おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

LE LIVRE A VENIR

 七月一日から何年ぶりかで通勤定期を使っている。銀座から地下鉄に乗るのに切符を買うのを見た人に、毎日仕事に行っているのに定期を持たないのかと言われ、定期券というものがあることを思い出した(二月後半から、やむをえず毎日出ている)。「カルチャー・レヴュー」に一日、『ミリオンダラー・ベイビー』について書いた[読んでくださるのでしたら——Chat Noir Cafeのロゴかエキサイトのリンク(ブログ版)で跳べます。「カテゴリ」欄の「寄稿先」からも行けます ]。プロフィル欄の内容を考えているひまがなく、ブログを読んでもらえばと思い、十三日を最後に停止しているブログを再開と書いたが、時間がとれないでいるうちまた一週間が経とうとしている。

 オフィスの机の下に押し込んだ千疋屋の巨大な紙袋に私物の本がつまっている。最初からそこに置こうと思ったわけではない。電車の中で過す時間をやりすごすため朝一冊手にしてきて、帰りには荷物が多くなるからと置いていったのが大半だ。中には、昼休みに買ってざっと目を通し、そのまま持ち帰らなかったのもある。持って帰っても場所をとるから、まず家を片づけてと思っているといつまでも持っていけない。中身を調べたものの、探していた本だけをより分けて、もう一度きっちり詰め直した。

 朝持って行くのはその辺にある本を適当にだが、先日、デリダの『パピエ・マシン 下』をそういう形で開いて、デリダがサルトルの『嘔吐』(本当は「吐き気」と言いたい)を十七歳で、木々に囲まれた公園の〈存在の充溢〉の中で昂奮しながら読んだと語っているのに出会った。私が『嘔吐』を知ったのもそのくらいかひとつふたつ下ぐらいのことだった。最初は高校の図書館でページを繰り、その後、サルトル全集が置かれていた(今はない。本屋にもない)荒川図書館で借り、のちに買って自分の本にした。『想像力の問題』も『ボードレール』も『存在と無』も読んで面白いと思い、すみずみまで理解できた(と思った)覚えがあるので、後年、サルトルがというより自分が何を考えていたのか知りたくて再読しようとしたが、そのときはもう見つからなかった。

『嘔吐』で今思い出すのは、例のレコードがかけられる行きつけの店で、女とダンスしている男をロカンタンが見るくだりだ。男は白いシャツに紫いろだったかスミレいろだったかのズボン吊りをしていて、それが動きにつれて白いシャツに隠れたりあらわれたりする。それを見て、「白」も「スミレいろ」も「ズボン吊り」も存在しないことをロカンタンは知る(のではなかったろうか?)。

 私が理解したのはこういうことだ。当時の私は対象を完全に描写する言葉を、白いシャツに見え隠れするスミレ色のズボン吊りという混沌を完全に再現する言葉を、私が見たものと同じものを読者に伝達する(描写の対象は外界とは限らず、私の「内面」だったりもする)言葉を探し求めていたのだが、そうした企図は誤っていた——少なくとも、向きが反対だったのだ。自分が今まのあたりにしているもの、生き生きとしたこの現在を、その独自性を、他者が共有することはけっしてないだろう。だが、「白いシャツ」とか「ズボン吊り」とか「スミレ色」とか「見え隠れする」とかいう変哲もない言葉を適切に(あるいは適当に)組み合せることで、何ものかを喚起することはできるのだ。ちょうど、サルトルのそれらの言葉が、結果として私にその情景を喚起しているように。

 こうした議論は、六月のきままな読書会で私が担当してレジュメを作った、スピヴァクのグラマトロジー序文(『デリダ論』平凡社ライブラリー)で展開されている話に通じるものだ。〈私〉が何かを感じて〈表現〉するのではなく、〈私〉そのものもeffectであり、「現前の住処そのものである知覚する自己も、不在とエクリチュールによって形成されている」(89ページ)こと。

 そうしたことを覚った瞬間はけっして一つではないが、その複数の機会のうちの一つが、私にとっては見え隠れする菫いろのズボン吊りの記述であった。何年もあとになって、私はブランショの「文学と死の権利」の中で、存在と言葉とが「切れて」いることがこのうえもなく明らかに言挙げされているのを読むことになるが、それ以前、ちょうど大学に入ってすぐか、しばらくしてかの頃は、『文学空間』に読みふけっていた。現代思潮社から出ていたブランショのもう一冊の本、『来るべき書物』を探して、ある日、駿河台の「書泉ブックマート」に入った(今と違って——といっても、あの界隈にはもうずいぶん足を向けていないから「今」はまた変ったかもしれないが——あそこの一階は文学書だった)。棚に見つからなかったので訊こうと思ったとき、白シャツと黒ズボンの制服姿(初夏だったのだろう)の高校生がレジの店員に近づくのが見えた。

「ブランショの『くるべき書物』ありませんか」と彼は言った。内心失笑しながらも、私は店員の返事に耳をそばだてた。高校生でブランショ読もうというだけでも感心ではないか(私自身も少し前までは高校生であったが)。そうやって男の子の後ろに立って、今は品切れだが半年ほどで入るという店員の答えを聞くことができ、数ヶ月先には、駒井哲郎の黒と灰色の装幀で出ていたブランショのあのもう一冊のずっしりとした本(学生には——まして高校生には——かなり高価な)を手に入れることができたのだった。
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by kaoruSZ | 2005-07-07 13:08 | 日々 | Comments(0)