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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

私が生まれる前の歴史

 私がほんの子供だった頃、夏座敷で女客を相手に母が、片隅で遊んでいる私を指してこう言った。
「戦争中の話をこの子たちにしても、私たちがお祖父さんに日露戦争の話を聞いたようなものよねえ」
 そして客と母はさもおかしそうに笑った。
 私は内心気に入らなかったけれど、知らん顔で遊びを続けた。私は何が不快だったのだろう? 笑われたことだろうか? 母の社交のための、ダシに使われたことだろうか?(別の相手に向かって、それ以前にも母は同じ台詞を使ったことがあるのを、幼い私は思い出すことができた)。
 後年私は、たとえ笑われなかったとしても、彼女たちの〈物語〉に勝手に組み込まれたこと自体が不愉快だったのだろうと考えた。

 何年か前、「auntieが来ると昔の話が聞けるからいい」と姪が言っていると弟の奥さんに言われたことがある(auntieとは私のこと)。「昔というのはMちゃんが小さい頃のこと、それとも生まれる前のこと?」当時は十に満たなかった当のMにそう聞くと、生まれる前のことだという。〈生まれる前〉という恐ろしく大ざっぱなくくりの中で、彼女がわけても聞きたいのは、「戦争の頃の話」であった。小学校の担任から、おうちの人(祖父母ということになるだろう)にそういう話を聞いてくるよう言われたところでもあった。

 なんで若い私が(直接知っているわけでもない)こんな話をしなくちゃならないんだ! とぼやきつつ、すでにない母に代って、戦後まもなく昭和天皇が全国行脚をしたときに、豊橋駅に来るというので祖母が母に、カボチャにごはんつぶのまじった弁当を持たせた話をしてやった(「ごはんにカボチャが混じっている」のではないと母は強調したもので、要するにそれが通常の状態だったわけだ)。「天皇陛下に見せておいで」と祖母は母に言ったそうだ。そういう話が聞きたかったんだとMは喜んだ。大変な人出で、天皇はあっという間に通りすぎ、弁当を見せるどころではなかったという。

 上京して靖国神社へ参るためにはじめて靴というものを履いた(そして足に豆を作った)祖母は、日本遺族会会員であり、靖国神社の国家護持を望んでいたが、それは、お国のためと言って戦争へ行かせたのだから国で面倒を見るのが当然だという、至極シンプルな考えからだった。とはいえ、上記のエピソードからも窺えるように、単純でも従順でもけっしてなかった。祖父の戦死時に台湾新聞の記者に対してひとことも語らなかったのに、部下の家族を思いやる未亡人の言葉を捏造された経験から、新聞は信用できない(取ってあった記事の現物を私に見せてそう言った)と知っていた。子供たちを学童疎開へやるのを拒んで、一家で台北にとどまった(「そんな度胸のある女の人はほかにおらんかったよ」とは本人の弁だ)。

 しかしここでは祖母の話をしようというのではない……Mが聞きたがった昔の話、〈生まれる前の話〉について書きたかったのだ。成瀬巳喜男の映画を見ていて、「歴史」とは自分の生まれる前の時代のことだというロラン・バルトの言葉を思い出し、その出典の『明るい部屋』で原文を確かめようと思いつつ確かめられずにいる。だが、読んだ当時必ずしも腑に落ちていなかったこの文句について、「歴史」とはhistoireだから「物語」と解してもいいのだろうとは気がついた。

 子供にとって〈生まれる前〉とは非常に遠い、自分の生きる現在とは質的に異なる世界のように感じられるものだ。目に見える断層が彼処と此処とのあいだには生じており、私たちは決定的に新しくこの世に生まれてきたかに思われる。だが、本当はそこには何の指標もなく、前もあとも地続きなのは、すでに子供でない者ならば誰でも知っている。〈生まれる前〉とは、その中へ生まれ落ちることによって、私たちがあらかじめ——それと知らぬうちに——絛件づけられている〈物語〉なのである。

 成瀬の映画を何本か見るうち、「女たちの絛件」という言葉が浮かんだ。これはたとえば「結婚の条件」という場合の用法ではなく、human conditionという場合の意味——要するに当時の女たちが避けがたく置かれていた状況のことだ。

