”だのと称して過去の作家や作品を「フェミ的に称揚する」よりも遥かに重要かつアクチュアルなことだと思うが、未だに“フェミニスト”の多くが狭義のBLを“道徳的な留保”抜きで承認することにさえ躊躇しているようでは、先行きは暗いと言わざるをえない。

余談ながら、先述したような男性同性愛表象に関しての作家・研究者への差別・ハラスメント行為については、ネット上のアマチュアながら私自身もトールキン作品やホームズ物に関して被害にあったことがあるし、折口信夫の女性研究者が暗に“腐女子”扱いで揶揄されているのも目撃したことがある。今時折口が実際にゲイだったことを知らない人はいないと思うが、そうした事実が知られている作家についてすら、ある種の男には“女ごときが”男の同性愛に関心を持つことなど、「研究者であってすら(あるいは研究者になる程関心を持つこと自体が)蔑視・揶揄されて当然のはしたない行為」なのだろう。

嘆かわしい状況や展望の暗さはそれとして、これからも個人的な思索であれ批判であれ、日々できることを続けるしかないのだろう。最後になるが、私は男性同性愛の表象とそれに女性が関心を持つことに対する差別の根源的な要因として、ホモフォビアやミソジニーという“現象”より更に深い部分に、“性的なもの”と“知的なもの”との分離という、実はそれこそがヘテロセクシズムと“男性”の主体化の要である規律への侵犯があると考えている(以前まとめて書いているので以下を参照のこと)
http://kaorusz.exblog.jp/18345164/
http://kaorusz.exblog.jp/19518802/
言うまでもなく“女性”とはそうした“男性の主体化”の都合から生じる抑圧によって“性的な存在”として規定されたものである。だからこそ女性が男性同性愛の表象に興味を持ち、“女性”として規定されたものから外れることは「女性が知的な主体としての自分を生きること」そのものでもあるのだ。

女性が知的な主体としての自分を生き、彼女が望みうる知的な自己実現を成し得るためには、彼女の性的な自己への愛、彼女の性的なファンタジーが、男や彼らが作り上げた差別的な社会によって攻撃され抑圧されることがあってはならない。女性の同性への信頼も、それが守られてこそ真に存在しうるだろう。
[PR]
by kaoruSZ | 2016-03-01 15:00 | 批評 | Comments(0)