おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

二十世紀後半の東京の幼年時のために

 『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』
  (浅井編訳、久保訳・ちくま学芸文庫)

  新訳によるベンヤミン選集最終巻の白眉は、何と言っても「一九○○年頃のベルリンの幼年時代」だろう。六十年前に書かれた異国の、当時でさえすでに過ぎ去っていたこれらの断章、これらの細部は、なぜかくも心騒がせあるいは心に沁みるのか(「二十世紀の到来とともに滅んでしまった」パノラマ館が、最後の顧客となった子供に呼びさましたのが、見知らぬ国への憧れではなく、家郷へのそれであったように?) 幼年時代を照らした月が昼のベルリンの夢の空に君臨するとき、それは逆説的に、幼年期の終りを告げるものとなる。地球が引き裂かれ、あらゆる物が彼方へと連れ去られようとするカタストロフの中で子供は目覚め(夢の方は、「終着点を見逃して」持続したにもかかわらず)、「子供の私が経験してきた月の支配」が「私のこれ以後の全生涯にわたって崩れ去った」ことを知る。夢は終らないのに子供は目覚めてしまった。終ることのない幼年期は、以後、たとえば「字習い積み木箱」の中にひそみ、追放された人はペンを片手に過去の方へ身をかがめ、「手が枠のなかに文字を押して言葉になるように順々に並べた、その指使いのうちに」全幼年時が横たわる、と(そのようにして覚えたわざで)書きつける。文字と指の記憶は、だが本当はたんに「この感じ」としか言えぬ、本来名づけえぬ、私たちには知りようがなく彼とともに滅びるより他ないものだ。しかも、積み木箱は幼年時代と一体であったとしても、そうやって文字を再び学び直すことはもはや彼自身にもかなわない。この二重の隔たりのうちになおも喚起しようとするいとなみこそが書くことだという徹底した自覚、それがこの作品を、著者自身の控えめな予測通り、大都市で過ごされた幼年時の記憶の原形たらしめている。
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by kaoruSZ | 2004-09-22 17:26 | 批評 アルシーヴ(文学)