おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

猿の(死なない)生き肝

 ボルヘスの短篇で(ボルヘスの長篇というのはありえないわけだが)、死ぬ間際の詩人が、自分の詩が世界に替わる調和の取れた小宇宙などではなく、世界の渾沌にもう一つ渾沌を加えただけだということを悟るというようなのがあったと思う。こうして記事を書きつづることも全くそうで、書くことで考えが整理されるかというと、そういうことはあまりない。書いたことも片端から忘れ去る始末で、だからといって何も書かずにいたって思い出せはしないのだが。
 それでも書くのは、外部に刻みつけるのは、書かれたものが〈猿の生き肝〉だからだろう。猿の生き肝というのは——子供の頃親から聞いた話で、龍宮の乙姫様が病気になり、治せるのは猿の生き肝だけだというので、クラゲが島に住む猿のところへつかわされる。そして、猿をだまして背中に乗せて龍宮へ向かう途中、本当の理由を話してしまう(クラゲは実は、生き肝の何たるかを知らない。子供も知らないので、親に説明してもらう)。これは大変だと思った猿は、しかしあわてることなく、生き肝だったら洗濯してほしてきてしまった、取ってくるので一度島に戻ってくれと、言葉巧みに難を逃れる。

 子供にとってこの話は、〈生き肝〉を取られたら猿は死んでしまう、という事実によって怖いものなのだが、同時に、〈猿の生き肝〉は竿に干された洗濯物として相変わらずハタハタとはためいてもおり、それゆえ安堵できるものでもある。実際には猿が助かったのはとっさの機転によってだが、子供の想像力の中では、猿が殺されずにすんだのは、いくぶんは、生き肝が彼の体内ではなく、他の場所に置かれていたことによってであるかのようなのだ。つまり、こういうことだ——猿がもし龍宮に連れて行かれたとしても、生き肝が洗濯竿に干されていれば、誰も猿からそれを奪うことはできはしない(逆に、龍宮の連中が島に上がって、勝手に生き肝を取って行ったら万事休すだが)。

 要するにこれは一種の外化された生命——それを破壊されると本体も死んでしまう——であって、アンデルセンの『ある母親の物語』で、死神の花園に植えられている花のを引き抜かれるとその花につながる人間も死んでしまうというのが怖かったのもこのせいだ。自分の知らない、力が及ばないところで生死が決定されたのではたまらない——とはいえ、花を抜くという行為なら傍にいて阻止することができるかもしれないが、私たちは最後には力及ばず、自らの身体の中で——身体によって——身体そのものとして——滅びるのだから、結局同じことなのだけれど。

 猿の生き肝のことを思い出したのは、しばらく前、デリダの『パピエ・マシン』上巻(ちくま学芸文庫)を朝の地下鉄の中でぱらぱらと読み(フロイトのマジック・メモや、エクリチュールのシュポール[支持体]の話のあたり)、地上へ出て歩き出したときだった。生き肝としてのエクリチュール。しかしこの生き肝は、死神の花園の花のように〈本体〉とつながってはいない。それは作者の生死にかかわらず、作者を死なせ、自らは生き、不死となる。猿の生き肝化、それは思考の外化、自分自身(との一体性)からの疎外、そして読まれることの可能性のはじまりだ。
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by kaoruSZ | 2005-05-09 21:01 | 日々 | Comments(0)