二次創作
2004年 09月 22日パロディとか翻案小説とかは皆そうだが、このように文学の中に文学が登場する 場合、作者は読者に対して、架空の話を提供する作者としてだけではなく、読者と自分が同じ文学を読んでいる読者どうしとして、親しげに目くばせしながら向き合っているところがある。作者と読者は、作者が話の下敷きにしたり引用したりしている、別の話の読者どうしでもあるわけだ。
引用したり読んでいる場面を出すぐらいだから、作者はその、引用する文学の愛読者なのは間違いない。「ミザリー」のヒロイン(つまりファンのおばさん)や「リチャードソン頌」に登場した婦人のように、ただ夢中で読んで満足しているだけでなく、その本や、自分のその本への愛を説明し紹介しようとする点で、一歩進んだ読者とも言える。
更に、中には、そうやって読んだ作品の後日談や裏話、番外編というかたちで、新しい物語や小説を自分で作ってしまう読者もいるはずである。
次がやおいの話。
……こういう作品を作る遊びは少女たちの間ではよく行われているし、もっときわどい内容のものもある。読んで、登場人物を愛し、その人の日常を思い描き、それをスケッチして見るという、甘くて淡い、危険な霧の中に、彼女たちはそうやってさまようのだろう。それは、もちろん、ある意味で猥褻だ。でも、それはやはり文学を味わうことであり、同時に文学を作ることだ。ここまで言ったら、私が最後に思いいたった危ないことの内容もだいたいわかると思うが、ポルノ小説を読んで自慰行為にふけるのも、あれは、それなりに空想の世界を構築するということでは、一つの創作活動なのかも知れない。)
もちろんそうだし、時間的にも先行している。むろん子供は、ジャンルとしてのポルノを読むわけではない(たんに遠ざけられているために)が、抑圧されていない子供なら、自分の欲望に合うものをひとりで見つけ出すだろう。