おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

遊び、表象、「安全な場所」

「偽日記」4月22日分に次のような記述を見つけた。書いている人が画家なので、このあと話はタブローの大きさへと向かうのだが、私は、ありがちな言説——「当事者ではないのでファンタジーとして楽しめる」への反論に援用できると思って読んだ。

 まず、「偽日記」より。引用が長くなってしまうが、すでに一度対談をまとめた文章なので省略できない——。

●樫村春[ママ]香は、保坂和志との対談(「自閉症・言語・存在」)で、表象=遊び(「現実」とは異なる次元としてのフィクションや作品)を可能にするのは「能受の自由な変換」であり「行為の反転」であると言う。つまり、母親から殴られた(受動)子供が、今度は人形を殴る(能動)というような形で行為を反復する、ということの出来る能力が、表象=遊び(隠喩)という機能を使えるための基礎となる、と。このような能動と受動を行き来する行為の反転的な反復は、たんなる反復よりもずっと高度で複雑な脳の演算過程を必要とする。だから例えば猫はこのような反転的反復を行うことが出来ず、よって、子猫が母猫の尻尾で遊ぶとき、それは厳密には(表象の基礎となるような意味での)遊戯とは言えない、と。それに対し保坂氏は、でも猫は遊びと本気では爪が出ているか出ていないかで違うのだと言う。それに対する樫村氏の応え。
《でも自衛隊が模擬弾で演習する時、けが人が出ないように細心の注意をするが、遊びではない。ここには本当の戦争と同じ身体支出があり、猫の「遊び」も一緒です。真の遊びの要件は行為の空間的、エネルギー的縮小と、その結果たる時間的縮小、演劇化、全課程の先取り的捕捉です。》《行為の縮小と表象があるからこそ、遊びは全能感を与え、幻想と自我の基盤となる。猫が遊んでいる、と感じる時、この幻想的躍動感を人は猫に投影し、だからそれを見て快感がある。つまり猫と人の縮尺の違いが行為の縮小の代理となるが、人はそれに気づかない。ティラノザウルスが母親の尻尾を本気で追っている現場に遭遇した気持ちを想像して下さい。その時も、なおそれを「遊び」と感じるとしたら、それは安全な場所から、頭で、彼らの運動全体をうまく捕捉した時です。つまり自分の表象能力が遊びの感情を生んでいる。》
ここには、作品、あるいはフィクションという次元について考える時の、非常に重要な指摘が含まれているように思う。
●現実そのものとは別の次元に「何ものか」を立ち上げる「作品」というものが成立可能なのは、人間の表象(隠喩)能力に依っていることは間違いないだろう。そしてそれは、現実の、空間的、時間的、エネルギー的縮小と、それによる演劇化、つまり、全課程を先取りして、俯瞰的に一挙に把捉可能にし、それを反復可能にすること(つまり現実を「隠喩」として捉えること)によって、成り立つ。それは人に「安全な場所」(自分が居る、今、ここから離れた場所)から物事を見、快楽を感じたり、悲しみや哀れみという感情を生じさせたりすることを可能にするだろう。そのような現実のミニチュア化によって、人はある安らぎと感情を(そして「世界観」を)得ることが出来るのだが、しかしそれは、まさに「現実」によって常に脅かされ、不安定に揺らいでいる。「作品」と呼び得るような作品とはおそらく、このような表象=隠喩としての「幻想(症候)」を強固に構築しようとする強い志向性と同時に、その「幻想」を常に脅かすて突き破ろうとする「現実」の感触にも晒され、強く引っ張られているという、相容れない異なる由来をもつものだと思われる。


 樫村晴香の発言の最初の部分は、言うまでもなくフロイトの有名なfort-daの応用であり、マゾヒズム的コントロールという点からも興味深い。ベルサーニ的昇華-遊びの概念ともつながってくる。しかし、私が今注目したいのは、「偽日記」の作者がパラフレーズしている「それは人に「安全な場所」(自分が居る、今、ここから離れた場所)から物事を見、快楽を感じたり、悲しみや哀れみという感情を生じさせたりすることを可能にする」というところだ。これを、たとえば次のような文章(この連載自体は好き)と較べること——

友人は、ボーイズラブの同人誌を買い込んでいた。あたしはこういったやおいものにハマらず、同人活動もしない、ぬるいオタクだったのであるが、読めば、確かに心地いいのである。傷付きやすい、美少年カップルの物語。彼らはその繊細さから、誤解やすれ違いを繰り返すが、心は常にお互いを想い合っているのである。これがもし、男女のカップルの物語だったら、あたしは「ありえね〜よ!」 と、本を放り出すだろう。しかし、美少年同士であれば、あたしは最初から当事者ではないので、ファンタジーとして、楽しめるのである。

 こうした発言の意味するところはわからないわけではないが、しかしいかにも物足りない。ぬるい 。「当事者ではない」とか、「ファンタジーとして」といったすでに人口に膾炙した決まり文句が、厳密に思考することを妨げている。むしろ、フィクション化するとき、人はつねに「安全な場所」(自分が居る、今、ここから離れた場所)から物事を見て いるのであり、それは男女のカップルだろうが「当事者ではない」組合せだろうが同じなのだと知るべきだろう。

東京ウィメンズプラザの図書資料室がおかしなことになっているは、あとで(「カルチャー・レヴュー」に映画の原稿を送ってから)書きます。
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by kaoruSZ | 2005-04-29 06:51 | やおい論を求めて | Comments(0)