おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

 互いにときめきも感じなくなった二人。取り返しのつかない哀しみが男から女へ、「たった一つの表情をせよ」とうたわせるのだ。数かぎりなくて一つきりの表情とはどんな表情か。それは恋人だった者だけが知っている。

 読売新聞の朝刊二面右下に「四季」と題した、短詩を一作ずつ短文(上に引用したので全文)を添えて紹介する、気がついたらはじまっていた欄があって、わりと面白い。筆者は俳人の長谷川櫂(面白かったので、たまたま目についたこの人の俳句の本も買った)。忘れないときは読んでいる。カラー写真もついていて、その日の作品に出てくる事物が提示される。dogという単語に添えられる犬の絵のように、百科事典的に示されるイメージ——たぶんこの連載の写真について私の気に入っているのはそこなのだろう。

 さて、今回、上に引用した文章(5月15日付)は、タイトルとした短歌(作者は小野茂樹)についてのものだ。これを読んで私が真先に思ったこと——これって倦怠期の夫婦の歌だったの? 私はこの二人はすでに別れており、それでも相手を思いつづけているのだとばかり思っていた(相手の生死にかかわらず)。

 あらためて読んで、基本的な感想は変わらなものの、長谷川の文章に対する私の読みはすでに解釈であったのだと気がついた。「互いにときめきも感じなくなった二人」は、常住坐臥をともにしているわけではなく、今は遠く離れていて、それでもなお「表情をせよ」と呼びかけている。筆者はそう述べていると解してもいいわけだし、そうした二人が何かの拍子に再会したときの、一方からの心中の声だと言っているともとれる。

 そうすると私の感じた違和感は、一つには私が最初思い込んだような倦怠期の夫婦か別れた恋人かという問題にではなく、ロマンティシズムとリアリズムの対立に基づくものだと考えられる。私はどうもリアリズム的読み方が苦手で、そのためかえって、自分が見逃してしまうそうした読み方に目を開かされることがあるのだ。以前、『三國史遺文』のあとがきに取り上げた例を以下に記す。

 実はこれは、 「指の間[ま]をこぼれる蜜に気づかずに人は静かに老いに入りゆく」 という短歌のパラフレーズです。NHK教育TVの短歌の時間で偶然目にした視聴者からの投稿作品で、その場で書き取ったわけでもないので、作者にはまことに申し訳ないのですが表記は完全に正確でないかも知れませんし、作者がどなたかもわからないのですが、私が注目した(というか、他のことをやりながらTVを聞いていたのが、突然、目も耳も集中した)のは、その回のゲストが、これはリアリズムの歌ではないかと言い出して、撰者(春日井建だったと思います)もそれに賛成し、そのほうがいいと言い出したときでした。
「指の間をこぼれる蜜」のロマンティシズムにしか反応せずに、(甘美な、大切なものを見のがし、失いながら人は老いてしまうものなのだなあ)という感慨だとばかり思った私は、一人で読んでいたならリアリズムなどという発想は間違ってもしなかったに違いないのですが、番組では、これは老いのため、蜜が指をつたっているのに気づかないのだろうと言っていました。 私もなるほどと思い、そう解釈したときに一首の趣ががらりと変わるのに驚きました(かといって、最初の読みを捨て去る必要もありますまい。たとえ、「作者の意図」と完全に食い違っていようとも)。

 短詩形特有のこうした具体的〈もの〉への即しかたが、私にはかなり好ましく思われる。「四季」欄に添えられた写真の面白さも(すでに述べたように)そこにある。その意味では、今回の写真の選択は通俗に堕して凡庸だ(手短に言葉で描写するなら——夕陽が沈もうとする逆光の海辺に男女がシルエットとなって立ち、水平線は斜めに傾いている)。それは、この歌が実はきわめて抽象的であり、イメージに置きかえることができないからで、だから、ふさわしい写真を選びえなかったことは小野茂樹の栄光でもあろう。

 この記事からはもう一つ連想したことがあるのだが、それはまた別の機会に。


後記; 何連想したんでしょうね、私。
    さっさと書かないから忘れちゃったよ……。
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by kaoruSZ | 2005-05-21 11:25 | 日々 | Comments(0)