おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

にわか成瀬通となる

 新文芸坐の成瀬特集昨日で終る。見られなかったのは『あらくれ』一本で、部分的に眠った(寝不足で)のはあるが、十四日間で二十七本見た。これでも三分の一に満たないとはいえ。
 記憶に新しいところから書く。昨日の最終日は『女の歴史』と『娘・妻・母』だった。またしても交通事故! そして交通事故!

 七日に最初に見た『女の座』(私がこれまでに見たことのあった成瀬作品は『鶴八鶴次郎』『歌行灯』くらい)では、後継ぎの息子があっさり列車にはねられて死んだが、『女の歴史』でも未亡人の育てる(た)一人息子(この設定も前者と同じ。母親はどちらも高峰秀子)は突然の交通事故で死ぬ。この〈結末〉を先に提示してヒロインの回想によって結婚や出産へと遡る、また、夫の友人だった仲代達也と再会する場面を見せておきながら、内実は隠しておき、彼らの関係を観客が知った上でフィルムの最後近くで開示するといった、これみよがしなストーリー・テリング好ましい。

『娘・妻・母』では、原節子の夫がこれまたあっさり交通事故で死に、夫との不仲から実家に帰っていた娘は、『めし』で上原謙が原節子の妻を迎えに来たように、また、『女の歴史』で高峰秀子を宝田明が迎えにきていたようには迎えにきてもらえず、『めし』では若妻だったがここでは数えで三十六で、しかしまだまだきれいだと言われる彼女は、ロマンス(仲代達矢との)や再婚(上原謙との)の可能性を持つと同時に、実家の厄介者となる。高峰秀子が嫂、兄が森雅之、草笛光子が妹、宝田明が弟で、笠智衆がほとんど無意味に登場し、『妻の心』や『杏っ子』がそうであったように何も解決せぬままに終る『娘・妻・母』は、『女の中にいる他人』や『乱れ雲』と同様、成瀬のキャリアの最後に属するマニエリスティックなフィルムなのだろう。

『女の中にいる他人』は犯人が(ほぼ)最初からわかっている倒叙ミステリで、しかも、犯人が妻や友人にいくら真剣に犯行を告白しても相手にされないアンチ・ミステリでもある。本来重要な物証であるはずのネックレスの(画面での)取り扱いずさんだし、草笛光子が、死んだ女の連れが小林桂樹だったと告げた直後に道の向うから小林がやってきて、草笛がはっとしてもう一度見直すと別人である、というふうに、観客を目撃者にしつつ(むろん、最初に歩いてきたのは本当に小林桂樹だ)、これも本来重要な証人であるはずの草笛の知覚を一瞬にして信用のおけないものにしてしまう演出見事。

 帰宅した小林桂樹を迎えるために、妻の新珠三千代が無表情だが真剣な顏で廊下をずんずんずんずん前進してくる(新珠三千代、何かに似ていると思っていたが、爬虫類だと気がついた。媒図かずおのヘビ女に実写で出演したら似合ったろう)。昨日の高峰秀子も、原節子の夫の事故を知らせる電話に出たあと、そうやって廊下を前進してきた。こうした廊下は成瀬作品に頻出する奥行きのある路地の変形だし、『浮雲』で森雅之が住んでいる安アパートの廊下は、そこで絶えず遊んでいる子供たちの存在のため、路地をも兼ねているかのような空間であった。

 上記の新珠三千代は、小林が帰宅したのであることを私たちが知るより先にこっちへ向かって唐突に歩いてくるのだが、このような、いってみれば途中を省略して〈先取り〉されたカットの例を以下にあげる。『秋立ちぬ』で妾の子である少女は、本妻の子である姉と兄に邪険にされる。次のショットが少女をとらえるとき、彼女はまだその場にいて思いがけない悪意に相対していると私たちは思うが、実は彼女はすでに帰宅しており、よそいきのまま、母親に向かって話しかけているところなのだ。『女の歴史』では、高峰秀子と宝田明の初夜の宿に床が延べられたあと、布団にひとり入っている高峰が映され、隣の布団からはいびきが聞えてくるが、キャメラが引くとそれは回想から戻って姑と布団を並べている現在のショットとわかって、観客の笑いを誘う。また、『おかあさん』の途中で画面に出る〈終〉マークもそうだろう。映画自体が終ったのかと思って立ち上がりかける者さえ実際いたが、続いてスクリーンには上映の終った直後の映画館が映し出され、終ったばかりの映画について香川京子らは言葉をかわすのだ。
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by kaoruSZ | 2005-07-23 15:13 | ナルセな日々 | Comments(0)