『女の座』の高峰秀子が、夫の死後も大家族の中で確たる居場所を得ているのは、何よりも後継ぎの一人息子の母だからだ。そのことは、最後に用意されている息子の事故死でドラスティックに明らかになる。道路拡張の補償金(開け放った座敷や庭を持つ商家はそれによって消滅する)のおこぼれを期待する夫のきょうだいとその配偶者から、彼女は再婚を勧められるが、その際流用されるのは、家の犠牲にならずに自分の幸せを追求せよという最新の言説である。だが、実家に帰っても嫁に行った女の居場所はもはやないから、実のところ極めて現実的な話として、主婦を続けてきただけで何の職業も持たぬ彼女は、もし婚家を出るなら生活のために結婚するしか道はないのだ。

 風通しのよい家(文字通り)に住む大家族は、今となっては懐しく思われるもするだろう。同じようにその解体を描きながらも、たとえば小津の場合はより普遍性の側にいるように思えるし、『鰯雲』のようなフィルムは、「民主主義」の空気(長男による独占相続がなくなり、誰もが財産の分割を主張するようになった結果、ここでも物理的に「家」の存続は不可能になる)をより濃厚に感じさせる。50年代から60年代初めにかけての、女と家をめぐる成瀬のリアリズムは、私がその片隅(かつ、ただなか)に生まれてきた日本社会のconditionおよび当時の人々が生きていたイデオロギー=物語を、再認識させてくれる。

 たとえば——外地から引き揚げてきた戦争未亡人が長男である夫の実家に戻ると、義弟たちは彼女と子供たちに財産を渡すのが惜しくなり、養子に行った弟まで戻ってきて彼女たちを迫害する。彼女は子供たちを連れて町に出て母子寮に入り、上の二人の娘は農協と市役所、自身は市場に職を得る。そこで彼女は市場の工事のため東京から長期出張しているという青年と言葉を交わし、こういう人が娘の婿になってくれたらと思う。

 末の子が学齢に達したので一家は母子寮を出なければならない。土地を借りて家を建てようと長女が建築事務所に見積りを頼みに行くと、そこで応対したのは偶然にも東京の青年である。素敵な人だけれど自分には手が届かない、と娘は思う。普請は別の業者に頼むことになるが、娘が通勤時に前を通る家には偶然にもあの青年が寄宿している。ある朝彼は家の前に姿をあらわし手紙を差し出す。二人は毎夕橋の上で待ち合わせ、歩きながら話をする。新築の自宅から未亡人の母親がそれを見ている。

 二年待ってくれと青年は言う。彼は地主の末っ子だったが、今では腹違いの長兄の所有である生家の焼け跡に建つ二間きりの家に、実母と戦争未亡人の姉とその幼い娘の四人で仮住まいの身だ。娘を妻として迎えるには、長兄が母を引き取ってくれることと、姉の再婚を期待しなければならない。すでに結婚した兄たちは土地と店をもらって分家しており、一人だけ上の学校へやった末っ子には庭付きの家でも建ててやろうと言っていた父親は戦争中に亡くなった。兄姉の結婚相手はすべて亡父が決めており、彼はほとんど孤立無援だ。引揚者の娘などもらわなくても資産のある家と縁組できると言われた彼は、絶対に嫌だ、一生のことなのだからあの女(ひと)でなければと日記に書きつける。休暇のたびに彼は未亡人と子供たちの家を訪ねるが、二年待ってあなたと一緒になれなければ女である娘は婚期を逸することになるのだと母親は迫る。あるとき、帰京する彼を見送りにきた娘は、そのまま列車を降りずに東京までついて来てしまう……。

 シナリオにするには偶然の出会いに頼りすぎているような……だがこれは成瀬の映画ではない。私の両親のhistoireだ。小説や映画でしか知らなかった恋愛を自分は今しているのだと、私の(未来の)父は日記に書いている。私が生まれる前の〈映画〉と彼らの〈恋〉もまた地続きであったのだ。
by kaoruSZ | 2005-07-27 20:31 | ナルセな日々 | Comments(0)